<人物紹介>
長 州 藩 |
毛利敬親(1819〜1871) もうりたかちか 長州藩主。天保八年(1837)四月に十三代藩主となる。 村田清風を起用して急激な改革に着手。 清風失脚後は穏健派の坪井九右衛門を起用。文久(1861)元年には公武合体を唱えて朝幕間の融和を図る。やがて尊攘過激派が実権を握ると、文久三年五月に下関で攘夷戦争を決行する。 同年八月十八日の政変で長州は京から追放され、翌元治元年(1864)には蛤御門の変で敗退、敬親は官位を剥奪される。だが、薩長同盟を締結後、幕長戦争に勝利し、鳥羽伏見の戦いを経て明治維新を迎える。 敬親は有能な藩士に政治を任せ、家臣の意見にはいつも「そうせい」と同意したので、「そうせい公」と呼ばれた。そのため、個性豊かな行動派の藩士が続出し、長州は尊皇攘夷志士たちの総本山となり、幕末の変革期において日本の歴史を大きく回天させる原動力となった。大愚のふりをした名藩主だったのかもしれない。 村田清風(1783〜1855) むらたせいふう 長州藩改革の中心人物。天保十一年(1840)に「流弊改正意見」 を藩庁へ提出して認められ、改革に着手した。 まず八万貫の赤字(通常経費の21年分)を削減するため、産物の専売制、越荷方(倉庫業)の拡大、軍事改革などを行った。だが、財政建て直しはならず、清風は失脚。代わって坪井九右衛門が改革を引き継ぐが、彼もうまくゆかず、以後、村田派と坪井派が入れ代わり藩政を担当した。 天保十五年、清風は隠退して子弟の教育に携わった。周布政之助が村田の後継者となり、坪井は遠島となって文久三年(1863)に処刑される。 大村益次郎(1824〜1869) おおむらますじろう 旧名は村田蔵六。山口鋳銭司に村医者の子として生れる。 緒方洪庵に蘭学を学び、嘉永六年(1853)に宇和島藩の伊達宗城に招かれ、軍艦を建造する。その後、蕃書調所教授方手伝、講武所教授として幕府に出仕した。 万延元年(1860)四月、桂小五郎らに請われ、帰藩して長州藩兵学者雇となる。慶応元年(1865)、但馬から帰国した桂を密かに迎え、桂の代理で山口に赴き、防長二州一和および民政軍政の整理について建言する。六月、士格大組に列し百石を給与され、兵制改革を命ぜられる。 十二月、藩命により、村田蔵六を大村益次郎に改称。 その後の四境戦争(第二次征長戦)では全作戦を指揮し、戊辰戦争では彰義隊を鎮圧し、北越・東北戦線の総指揮にあたって勝利を収める。この軍功により永世千五百石を賜り、初代兵部大輔に就任する。 国民皆兵思想にもとづく四民徴兵制を木戸の支援を受けて実施しようとするが、大久保をはじめとする薩摩人らに反対される。後に親兵は薩長土肥四藩から徴収することになる。 明治二年(1869)九月四日、大阪・兵庫に出張中、京都三条木屋町の旅宿で不平士族に襲われ、二ヵ月後の十一月二日、大阪の病院で死亡する。 吉田松陰(1830〜1859) よしだしょういん 天保元年八月四日に長州の下級藩士・杉百合之助の二男に生まれる(長兄は梅太郎)。母は児玉滝(実は毛利志摩守の家臣、村田右中の三女)で三男四女をもうけた。幼名は虎之助。諱(いみな)は矩方、字(あざな)は義卿、子義。 杉家の住居は松本村護国山の団子巌(だんごいわ)という城下から離れた丘の上にあった。家禄は二十三石で、松陰の誕生時には祖母、父母、兄(三歳)のほかに、すでに他家の養子になっていた二人の叔父(吉田大助、玉木文之進)が同居していた。二年後には半身不随の従祖母(おおおば)岸田氏一家が加わり、貧困の中、農民同様の暮しをしていた。 五歳のとき、藩の兵学師範吉田家の仮養子となる。翌年、養父・吉田大助が亡くなり、六歳で吉田家の八代当主となる。大次郎と改名。 後には寅次郎、松陰を名乗る。父と叔父玉木文之進から厳しい教育を受け、天保十(1840)年、藩校「明倫館」で山鹿流兵学を講義し、林雅人(大助の高弟)らが後見人となる。同十一年、藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じ、慶親を驚嘆させる。 少年時代の松陰に感化を与えた人物に、家学の後見人である山田宇右衛門と、山田亦助がいる。宇右衛門は、他流を学び海外の知識に通ずる必要性を説き、世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈って、欧米列強の存在を教えた。また、長沼流兵学者、山田亦助を松陰に紹介した。松陰は十六歳で亦助の門に入り、翌年に免許を受けて家伝の長沼流兵要録を贈られた。この頃から海外の情報を得ることに熱心で、アヘン戦争についての情報を得て、強い衝撃を受ける。 十九歳で明倫館の兵学教授となる。嘉永二年(1849)、藩の海岸線を視察し、海岸防備の必要性を実感する。その後、九州を旅し、江戸に遊学、熊本藩士・宮部鼎蔵らとともに東北にも旅行して様々な人々と逢い見聞を広めた。しかし手続き上の不備から亡命の罪に問われ、士籍、世禄を剥奪されてしまう。その後、藩主より十年間の諸国遊学の許可を受け、再び江戸に向う。 安政元(1854)年、ペリー再来航時に密航を企てた罪で入獄、その後萩へ護送され、野山獄に入獄。同二年、実家の杉家預りとなり、同四年に松下村塾を主宰。その間、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山田顕義、山縣有朋ら約八十人の人材を育成した。 安政五(1858)年、幕府による通商条約調印を批判して、老中間部詮勝の暗殺を企てたことから、藩政府は松陰を再び野山獄に収容する。 安政六(1859)年四月、幕府より松陰の江戸護送の命が下る。「安政の大獄」で勤皇派への弾圧が続くなか、同年10月27日、死罪となり斬首された。 × × × 吉田松陰については「木戸孝允への旅」でも取り上げています。 長井雅楽(1819〜1863) ながいうた 萩藩士大組士中老・長井次郎右衛門泰憲の長男に生まれる。名は時傭、通称は隼人、右近など。四歳のときに父が病死して家督を相続するが、未成年相続の規定により禄高は半額の一五〇石となる。学問を仲子与一左衛門、山県大華に、剣術を平岡弥三兵衛に学んだ。 天保八年、藩主毛利敬親の小姓役となり、嘉永三(1850)年、奥番頭格に抜擢され、藩校「明倫館」の内用掛となる。同四年には世子のお守役をも兼任する。早くより英才の聞こえ高く、知弁第一と称せられた雅楽は、安政五年十月には直目付役に累進。文久元(1861)年、幕府の開国策を否定した攘夷論が高まる中で、開国論と公武合体論をまとめた「航海遠略策」を提唱し、これが長州藩の藩是となり、朝廷と幕府間の周旋役を務めることになった。 雅楽は中央政界に華々しく乗り出したが、京阪間における尊攘派志士の勢力が強まり、藩内でも松下村塾系の若手藩士らを中心に反発が生じてくる。久坂玄瑞は雅楽を奸物とみて「長井雅楽弾劾書」を提出。文久二年には島津久光上洛もあって形勢が一変し、六月、藩主は雅楽の職を免じ、七月には「航海遠略策」を放棄する。翌三年、雅楽は自刃を命じられ、二月六日に切腹した。 × × × 長井雅楽のさらなる情報は、「木戸孝允をめぐる人々 − 長井雅楽と桂小五郎」をご参照ください。 来島又兵衛(1816〜1864) きじままたべえ 文化十三年、喜多村左治馬正倫の二男に生れる。天保七年(1836)に来島又兵衛政常の婿養子となる。同十二年、柳川藩の大石進に剣術を学び、弘化三年には江戸に出て久保田助四郎の道場に入門した。 嘉永元年(1848)に帰国、同四年正月に家督を継いだ。同年十一月に手廻組に入り、藩世子の駕籠奉行となる。以後、江戸方用所役兼所帯方、蔵元両人役など、藩の要職を歴任した。 文久三年(1863)に高杉晋作が奇兵隊を創設すると、又兵衛は遊撃隊を組織し、後に遊撃軍と改組して総督となり、高杉と互いに連携して国事にあたることを約した。総督をやめたあと、元治元年に国司信濃(くにししなの、萩藩家老)の手元役として遊撃軍御用掛を勤め、四月には単身京都に潜入した。帰国するとさかんに進発論を唱え、七月、兵を率いて京へのぼると、蛤御門で激戦をくりひろげた。しかし、馬上で胸部を狙撃され、命運尽きたと悟ると、甥の喜多村武七に介錯させ、喉を突いて自害した。 又兵衛は古武士のように勇猛な、もっとも年長の志士だった。贈正四位。 周布政之助(1823〜1864) すふまさのすけ 名は兼翼、字は公輔。尊皇攘夷派で村田清風の改革を継承する。明倫館では秀才の誉れが高かった。弘化三年、能美隆庵らと嚶鳴社という結社を組織して時事を討議した。嘉永五年(1852)、政務役に就き、翌年には政務役筆頭となり、以後、政敵椋梨藤太と交代で藩政をリードした。周布の方針は「朝廷へ忠節、幕府へ信義、祖先へ孝道」で、これが長州藩の藩是となった。 安政六年の米艦来航の際には、武備主戦論を建言した。 酒好きで豪放な性格は、かえって高杉晋作や久坂玄瑞ら若手志士らに親しまれ、尊敬もされたが、文久元年(1861)十月、長井雅楽の航海遠略策を阻止しようとして、勝手に任地を離れたため逼塞を命じられる。だが翌年には世子に従って江戸に行き、江戸周旋に活躍した。しかし、前土佐藩主山内容堂を罵って謹慎処分となり、麻田公輔と名を変える。 元治元年(1864)六月、「禁門の変」前に来島又兵衛らの進発論に強く反対したが入れられず、酒を飲み、酔った勢いで入獄中の高杉晋作を訪ねて奇行を働いたため、藩からまたしても逼塞を命じられる。その後、七月の禁門の変、八月の四ヶ国連合艦隊による報復攻撃に敗れ、さらに幕府より征長の師が発せられると、藩の実権は恭順派に握られ粛清が開始される。 周布は岩国藩主吉川監物を頼って善後策を練るが、周囲の事情は好転せず、責任を感じて九月二十六日未明、山口郊外、矢原の庄屋吉富邸で家人の隙をみて戸外で自刃した。 × × × 周布と小五郎の関係については「木戸孝允をめぐる人々 − 周布政之助と桂小五郎」をご参照ください。 広沢真臣(1833〜1871) ひろさわさねおみ 萩藩八組士・伯村安利の四男に生れるが、弘化元年(1844)波多野家の養子となる。旧名は波多野季之進、金吾、藤右衛門、兵助(広沢)。嘉永四年御前警衛、六年先鋒隊に編入され、同年六月、米艦来航に際して大森台場警衛の任につく。安政二年に藩主毛利敬親に従って再び江戸に出る。安政六年二月、家督を相続し、蔵元検使本役、軍制詮議掛、諸内勘掛などを経て文久元年(1861)二月に大検使役となり、六月には有備館用掛を勤める。その後も当役手元役、蔵元役本役など、主に経済官僚として頭角を現した。 「禁門の変」後の元治元年(1864)十二月、尊攘派に同調していたことから幕府恭順派によって野山獄に投ぜられた。だが慶応元年(1865)一月、高杉晋作率いる遊撃隊など反幕派が恭順派に勝利し、藩論が転換されると、二月に出獄して御手当御用掛を拝命、政務役となって藩政の中心メンバーに加わった。同年十一月、幕府監察使の応接のため広島へ出張、翌年九月には第二次征長戦の休戦講和協定を幕府側の使者、勝海舟と結んだ。 また、討幕運動にも画策し、木戸孝允とともに薩摩の大久保一蔵(利通)らと出兵の秘密同盟を締結。十月に上京して討幕の密勅を受けて帰国した。明治元年(1868)一月、参与となり、徴士として海陸軍務掛・内国事務掛を勤め、明治二年には民部大輔から参議に任ぜられ、永世禄千八百石を賜わった。とくに民政財務に長じ、木戸孝允の代役も勤めたが、明治四年正月に刺客に襲われ暗殺された。 × × × 広沢暗殺事件については、「幕末維新の諸問題」の最後で取り上げています。 前原一誠(1834〜1876) まえばらいっせい 旧名は佐世八十郎、彦太郎。萩藩八組士。 天保十年(1839)、父彦七と厚狭郡船木村に移住し、のちに萩で修学するが嘉永四年、船木に帰って農漁を業とし、父の陶器製造を手伝う。安政四年に帰萩、吉田松陰の松下村塾に入り、安政六年(1859)には長崎に遊学して英学を修め、のちに藩の西洋学所「博習堂」に学ぶ。文久元年(1861)、松門の「一燈銭申合」に加わり、翌二年、久坂玄瑞らと脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果せなかった。 同三年六月には右筆役を命ぜられ、九月、七卿方御用掛となった。翌年十二月、高杉晋作らと馬関(下関)に挙兵、恭順派と戦って慶応元年正月、藩権力を奪取した。三月、用所役右筆となり、干城隊頭取を兼任、六月の幕長戦では小倉口の参謀心得として、小倉藩降伏に尽力した。 明治元年六月、北越に出兵、北越軍参謀となり、長岡城攻略に尽した。翌二年二月、越後府判事、七月には参議、十二月には兵部大輔となるが、三年九月に辞職して萩に帰った。政府の方針に不満をもち、九年(1976)十月に奥平謙輔、横山俊彦らと萩に挙兵、十一月、島根県宇竜港で捕らえられ、同年十二月三日、萩で斬首された。 前原一誠は保守的な面があって、木戸孝允とは意見が合わなかった。 |