<人物紹介>

朝  廷

  岩倉具視  有栖川宮熾仁  三条実美  
  姉小路公知  明治天皇



孝明天皇(1831〜1866)  こうめいてんのう

父は仁孝天皇、母は新待賢門院雅子(贈左大臣正親町実光の娘)で第四皇子。十歳で皇太子となり、弘化三年(1846)二月に即位。 先帝の意思を継いで学習所を創設し、学習院として廷臣に講学の道を開いた。即位の年には米国やフランスなどの外艦が頻繁に来航したので、 海防を厳しくする旨の勅諭を幕府に下した。これが政治上の問題で朝廷が幕府に指示した最初となる。嘉永三年(1850)にも再び海防の勅諭を 下しており、外国に対する警戒心を強めていく。

安政五年、幕府は日米通商条約の勅許を奏請するが、天皇は拒否する。条約が勅許のないまま調印されたことを知ると、激怒して譲位 を決意するが、廷臣たちになだめられて思いとどまる。だが天皇の怒りはおさまらず、水戸藩に「諸大名と合議して、外夷にあたれ」という 幕府の違勅を責める内勅を下した(水戸藩の徳川斉昭は条約調印を批判して、大老井伊直弼によって謹慎処分を受けていた)。内勅の事実を 知った攘夷派の廷臣や志士たちの活動が激しくなり、幕府は弾圧を加え始めた。世に「安政の大獄」と言われ、この時期に多くの攘夷派が捕 えられ、越前の橋本左内や長州の吉田松陰などが刑死した。
万延元年三月、大老井伊が桜田門外で水戸浪士らに暗殺されると、幕府は公武合体を策して、皇女和宮の降嫁を奏請する。天皇は攘夷の実行を幕府に約束させて、和宮降嫁を勅許する。

文久三年三月、将軍家茂が攘夷祈願のため、三代家光以来、二三〇年ぶりに上洛する。江戸に下った和宮の身を案じて、幕府との宥和を望む天皇は、急進派公卿や尊攘志士らを忌避するようになり、京都守護職松平容保に信頼を寄せる。薩摩藩と長州藩の勢力争いなども絡んで、会津と薩摩両藩が図って、攘夷親征を計画する長州藩士や尊攘浪士らを一掃するクーデターを起こす(八・一八政変)。その後、二度目の長州征討で幕府は敗北し、薩長の盟約により倒幕派が勢いを増すなか、痘瘡を患った天皇は慶応二年(1866)十二月に崩御する。その急死には暗殺説まで生じている。



岩倉具視(1825〜1883)  いわくらともみ

前権中納言堀河康親の次男。のちに岩倉具慶の養子に入ったが、禄高一五〇石の貧乏公卿だった。五摂家・鷹司政通の後ろ楯を得て、 孝明天皇の侍従となり、政治的な発言力を強めていく。豪傑肌のところがあり、公卿にはめずらしい行動派だった。通商条約の勅許問題では、勅許の不可を主張したが、のちに攘夷実現のために公武合体策を進めて、皇女和宮の将軍家への降嫁に尽力した。そのため尊攘派の廷臣や志士らから四奸二嬪のひとりにあげられ、憎悪の的となる。
文久二年(1862)十月、免職され、洛外追放処分となり、剃髪して友山と号し、洛北岩倉村に蟄居した。しかし幽居中も「叢裡鳴虫」、「皇国合同策」などの意見書を草して、密かに同志の廷臣や薩摩藩士らに送って、憂国の情を訴えた。その才覚が認められ、慶応三年三月に入洛を許されると、中山忠能や大久保利通らと倒幕の秘策を練る。十二月に勅勘を免ぜられて復職すると、朝議を主導し、倒幕の密勅を薩長へ下して、将軍慶喜の大政奉還後には王政復古を宣言する。

新政府では参与、次いで議定となり、明治元年には三条実美とともに副総裁になる。明治四年、大納言から右大臣となり、十一月に特命全権大使として欧米各国を訪れる。帰国後は西郷隆盛、板垣退助ら、留守政府の征韓論を阻止し、大久保とともに新政府の政策を主導する。自由民権運動に対しては、井上毅にはかって欽定憲法の諸原則を定め、皇室制度の確立に努めた。胃がんで病没。五十九歳。



有栖川宮熾仁(1835〜1895)  ありすがわのみやたるひと

有栖川宮熾仁親王は皇女和宮の婚約者だった。天保六年、有栖川宮幟仁親王の第一王子として誕生。嘉永元年(1848)十月、仁孝天皇の猶子となり、翌二年二月に親王宣下をうける。同四年七月、十六歳で皇女和宮(六歳)と婚約する。しかし、和宮は公武合体策の犠牲となり、将軍家茂に降嫁する(万廷元年 1860)ことになったので、婚約は解消される。安政五年、幕府が日米通商条約調印の勅許を奏請すると、これに反対して外交拒絶の建言書を奉呈した。
元治元年(1864)五月、父熾仁親王とともに国事御用掛に任ぜられ、尊攘派志士に擁されるが、七月、禁門の変が起り、長州藩と気脈を通じたことにより失職する。慶応三年(1867)十二月、王政復古と同時に総裁に就任し、鳥羽伏見の戦いが起ると、東征大総督に任命されて江戸に下る。
明治三年(1870)四月、兵部卿となり、陸海軍を創設。翌四年七月、福岡藩知事となる。八年七月には元老院議官、ついで議長を務め、十年二月の西南戦争では征討総督となり、鎮定後には陸軍大将に任ぜられる。
十三年二月、左大臣を兼任、国会開設、憲法制定に寄与した。十五年には天皇の名代としてロシア皇帝の即位式に参列し、帰途欧州各国を訪問して親善に努めた。十八年、新設の参謀本部長となり、近衛都督、参謀総長を歴任する。
また、日本赤十字社総裁に就任し、社会事業にも関与した。二十七年八月、日清戦争では陸海軍の総参謀長となるが、翌年一月、舞子の別荘で病没した。享年六十一歳。

有栖川宮家は書道と歌道を家学とする名門で、四親王家のひとつだった。父親王のあとを継いで明治天皇の御手習助教から師範となった。



三条実美(1837〜1891)  さんじょうさねとみ

安政の大獄で落飾、謹慎に処せられた右大臣三条実万(さねつむ)の第四子に生まれる。五摂家に次ぐ堂上公家・清華家の出身で幼名は福麿、母は高知藩主山内豊策の娘紀子。安政元年(1854)二月、兄公睦の死去により嗣子となる。文久二年(1862)九月、従三位、権中納言、翌月には議奏となり、十二月、国事御用掛に補せられる。
父実万の遺志を継いで朝権回復、攘夷遂行に努め、公武合体派の岩倉具視を弾劾する意見書を提出した。文久三年、長州藩と提携して大和行幸、攘夷親政を図るが、「八・一八政変」で薩摩、会津を中心とする公武合体派によって京を追われ、長州に落ちのびる(七卿都落ち)。
その後は、中岡慎太郎の仲介により岩倉具視と和解、ともに武力倒幕路線へと突き進む。
慶応三年十二月八日、王政復古と同時に官位を復して、入洛を許され、議定に任ぜられる。明治元年一月、岩倉とともに副総裁となり、その後、右大臣を経て明治四年七月、太政大臣となる。明治六年の征韓論争では窮地に陥り発病するが、その後持ち直し、西南戦争を乗り切って、維新三傑、岩倉の死後も廟堂の首班にあった。
明治十八年十二月、内閣制度が発足した際に、内大臣となる。明治二十二年、黒田内閣退陣後には一時内閣総理大臣を兼任。二十四年(1891)、病床にあって天皇の慰問を受け、正一位に叙せられる。二月十八日に病死、国葬の礼を賜わった。



姉小路公知(1839〜1863)  あねがこうじきんとも

三条実美とならぶ急進派・尊攘派公家として知られる。姉小路公前の長男に生まれ、安政四年(1857)家督を継ぐ。翌年、条約勅許の問題が起こると、中山忠能らとともに勅許の不可を主張して、ついにこれを阻止した。このため安政の大獄の際には幕府の追求を受けたが、年少のため罪を免れた。文久二年(1862)、攘夷督促の正使三条実美の副使として江戸にくだり、江戸城で朝旨を伝達した。これにより将軍家茂の上洛、加茂社・岩清水社行幸が実現した。帰京後は国事御用掛に任ぜられ、翌年三月に国事参政にすすんだ。四月に摂海の防備巡検の任につくと、幕府軍艦に搭乗して勝海舟の意見を聞くなど、少壮公家の中心的存在として活躍した。
五月二十日、朝議が深夜におよび、帰宅途上の朔平門(さくへいもん)外の猿ヶ辻で刺客に襲われ重傷を負ったあと、落命した(刺客は薩摩の田中新兵衛といわれている)。



明治天皇(1852〜1912)  めいじてんのう

嘉永五年九月二十二日、孝明天皇の第二子として中山大納言忠能邸に生れた。生母は忠能の娘権典侍慶子、幼名は裕宮(さちのみや)。万延元年(1860)七月、儲君となり、准后夙子(英照皇太后)の実子と定まって、九月に親王宣下をうける。名は睦仁。慶応二年(1866)十二月、孝明天皇崩御により、翌年正月、十六歳(満十四)で皇位を継承するが、幼冲であったために関白二条斉敬が摂政となった。
慶応三年十二月、王政復古の大号令が発せられ、天皇を頂点とする明治新政府が誕生する。明治元年(1868)三月、五箇条の御誓文で公議尊重、開国進取の国是を定めた。九月八日、明治と改元、一世一元制を定め、十月、東京に行幸後、いったん京都に帰り、十二月、一条忠香の三女美子(照憲皇太后)を皇后に迎えた。翌二年三月、再度東京に行幸、東京を新都として人心の一新を図った。新政府の指導者は天皇制の定着に努め、君徳培養に心をそそぎ、天皇を英主、聖天子たらしめようと努力を払った。
明治二年の版籍奉還、四年の廃藩置県によって中央集権化が図られ、東北、北陸、近畿などへの行幸もしばしば行われた。内政においては明治十四年(1881)、陸海軍人に大元帥として勅諭を発し、二十二年(1889)、帝国憲法を制定、議会を開設して近代国家としての政治体制を確立した。対外的には安政以来の不平等条約を改正して、国際的地位の向上につとめ、また、日清、日露両戦に勝利を収めて国民の崇敬を深めた。国家の発展期にあって、天皇の伝統的権威は高まったが、天皇自身、君主たる職責に対する自覚が強く、君徳の修養に不断の努力を重ね、また、和歌の才能にも恵まれていた。大正元年七月三十日、六十一歳で崩御。京都伏見桃山陵に葬る。

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