小五郎のことに触れた  
他者あての龍馬書簡

漢字、カタカナをひらがなに直している箇所があります。
* ここでは、小五郎に触れている箇所だけ抜粋して掲載しています。

龍馬から渋谷彦助宛(慶応元年閏5月5日)

 追々
 来五月六日桂小五郎山口より参り面会仕り候ところ、惣方長州の論とハかわり余程大丈夫にてたのもしく存じ候。当時小五郎は大いに用られ国論なども取り定め候事書出候よしにて、ともに、ともによろこび候事に御座候、かしこ

(現代訳 − 閏五月六日、桂小五郎が山口から参り、面会いたしましたところ、一般の長州人の考え(尊攘激派)とは違って、大人物で頼もしく存じます。当時小五郎は長州で重く用いられており、藩論を取り決めるそうです。このことをともに喜んでいる次第です)

(註) 渋谷彦助は大宰府で三条実美らを警護していた薩摩藩士。


龍馬から坂本権平、乙女、おやべ宛(慶応元年9月7日)

当時長州に人物なしと雖も、桂小五郎なるものあり。
故に之に書を送りければ、早速に山口の砦を出来り候。数件の談あり。
末に及び彼宇和島より来るの書の事に及び候。
龍この地に止まる前後六十日計(ばかり)なり。
その頃和蘭舶中国海より玄海に出るあり。時にこれを止む。
長官の者上陸人数八名、その内英人一名あり。
桂小五郎及び井(伊)藤春助(輔)ら、大いに憤り、ある時に当たれば彼の宇和島より来るところの書を以って曰く〜





龍馬から坂本権平、一同宛(慶応2年12月4日)

一、別紙に木桂と申す人の(桂小五郎と申人なり)手紙これあり候。是は長州の政事を預かり候第一の人物にて、この人の手跡、四方の人ほしがり候。幸い手元に数々之れ有から指し出し候。

  (この間、下関海戦などについて長文の説明あり)

一、 当時天下の人物と云うは、
 徳川家には大久保一翁、勝安房守
 越前にては三岡八郎、長谷部勘右衛門
 肥後に  横井平四郎
 薩にて  小松 帯刀(是は家老にて、海軍惣大将なり)
    西郷吉之助(是は国内軍事に懸かる事国家の進退この人に預かる)
 長州にて 桂 小五郎(国家の進退を預かる。当時木戸寛次郎)、
        高松(杉) 晋作(この人は軍事に預かる、この人下関に出、小倉攻めの惣大将。当時谷潜蔵。




龍馬から佐々木高行宛(慶応3年8月26日)

一筆啓上候。
然るに今日木桂(桂小五郎)より一紙相達し候間、ご覧に入れ候。同人事(こと)は御国の情によく通じ居り候ものにて、彼 初め強く後、女の如し、などはもっとも吾が病にさし当り申し候。何とぞ御国の議論も根強く仕り度、唯この所一向にご尽力願い奉り候、謹言。



その他、慶応2年1月3日、久保松太郎宛の手紙に、

「然るに別封桂小五郎先生まで相達し申したく、いつにてもよろしく御便の節、御送り願い奉り候」とあります。久保に託した桂宛の手紙は「木戸家文書」の中にも見つかっていないようです。

(註) 久保松太郎は長州藩士で松下村塾出身。明治11年没。


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