各氏、木戸孝允を語る |
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★ 彼は背が高く、その態度は不思議に人を惹きつけ、気立てがやさしかった。そして、教養豊かな学者で、生まれながらにして指導者としての力を備えていた。 彼は長州の藩士で、1868年の維新当時、最も有名だった5〜6人の中の一人であった。神の寵愛を受ける者は、若くして死ぬ。しかし、彼は自分の仕事が成功したのを見届け、偉大な日本の基礎を築くのに協力するのに十分間に合うほどの長生きはしたのである。 私がある日本の友人に、これから木戸侯爵の墓に詣でるところだと話すと、彼は「木戸侯爵はあなたにお会いするのを喜ぶでしょう」と答えた。私が「侯爵はもう亡くなっているので、私に会うことはできないでしょう」と言うと、その友人は「彼の霊がそこにいるはずです」と重々しく私に反駁した。 もし本当に彼の霊がそこにいて、葬られた場所によくあらわれるとすれば、つい最近まで、過去何世紀もの間、神秘に包まれ、今は解放されているが、当時は下界とは遮断された聖域であったこの大きな都を見下ろし、彼があれほど勇敢にその一役を果たした驚くべき変革を誇らしく思うことだろう。(ミットフォード 英国外交官) ★ 公は実に三傑の中にて最も見識家であった。 目先の見える事についてはなん人も公に及ぶ者はなかった。 しかし、時としては、あまりに目先が見え過ぎて、公がこれを唱え、公自身はすでに他の方面に進んだのちに、 他人はかえって公の説を採り用いているものも少なくなかった。 先生は実にわが国における立憲政体の基礎、憲法政治の開山というも過言ではあるまい。従ってそれに伴う 自治制度や、教育や、新聞、雑誌等についても、公はつとにその心を用いていた。新聞記者の開祖たる福地源一郎、 成島柳北らもみな公に負うところ大であった。 およそ薩長以外の人士にして少しく頭首をもたげたる者は、概ね公の庇護誘掖に依らぬ者はなかった。(徳富猪一郎、評論家) ★ その日、私は有名な木戸準一郎(別名・桂小五郎)に初めて会った。 桂は軍事的、政治的に最大の勇気と決意を心底に蔵していた人物だが、その態度はあくまで穏和で、 物柔らかであった。(アーネスト・サトウ、英国外交官) ★ これほど強烈に精神の力を感じさせる風貌に、私はこの国でかつて出会ったことがない。彼がものをいうとき、 その表情は独特な生気をみなぎらせる。一見して非凡な人物であることがわかるのである。(バロン・ド・ヒュブネル、オーストリア外交官) ★ 岩倉、大久保、木戸の三人は、西洋人もその骨格からして外の人とは違うと言っていた。私は骨相学上のことは深く知らぬが、この三人は他の人々とは骨相が違っていたものらしい。 岩倉、大久保、木戸の三人はいろいろの点において西洋人は感心していた。人格は三人とも褒められていた。ある西洋人は彼ら三人だけは日本人の中で、頭だけ上に出ているのであろうと言っていた。なにしろこの三人は洋行中、西洋人に対して十分尊敬の念を起こさせたのである。(久米邦武、「米欧回覧実記」執筆者) ★ 明治新政府の閣僚の中、側近の力をかり、ブレーンの力をかりることなくして、すぐれたる見識を持ち得たものは、木戸をもって第一とするであろう。維新後の民主的なものであって、木戸の関与しないものは殆どないといっても過言ではない。 木戸の性格は極めて篤厚であり、長者風であった。木戸が人に立てられるのは、その頭脳もさることながら、より城府を設けぬ態度と、堂々たる風貌にあった。そしてこの風貌と態度の示すごとく、彼は温厚の大人風であり、平和裡に事を処理することを好んだ。(田中惣五郎) ★ 木戸は至って懇意なり。練熟家にして、威望といい、徳望といい、勤皇の志厚きことも衆人の知るところなり。帝王を補助し奉り、内閣の参議を統御して、衆人の異論なからしむるは、大久保といえども及びがたし。木戸の功は、大久保の如く顕然せざれど、かえって、大久保に超過する功多し。いわゆる天下の棟梁というべし。(松平春嶽、前福井藩主) ★ 木戸は創業の人なり。大久保は守成の人なり。木戸は自動的の人なり。大久保は他動的の人なり。木戸は慧敏闊達の人なり。大久保は沈黙重厚の人なり。もし、主義をもって判別せば、木戸は進歩主義を執る者にして、大久保は保守主義を奉ずる者なり。是をもって、木戸は舊物を破壊して、百事を改革せんとする。王政維新の論を執り、大久保はこれに反抗して、漸次、大寳令の往時に復せんとする、王政復古の説に傾けり。 諸般の事物に対しては、その意見議論、まったく衝突し、その衝突は自(おのずか)ら二人の代表せる薩長の軋轢となり、その軋轢は延いて、進歩主義と保守主義との一消一長を為し、ついには維新革命の事業より、立憲政制の端をも開くに至れり。(大隈重信、政治家) ★ 余が、つとにその知遇をかたじけなくして、もっとも親密の下交を得たるは、木戸孝允公なりとす。余、高貴の方々の面前に伺候したることも多かりしが、自ら首(こうべ)の下がるのを覚えざりしは、将軍家(慶喜)の御前へ出たる時の後は、今、この木戸参議の前へ出たる時なり。将軍家は余が主君なれども、木戸参議に至りてはさる関係にあらず。 当時、参議に列せられたる諸公に、前後面謁したれども、かつて木戸公における時の如き事もなく、すでに他の四公(三条、岩倉、西郷、大久保)の如きも、木戸公と同じく、余が最も尊重し、最も敬服するの元勲たりしに拘わらず、愛慕の情において、木戸公におけるがごとくならざるものなり。(福地源一郎、新聞記者) ★ 情実の打破は木戸の生命である。朝にあってもその矯正を計り、野にあってもその矯正を力め、病に臥してもなおその矯正を思い、ついに万斛の憂愁を齎らして、泉下の客となった。 かくのごとく木戸がいかに情実の纒綿(てんめん)を苦慮したかは、和歌の表にも露われている。書状の上にも現れている。遺言の上にも顕われている。この遺志を継いでその矯正を計るものは、我輩をおいてはたれかある。木戸の精神は我輩の精神である。我輩の意志はすなわち木戸の意志に他ならぬのである。 木戸逝いて後、またともに我が志を談ずべき友がいなくなってしまった。我輩の情実打破のために孤軍奮闘するに至ったのは、まったくこれがためである。(三浦梧楼、陸軍中将) ★ 政治と政局を見通す木戸の聡明さは群を抜いていた。禁門の変後の国難において、藩政担当者が次々と刑死する中で、ひとり木戸は帰国せず、出石の地に潜居しながら、長州と幕府の動向を凝視しつづけた。木戸の卓越した理性と合理主義は、無意味で残酷な処刑から彼を救った。と同時に、第二次征長の役の重圧下におかれた長州藩を救出することにもなったのである。 木戸は総てを見た人であった。ペリー来航の嘉永六年から、西南戦争の明治十年まで、直面したあらゆる時期と段階において、彼はその政治家としての卓越した能力と聡明さをもって、全力を尽くして、つきつけられる課題と闘った。(宮地正人氏、国立歴史民族館館長) 参考文献 「木戸松菊先生」(徳富猪一郎) 「一外交官の見た明治維新」(アーネスト・サトウ) 「醒めた炎」(村松剛) 「大久保利通」(松原致遠編) 「木戸孝允」(田中惣五郎) 「木戸孝允」(伊藤痴遊) 「観樹将軍回顧録」(三浦梧楼) 「木戸孝允文書」推薦文(マツノ書店パンフレット) |