幕末維新なんでも情報
維新三傑(木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛)の書を語る ★ 西郷隆盛 見利勿全循 斉過枯之己 同功売是人 平生偏勉力 終始可行身 南洲 世間が嫌うことを英雄はかえって好むものだ 困難を避けず、利に目がくらむな 失敗した時は自分を反省し、成功した時は 他人のおかげだと思え 常にそのような心持ちで励むべし 南洲(西郷の雅号) ★ 大久保利通 水関不鎖鷗眠穏 十里長江載夢過 甲東 (ようやく維新がなった)京の地にいる 感慨もひとしおだ 今宵とまぶねでどこへ行こうか 川の関は鎖されることもなく かもめも安心してぐっすりと眠っている 夢いっぱいの心持ちで淀川を通り過ぎていく 甲東(大久保の雅号) ★ 木戸孝允 踏破路横斜 今朝風雪 信州地 千岳万峰総是花 信州途上 松菊壮士 剣を携え軽い装いで家を出て (春の)山道をやってきた ところが今朝信州に着くと 雪が風に舞っている 白く覆われた山々はまるで 花がいっせいに咲いたようだ 信州途上 松菊壮士 西郷の書について ひと言でいうと、西郷の書は筆触には柔軟さを秘めながらも、力でねじ伏せる書です。 書は筆への力の入れ加減と逆に紙から反発する力のバランスによって成り立っているんですが、西郷はそれを無視して、さらにおさえつけて進もうとする。これはもう「無法の書」とでもいうほかありません。 それぞれの字のバランスや全体の構成には、まったくといっていいほど無頓着です。 大久保の書について 西郷と比べると、技術的には大久保のほうが一枚上手のようです。西郷のようにねじ伏せるところもあるんですが、それだけではない。ふっと力を抜くところもある。書線の太い部分と細い部分の落差がかなりあります。 大久保には物事を構築していこうという意志が感じられます。意志と情念の筆触の表現にすべてを注ぎこんだ西郷とは大きく異なるところです。 木戸の書について 木戸は最初にばーんとやって人を驚かせるんです。初めにショックをあたえてオタオタさせて、あとをやりやすくするわけですね。冒頭の「一剣」がその典型例ですが、こんなに大きく書きはじめるというのはちょっとおかしい。腹の中でなにか細工を考えているに違いない。 書としては、三傑の中で一番オーソドックスですね。転折には無法な表現もにじみ出ていますが、西郷みたいにうねうねと蛇行したりはしない。一字一字がきれいで、うまくまとめ上げようとしています。 (「芸術新潮」掲載の筆跡鑑定人 石川九楊の話から要約) ------------------------------ 西郷の書について 楷行草ともにすこぶる見事な能筆である。元来は御家流から出たのであるが、中年から彼(か)の雄渾(ゆうこん)なる岳飛(がくひ 註:中国南宋の武将)の書法に私淑して、大いに練磨せられたものと察せられる。 また楷書にも練達せられ、書体は一種独特の剛健さがあり、所謂(いわゆる)銀釣鐵格の致を備えたるものである。 書翰の文字は、また、天下一品の称あるもの、多年熟練したる御家流のやや変化したる筆力、健腕荘重にして、さながら鋭利なる刃物をもって仕上げたるかの感がある。 大久保の書について 大西郷の雄健豪邁なる書風に反して、先生の書は俗塵を脱して禅味を帯び、僧界の古墨跡を見るが如き幽玄無垢の風致を備えている。先生の書簡の書体と文章の内容はどうかというに、第一書風は前述の如く唐様で、草行共に一種の気骨と風韻禅味に富み、且つ又自在巧妙を極むるが故に、一読自ずから頭の下がる感じがするのである。 その文章たるやなんら形容詞等もなく、長短に拘らず、単刀直入的に要件の正味を書し、毫末も余事、贅事、虚飾にわたる点がない。 木戸の書について 公の書体であるが、所謂(いわゆる)風流才子の第一人者だけあって、詩文、絵画、和歌、俳句、狂句、都々逸の俗謡に至るまで、行くとして佳ならざるなき公のことであるから、その書体もまた凡人に傑出したる立派さである。やや山陽先生に似て別に一家を成し、雅麗にして気韻高く、その詩文と共に双絶の誉れを博し、常に杉聴雨、巌谷一六、奥原晴湖女史等を文藝の友とし、又長州出身の西島青浦翁を我が家の従僕として、風雅の相手とせられ、時々これらの人々を会して合作等を催せられたものである。 (「勤王志士遺墨鑑定秘録」高橋角太郎著から要約) |