<人物紹介>
長 州 藩 (2) |
井上馨(1835〜1915) いのうえかおる 身分は萩藩八組士で、号は世外、三猿、変名は春山花輔、山田新助などを用いた。藩校明倫館に学び、嘉永六年(1853)志道慎平の養子となったため志道聞多(しじもんた)と名乗った。江戸の有備館にはいり、斎藤弥九郎に剣を、岩屋玄蔵に蘭学を学び、安政五年(1858)には江川(太郎左衛門)塾で砲術を学んだ。万延元年、手廻組に加わり小姓役となる。 安政の大獄後は尊王攘夷を主唱して、文久二年(1862)十一月、高杉晋作らと外国公使襲撃を計画。これに失敗すると、十二月には品川御殿山の英国公使館焼討ちを実行した。同三年、志道家を離れて井上姓に戻り、五月、伊藤俊輔(博文)、山尾傭三ら五人で英国に藩費留学した。翌年四月、四カ国連合艦隊の下関攻撃計画を知って、急遽伊藤とともに帰国、講和周旋のために尽力した。 しかし藩政権が保守派に握られると、第一次幕長戦を前に山口藩庁の会議で俗論党の降伏主義に反対し、武備恭順を主張した。その帰途、井上は俗論党の刺客に襲われ重傷を負ったが、井上家を訪れた医師の所郁太郎が畳針で傷を縫合し、奇跡的に一命をとりとめた。 慶応元年(1865)には薩長連合の実現にむけて奔走し、薩摩藩を通じて英国から武器を購入、四境戦争では奇兵隊・鴻城軍総督として芸州口で戦い、幕軍を破った。 明治元年、九州鎮撫総統府参謀となり、新政府では参与兼外国事務掛、造幣頭をへて、明治四年(1871)大蔵大輔となり財政の実権を握った。だが西郷派や江藤新平らと対立し、渋沢栄一と連署で財政建議書を提出して下野、実業界に身を投じた。 明治八年(1875)、大久保・木戸・板垣の大阪会議を斡旋して政界に復帰し、元老院議官となる。十八年、第一次伊藤内閣で外務大臣になると、条約改正の手段として欧化政策を推進、鹿鳴館時代を生むなどの行き過ぎた政策が非難を買った。実業界に寄与するところが大きかったが、尾去沢事件、藤田組偽札事件、石代問題などで批判も受けた。伊藤博文とは生涯をとおしての盟友で、ハルビンで伊藤が暗殺されると、「おれが代ってやりたかった」といって嘆いたという。八十一歳で永眠。 山縣有朋(1838〜1922) やまがたありとも 萩藩の中間(ちゅうげん)の家に生まれ、小輔、狂介と称した。久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾に学び、尊王攘夷思想の影響をうけた。文久三年(1863)一月、士雇に準ぜられ、十二月、奇兵隊に参加し、軍監として四カ国連合艦隊と交戦した。戊辰戦争では北越方面で戦い、会津攻略に参加した。 明治二年(1869)、渡欧して兵制調査にあたり、翌年帰国して兵部少輔となり、兵制をフランス式に統一した。四年に兵部大輔に昇進、徴兵制を実施して国軍の基礎をつくった。六年、初代陸軍卿となり、翌年には参議を兼任、西南戦争では征討参軍として政府軍を指揮した。明治十五年、参事院議長に就任、二十二年に首相となり、第一次内閣を組織した。その後、陸軍大将、法相、二十六年に枢府議長をつとめた。 日清戦争では第一軍司令官となり、二十九年、特命全権大使としてロシアを訪問、朝鮮についてロバノフ外相と協定するなどして活躍、伊藤博文と拮抗する勢力をきずいた。三十一年、第二次内閣を組閣、日露戦争では参謀総長となり、元老になってからも桂太郎、寺内正毅など直系の部下に組閣させ、軍政両界に影響力を行使しつづけた。とくに伊藤の没後は最長老として、権勢ならぶものがなかったが、大正十年(1921)皇太子妃選定問題に失敗して、翌年、死去した。 高杉晋作(1839〜1867) たかすぎしんさく 萩藩八組士・高杉小忠太の長男に生れる。名は春風、 字は暢夫、号は東行、変名は谷梅之助、谷潜蔵を名乗った。十歳のとき天然痘にかかり、危篤状態に陥ったが、藩医の青木周弼・研蔵兄弟の治療をうけて一命をとりとめた。しかし顔にあばたが残り、「あずきもち」というあだ名をつけられた。藩校・明倫館で学ぶが、満足できずに剣術にはげむ毎日だった。 十九歳のとき、松下村塾に密かに入門、松陰の指導法に感銘して英才を発揮し、久坂玄瑞とともに松門の双璧と呼ばれるようになる。安政四年、文学修業のために江戸に出て、幕府の学問所・昌平校に入学するが、「つまらない」と不平をもらした。帰藩後は明倫館の都講にすすみ、万延元年(1860)にまさと結婚。その後、航海術習得のため「丙辰丸」で江戸へ実習航海し、さらに東北を遊歴、佐久間象山、横井小楠らを訪ねた。文久元年世子毛利定広の小姓役となる。 翌年、藩命により上海にわたって太平天国の乱を目撃し、衝撃を受ける。帰国後、尊攘運動に身を投じ、松陰門下生らと英国公使館焼討ちを敢行、京都に出たが、矯激な行動を周布政之助に諌められて剃髪、東行と号し萩に蟄居した。文久三年(1863)下関の外船砲撃で召し出されて馬関総奉行手元役となり、奇兵隊を結成する。翌元治元年(1864)、京都進発論の来島又兵衛の説得に失敗して脱藩上京したため、野山獄に投ぜられた。 禁門の変後の八月、四カ国連合艦隊による報復砲撃で長州藩は大敗し、晋作が講和条約の正使に任命される。英国側によると「長州の正使はまるで魔王のように傲然としていた」という。第一次長州征伐の対応では恭順派にやぶれて博多に逃れ、十二月、遊撃隊、力士隊約八十名で挙兵、やがて諸隊全部が協力して藩政府を転覆させ、藩論を討幕に統一した。その後、下関開港の件で攘夷派に狙われ、再び愛妾おうのを連れて四国に亡命した。第二次長州征伐前に帰藩し、薩長同盟に尽力した。慶応二年(1866)の四境戦争では海軍総督として小倉口で戦い、連戦連勝したが、八月、肺結核にかかって戦線を離脱、翌年四月十四日、下関の林算九郎邸で死亡した。「おもしろき こともなき世を おもしろく」と晋作が詠んだ辞世の句に、亡命中の晋作をかくまった野村望東尼が「住みなすものは 心なりけり」と完成させた。 久坂玄瑞(1840〜1864) くさかげんずい 萩藩医久坂良廸(りょうてき)の三男に生まれたが、二男は夭逝している。名は通武、のち義助と改め、秋湖、江月斎と号した。幼名は秀三郎で、実甫という松陰がつけた名もある。 十四歳のときに母親(富子)を、十五歳で兄(玄機)と父を相ついで失い、家督を継ぐ。藩校明倫館に入り、のちに好学堂(医学教授の機関)、博習堂(洋学教授の機関)に学び、医学と洋書の研究をした。十七歳のとき九州に遊学し、宮部鼎蔵に会って吉田松陰のことを聞かされる。安政四年(1857)六月、松下村塾に入塾し、高杉晋作とならぶ松下村塾の俊才と称されるようになる。松陰に愛されて、十二月には松陰の妹文と結婚。 安政の大獄をみて幕府政治に憤慨を感じ、薩摩、土佐、水戸藩の志士らと交わって、尊皇攘夷の急進論者となる。藩論が長井雅楽の航海遠略策(公武合体論)に傾くと、文久二年(1862)、藩論を尊攘論に統一するため脱藩上京して、宮廷に働きかけた。同年十月、攘夷催促の勅使三条実美、姉小路公知にしたがって江戸に入り、十二月、高杉、井上、伊藤らと英国公使館を焼討ちして攘夷の気勢を上げた。 文久三年、下関で光明寺党を結成し、春には再び上京して攘夷親征の朝議を推進、また帰藩して外国艦船砲撃にも加わった。 同年の「八・一八政変」で長州勢が朝廷から一掃されると京都に潜伏して藩主父子の雪冤に努めたがうまくゆかず、翌年三月に帰藩した。翌元治元年(1864)の「禁門の変」では松野三平と変名し、真木和泉、来島又兵衛らと藩兵を率いて京都南郊の山崎に留まり、入京の嘆願を朝廷、幕府に差し出した。しかしこれが拒絶されると、久坂の自重論は真木、来島らの強硬論に制されて七月十八日、ついに戦端がひらかれた。翌十九日には久坂も入京して会津、桑名、薩摩藩兵と堺町御門で奮戦したが、流弾にあたって負傷し、鷹司邸内において寺島忠三郎とともに自刃した。 著書に「辺陲史略」、「思廼儘」、「回瀾条議」などがある。 伊藤博文(1841〜1909) いとうひろぶみ 周防国熊毛郡の百姓の子に生まれる。通称は利助、利輔、俊輔などで、春畝と号した。父の林十蔵が家族ぐるみで足軽・伊藤直右衛門の養子となったために伊藤姓を名乗る。安政三年(1856)、藩命により幕府の江戸湾防備に参加、相州の警衛にあたった。その折、来原良蔵に見出され、その縁で松下村塾に学んだ。その後、来原の紹介で桂小五郎の手付となって尊攘運動に奔走、文久二年には英国公使館焼討ちに加わった。同三年三月、士分に列せられ、五月には藩費で井上馨らと渡英すると、攘夷の非を悟り開国・富国強兵論に転じた。留学中、新聞で米仏艦隊の下関砲撃、英艦の鹿児島砲撃を知り、翌年六月に井上とともに急ぎ帰国して、講和を結ぶために尽力した。 第一次征長役後は、高杉晋作を援けて挙兵、藩の幕府恭順派を一掃した。第二次征長戦では汽船、武器の調達に尽力し、薩長連合の締結に寄与した。 明治以後は徴士、参与として新政府に出仕、外国事務局判事、大坂府判事を経て、兵庫県知事、大蔵少輔兼民部少輔をつとめ、明治三年十月に財政・貨幣制度調査のため渡米した。明治四年には岩倉具視遣外使節団の副使として欧米を巡歴し、征韓論政変後は参議兼工部卿として大久保利通を援けた。明治十一年五月に大久保が暗殺されると、内務卿として政府の枢要の地位にたった。 明治十四年(1881)の政変では対立した大隈重信を政府から追放、最高指導者となって議会開設を約し、翌年には憲法調査のため渡欧、プロシャ憲法を学んだ。帰国後は華族令制定、十八年十二月に内閣制度を創設し、自ら初代総理大臣になった。明治憲法制定、皇室典範、枢密院の設置などを実現し、第二次内閣では民党と和解し、条約改正、日清戦争の勝利という成果をあげた。だが第三次内閣は憲政党の反対にあって半年で瓦解した。 明治三十三年(1900)、立憲政友会を結成して総裁となり、政党政治に移行、第四次の組閣を行ったが翌年には辞職した。三十六年、山縣、桂らの謀略で枢密院議長に祀り上げられて政友会を退会、以後は元老として活動した。日露戦争後、大使として韓国にわたり、明治三十九年、日韓協約を結び、韓国統監府を開いて自ら統監となった。明治四十二年には統監を辞して四たび枢密院議長となり、同年十月、満州視察と日露関係調整のため満州に赴いたが、ハルビン駅頭で韓国人安重根に狙撃され絶命した。 吉田稔麿(1841〜1864) よしだとしまろ 足軽の子として生まれ、通称は栄太郎、名は秀実。字は無窮、無逸。 嘉永二年(1848)、久保五郎左衛門に学び、同六年(1853)、江戸藩邸に仕え、安政二年(1855)十月の江戸大地震では桜田藩邸で功あって賞せられた。翌三年に帰国、十一月に吉田松陰に師事、その識見と才知は、高杉、久坂、入江とならんで松下村塾の四天王と称された。 安政五年十二月、松陰の投獄に際し、訴冤に奔走した罪で謹慎処分となる。その後、一時沈黙を守っていたが、翌年十月に御用所御内用手子となり、万延元年(1860)八月には兵庫警衛番手となる。だが、十月に脱藩して江戸に行き、旗本妻木田宮の用人となった。翌年夏、京都で藩世子と会って罪を許され、文久三年(1863)七月、御扶持方二人、米二石四斗を下付され、奇兵隊に入隊して士雇に列せられ、屠勇取建方(被差別部落民の隊編成)を命ぜられた。 その後、江戸、京都、藩の間を往復。元治元年(1864)六月五日、京都三条の池田屋で諸藩の同志と会合中に壬生浪士(新撰組)に襲われ、重囲を脱して藩邸に急を報じ、再び池田屋に赴こうとしたが、加賀藩邸前で会津藩兵と戦って討死した。一説には新撰組の沖田総司に重傷を負わされ、絶命したという。明治二十四年、贈従四位。 山田顕義(1844〜1892) やまだあきよし 身分は萩藩八組士で通称市之允、号は空斎、養浩斎、不抜、韓峰山人など。 安政五年(1858)、十五歳で松下村塾に入門し、文久元年(1861)、「一燈銭申合せ」に加わり、翌年には攘夷の血盟、「御楯組」の結成に参加した。文久三年、狙撃隊を結成して隊長となり、翌年「禁門の変」で奮戦するが、敗れて帰国。八月には下関で四国連合艦隊と戦い、その後の俗論派(幕府恭順派)との戦いでは御楯隊司令として活躍、内戦に勝利した。 慶応元年六月の幕長戦では高杉晋作とともに幕艦を撃破し、戊辰戦争では整武隊総督として東北諸藩、函館五稜郭を降した。函館の攻略戦では総参謀としての山田の若さ(当時24歳)を危ぶむ声が多かったが、大村益次郎は「年少だが、用兵の妙は優れたものがある。心配は無用」と言って抜擢したという。 明治二年、兵部大丞となり、翌年、大阪に兵学校を設けて教授にあたり、四年には陸軍少将を兼ねた。十月に特命全権大使岩倉具視の理事官として欧米各国を視察、六年に帰国した。 明治十年の西南戦争では政府軍の別軍を率いて八代から上陸して戦功をあげ、翌年、陸軍中将に進んだ。その後は、参議兼工部卿、十六年に司法卿、十八年の第一次伊藤内閣には司法大臣となり、つづく黒田・山縣・松方内閣でも司法大臣をつとめた。明治十七年、伯爵となり、二十四年六月に病気のため辞職したが、なお枢密顧問官、議定官の重責にあった。翌年、療養のため帰国の途上、生野銀山を視察中に坑道に落ちて急死した。 品川弥二郎(1843〜1900) しながわやじろう 軽卒の家に生まれ、十五歳のとき、松下村塾に入って吉田松陰に学んだ。安政五年(1858)、松陰の罪名を藩政府に問い詰めた罪で謹慎を命じられた。万延元年(1860)に江戸に上り、以来、江戸・京都間を何度も往復する。翌年、「一燈銭申合せ」に参加し、文久二年、高杉晋作らと外国公使襲撃を計画して御楯組に加わった。禁門の変には八幡隊隊長として戦ったが敗れて帰国し、八月、御掘耕助らと御楯隊を組織した。 慶応元年(1865)十二月、木戸準一郎(孝允)にしたがって上京し、薩長同盟の成立に尽力した。以後、幕府の偵察と長薩連絡の任にあって、藩・京都間を頻繁に往復した。戊辰戦争では整武隊参謀として奥羽に出陣、五稜郭を攻めた。 明治三年、渡欧して普仏戦争を視察、明治六年までプロイセンに留学し、その後も公使館員として九年まで滞在した。帰国後は内務省に入り、殖産興業政策の推進につとめ、明治十四年、新設の農商務省に転じて大日本農会、大日本山林会の設立、奨励に尽力した。また、二宮尊徳門下の報徳社運動をたすけ、前田正名の「興業意見」編纂にも協力した。 明治十七年、子爵となり、十九年(1886)、ドイツ駐在特命全権公使として赴任、二十年三月に帰国して、京都に尊攘堂を設立、六月には宮中顧問官となった。二十四年、第一次松方内閣の内務大臣となったが、翌年二月の第二回総選挙で民党に対する大選挙干渉を強行して非難されたため、三月に辞任した。六月に、西郷従道、佐々友房らと政府擁護の政治結社、国民協会を設立して副会長に就任。一方、信用組合の普及にも尽力したが、晩年は健康がすぐれず、明治三十三年に肺炎のため東京で病死した。 追記: 弥次郎は日本初の軍歌「宮さん、宮さん」の作詞者である。生涯、吉田松陰を敬慕し、野山獄に師を訪ねた時次のような歌を贈っている。 逢ふ事は是やかぎりの旅なるか 世に限りなきうらみなりけり 何となく聞けば涙の落つるなり いづれの時か恥を雪(そそ)がむ |