龍馬・小五郎書簡
龍馬から小五郎へ(慶応2年2月6日) このたびの使者村新(村田新八)同行にて参上仕り可なれども、実に心に任せざる義これ在り、故は先月二十三日夜伏水(見)に一宿仕り候ところ、不斗(はからず)も幕府より人数さし立て、龍(馬)を打取るとて夜八ツ時ごろ二十人ばかり寝所に押し込み、皆手ごとに鑓とり持ち、口々に上意々々と申し候につき、少々論弁もいたし候えども、早も殺し候勢いあい見え候ゆえ、是非なくかの高杉よりおくられ候ピストールをもって打払い、一人を打ちたおし候。何れ近間に候えば、さらにあだ射ち仕らず候えども、玉目少なく候えば、手を負いながら引取り候者四人ござ候。 この時初め三発致し候とき、ピストールを持ちし手を切られ候えども浅手にて候。そのひまに隣家の家をたたき破り、うしろの町に出候て、薩(摩)の伏水(見)屋敷に引取り申し候。ただ今はその手きず養生中にて、参上ととのはず、何とぞ、御仁免願い奉り候。いずれ近々拝顔、万謝奉り候。謹言々。 二月六夕 龍 木圭(桂)先生 机下 龍馬から小五郎へ(慶応2年7月4日) お別後、お郡(小郡)までまいり候ところ、下関はまた戦争と弟(私)思うに、どうぞまたやじ馬はさしてく礼(れ)まいかと、早々道を急ぎたく、御さしそえの人に相談仕り候ところ、随分よろしかるべしとて夜をかけて道を急ぎ申し、四日朝関(下関)に参り申し候、いずれ近日拝顔の時に残し申し候。 七月四日 龍 木圭先生 左右 なお、このたびの戦争はおりからまた英船が見物して、長崎のほうへ参り候はおもしろき事に候。 追白 先日お話しの英仏の軍艦の関に参り候ものは、兼て参ると申し軍艦にてはなし。(飛脚船のようなるものとあい見え候よし) 兼て来ると申す舶は二舷砲門の艦(この軍艦には「アドミラール」及び「ミニストル」も参り候やに承り候。先日参り候船は是はおらざりしよし)にて、これは近日また参り申すべきか、 弟思うに村田新八が来ずはこの故にてはなきか。 早々。 これも又思うべし。 (注) アドミラールは総督、提督、 ミニストルは公使、閣僚か。 龍馬から小五郎へ(慶応2年7月27日) 五大才(五代才助)には火薬千金ばかり云々(うんうん)頼みおき候。 一、 小松、西郷などは国に居りもうし候。大坂のほうは大久保、岩下(左次右衛門)がうけ持ちなりとて、彼れ両人の周旋のよしなり。 一、 人数は七八百上りたりと聞こゆ。 一、 幕の翔鶴丸艦は長州より帰り、また先日出帆いたし、道中にて船をす(洲)にのりかけて、今長崎へ帰りたり。 一、 幕は夷艦を買入れ致すことを大いに周旋、今また、二艘ばかり取入れになるよふす(様子)。 一、 幕船たいてい水夫ども何故にや、将の命令を用ひず、先日も翔鶴丸は水夫頭およびその外十八人一同に逃げだし行方知れず。 一、 私ども水夫一人(随分気強き者なり)幕船へのりたれば(夫(ソレ)もまだたしかには知れず)、もし関(下関)のほうへ行くよふなる事なれば、平生(常)の幕船とはちがい候かもしれず、お心得然るべきかな、この為申上げる。 七月二七日 坂本龍馬 木圭先生 龍馬から小五郎へ(慶応2年12月15日) ますますご安泰大賀奉り候。 然るに先日は薩(摩)行き遊候と承り候えども、 長崎においても折あしくご面会申上げず、まことに失敬のこと この頃は東廻り(三田尻廻り)にてご帰国と存じ奉り候ところ、存外お手間とり候て昨日お帰りと先刻承り候。 弟このたびは万々お礼申し上げ、少々お聞(耳)に達しおきたき事もこれ在り候て、お尋ね仕り候。 また承り候えば、はや明日ご出船と、定めてこの頃ご多用に候べしと存じ奉り候えば、事により近日山口までもお尋ね申すべきかと存じ奉り候間、なにとぞご面倒ながら御足お止められ候ところを一筆お印おき遣わさるべきよう希み奉り候。 頓首。 十五日 追白、弟ただ今は伊藤助大夫にとまり居り申し候。 再拝々。 坂本龍馬 木圭先生机下 龍馬から小五郎へ(慶応3年1月03日) 広沢(兵助)先生および山田(宇右衛門)先生の方にも万々よろしくお頼み申し上げ候。再拝。 改年賀事御同意、御儀存じ奉り候。 然るにお別後三田尻のほうに出かけんとするところ、井上兄よりお噺(はなし)おき候て、すぐ下の関に罷り帰り申し候。かねてお示しのごとく越荷方(こしにかた)久保松太郎先生にお目にかかり、止宿のところお頼み、すなわち阿弥太(陀)寺伊藤助太夫方にあいなり申し候。これより近日長崎に参り、またこの地に帰り申すべしと存じ居り申し候。いずれその節またまたおはなしもうかがい候。まずは早々、拝稽首。 正月三日 龍馬 木圭先生 足下 追白、井上氏に送り候手紙、ご面倒ながらよろしくお頼み申し上げ候。 木圭先生 虎皮下 龍 龍馬から小五郎へ(慶応3年1月14日) 追白、溝渕広之丞よりさし出し候品物は中島作(信行)にあい頼み申し候間、お受取り遣わさるべく候。かの広之丞まことに先生のご恩をかんじ、実にありがたがり居り申し候。 再拝。 一筆啓上仕り候。益々ご安泰なされらる可く御座候。 然るに先頃は罷り出段お世話ありがたき次第、万謝奉り候。その節溝淵広之丞にお申し聞かせあい願い候事件を、同国の重役後藤象二郎、一々相談候より余ほど夜の明け候気色、重役どもまた密かに小弟にも面会仕り候故、十分論じ申し候。この頃は土佐国は一新の起歩(きほ)あい見え申し候。 その事どもはくわしく、さし出し候中島作太郎に申し聞かせ候間、お聞きとり遣わさるべし。 もとよりこの一新仕り候も、まことに先生のお力と拝し奉り候ことにござ候。当時にても土佐国は幕(府)の役には立ち申さぬ位のところは相はこび申し候。今年、七八月にもあいなり候へば、事により昔の長薩土とあいなり申すべしとあい楽しみ居り申し候。その余拝顔の期、万々申し上げるべく候。稽首々。 十四日 龍馬 木圭先生 足下 龍馬から小五郎へ(慶応3年6月10日) 一筆啓上仕り候。然るに天下の勢云々。 さて肥後庄村助右衛門、度々面会、大兄にお目にかかりたきよし。 其故は云々――この間は石田栄吉よりくわしく申上げる、お聞取りにてご返書願い奉り候。 なにとぞ、思召しのほどお聞かせ願い奉り候。謹言。 六月十日 龍馬 木圭先生 才谷 龍馬から小五郎へ(慶応3年9月20日) 一筆啓上仕り候。 然るに先日のご書中大芝居の一件、兼て存じおり候ところとや、実におもしろくよく相わかり申し候間、いよいよ奮発仕るべく存じ奉り候。 その後長崎においても上国のこと種々心にかかり候内、少々存じ付候旨もこれあり候より、私一身の存じ付にて手銃一千挺買い求め、芸州蒸気船をかり入れ、本国(土佐)につみ廻さんと今日、下関までまいり候ところ、はからずも伊藤兄(俊輔)上国よりおかえり成され、お目にかかり候て、薩土及び云々、また大久保が使者に来たりし事まで承り申し候より、急々本国をすくわん事を欲し、この所に止り拝顔を希ふにひまなく、残念ながら出帆仕り候。 小弟思ふにこれよりかへり乾退助に引合おき、それより上国に出候て、後藤象二郎を国にかへすか、又は長崎へ出すかに仕り可と存じ申し候。先生のほうには御やくし申し上げ候時勢云々の認(したため)もの御出来にあいなり居り申し候はんと存じ奉り候。 この上この頃の上国の論は先生に御直にうかがい候えば、はたして小弟の愚論と同一かとも存じ奉り候えども、なんとも筆には尽くしかね申し候。 かれこれの所をもって、心中お察し遣わさるべく候。なお後日の時を期し候。誠恐謹言。 九月廿日 龍馬 木圭先生 |