龍馬・小五郎書簡
小五郎から龍馬へ(慶応2年2月22日) 小笠原閣老(壱岐守長行)、肥前と尊藩の大夫などを呼出し候よし、いかなる事かあい分からず候。朶雲(お手紙)御投興拝見奉り候 いよいよ以ってご壮栄にご起居、大賀この事に存じ奉り候。さて先般上京中は大兄のご深意にて微意も徹底、感喜忘れ難く存じ奉り候。浪華(大阪)から呈し(差上)候六条の書お返し与りお裏書を拝見、安堵仕り居り申し候。 このたびは村田、川村、木藤諸氏(みな薩摩人)遠路わざわざ来訪、欣喜この事にござ候。誠に暫くの滞留につき、何事も残念のみお察し下さるべく候。小笠原閣老も下芸いま以って病気にてさらに何事もこれ無く紀彦、小倉もっとも悪しきよし、榊原雲州などがこれへ雷同いたし候て騒ぎ候様子、外藩諸侯にては独り肥後がもっとも姦邪と申すことにござ候。 近況は村田諸氏より直にご承知遣さるべく候。何よりも目出度きことは大兄伏水(見)のご災難ちょっと最早承り候ときは骨も冷たくあいなり驚き入り候ところ、ご無難(無事)の様子、巨細承知仕り雀躍に堪えず候。大兄は御心の公明と御量の寛大とにお任せ成され候て、とかくご用捨これ無き方にござ候えども、孤狸の世界か豺狼の世間かさらにあい分らぬ世の中につき、少しく天日の光あい見へ候までは必ずなに事もご用心 神州の御ため尽力肝要の御ことに存じ奉り候。遠からず戦場にも至り申すべく候。何分にも天下の事は只ただ機会を失うと失わぬにこれ有申し候。いかなる良策にても機におくれ候ては万端覚束なく候。石川(中岡慎太郎)兄も先日御上京当時は御同居に候哉、大兄伏見の事を承り候故お気遣い申し候。細川兄は御無事にござ候哉、諸兄くれぐれも御疎なくご注意、賊手に御陥りこれ無きよう偏(ひとえ)に祈念奉り候乍この上はせいぜいご自愛肝要に存じ奉り候。まずはとり急ぎかくの如くござ候。頓首九拝 二月二十二日 龍 大 兄御急披 木圭 小五郎から龍馬へ(慶応2年12月19日) 大乱筆御推覧願い奉り候、この度も真の大略のみのお噺(はなし)申上げ候えども、溝口君にはご承知くだされ、いよいよご壮栄に居べきと大賀この事に存じ奉り候。さてこの度はせっかく遠路わざわざ溝口君お出でくだされ候ところ、 候えども、貴国の弊国をご疑惑成られ候ことは、なかなか容易にござ無く候間、ご氷解など申未だ何れか取紛れおり、始終失敬のみあい働き、なんとも恐れ入り奉り候。この段老兄より悪しからずお断り遣わさるべく候。また 事は、満々むつかしき事と元より存じ奉り候。然し乍溝口君にわざわざお出で下され候儀は、有難く奉り又この品は千萬軽少の極みにござ候えども、ご餞別の印までに、溝口君に差上げたく存じ奉り候間、是またよろしく 存じ候ことにござ候。 なお先日、失敬を顧みず、従来の国情おはなし仕り候ところ、元来の行きがかり、一朝一夕の事にござ無く候間、真の大略までにて尽さぬところも少なからず、この後自然も貴国の御方ご承知成りたしとの御事にござ候えば、随分取り綴りにてもご覧に入れ申すべく候。この別紙書面は、当夏芸州にて応接の末もはや戦争に至らんとする堺に差し出し候書面にござ候。ただこの一書面のみにては、従来の事もあい分りかね候儀にござ候えども、弟手元に有り合せ申し候間、老兄までご覧に入れ申し候間、さようご承知願い奉り候。士民合議書先日おはなしこれ有り申し候につき、会議所へあい頼み、二部だけこれ有り候由にて、差し送り申し候間、これまたお送り申しあげ候。か様のものをご覧に入れ候も甚だもって赤顔のしだいにつき、この段お含み遣、みだりに世間へお示しはご用捨願い上げ奉り候。 先日ご同船仕り候船も、早々馬関の方に罷り越申すべき候間、自然溝口君、馬関辺りお出でに候えば、ご乗船成られるべく候。粗船の将河野又十郎ともうす者にも申し越しおき候間、ご決定にござ候えば、老兄より船将に仰せ越くださるべく候。必ずお受合い申上げるべく候。さ候て、老兄には山口お出で下さるべく候。誠にご苦労と存じ奉り候。そのうち五六日もあいたち候と政府のもの三田尻に出浮候ものもこれあるべきと存じ奉り候。まずは右申し上げたく呈し奉り候。 何分にも溝口君には不敬の段、よろしくお断り成遣され、万端悪しからぬ様御致意願い上げ奉り候。 梶X頓首拝。 十二月十九日 尚々、備前侯の上書手に入れありがたく存じ奉り候事にござ候。只ただ弊国のためありがたきにこれ無く、皇国の御ため、かかる御信切の思召しありがたく存じ奉り候事にござ候。すでにご覧ならせ候かは、存じ申さず候えども、有合せ申し候間、ご覧に入れ申し候。 梶X頓首。 坂本老兄 内密御直拆 木 戸 (註) 致意 − 自分の考えを相手に伝えること。 小五郎から龍馬へ(慶応3年1月15日) 大乱筆ご推覧ねがい奉り候。なにとぞ別紙の如くすべて公平の建白書、逐々薩州公ども(以下、空白多く省略) 容堂公 ご覧に備えられたき御事と存じ奉り候拝(空白) その客と内密に暫く同行当節は留守にてござ候。この事は必ず必ずどこへもお秘しおきくださるべく候。しきりに三征説これあり、いかがの訳かは一向に聞こえ申さず候えども、実にもって油断あいならず候につき、その用意のみいたし申し候。御地辺りの光景いかがにござ候哉。幸便次第巨細にあい窺いたく存じ奉り候。なに分上国の光景もさらにあい分らず、定めて幕(府)の横暴は益々甚だしき事とのみ、あい察せられ申し候。然るところ、近来薩州のご人数も多くお引揚げにあいなり京師はいたって無人のよし、然し小大夫西大氏(小松帯刀、西郷、大久保)等は詰め居りのよし、いかなる見込みに候ことやと密かに窺いたく存じ居り申し候。 もとより先生たちの事につき、何も疎かはこれ有るまじく候えども、今日世上の評判どおりにてはなかなか人数引揚げなどとは思いもよらざる事にござ候。なにかご承知の事ども候はば、あい窺いたく存じ奉り候。またその後お国のご様子いかがにござ候哉。何とぞ何とぞご回復ご振興これ有りたく、只ただ祈念奉り候。いよいよご一新に候はば薩などご合体候はば、また別段の御事と天下のために存じ奉り候ことにござ候。まずはご様子お尋ねかたがた一書を呈し奉り候。その中時下別してご自玉第一に存じ奉り候。梶X頓首 正月十五日 なお別紙は昨秋越春嶽公の建白と申すことにござ候。さすが春嶽公、実に感銘奉り候。一々公平至正のご主意 幕へも只ただ正にかへり候ことをお進めこれあり申し候。容堂公には実に天下のためもっとも結構なる御事と存じ奉り候。弟実に感服仕り候につき、老兄へ差上げ申し候。薩州となにとぞ御合一に成らせられ候辺り尤も急務と存じ奉り候拝 龍 大 兄御内披 竿 鈴 小五郎から龍馬へ(慶応3年6月29日) 拝啓、引継(つづ)き内外容易ならざるご苦慮のよし、い曲石田(英吉、土佐人で海援隊士)兄よりあいうかがい、欽慕奉り候。紀州一件もいかが哉と存じ奉り候ところ、ご応接のしだい承知仕り、かくこれ有る可義とは存じ奉り居り候えども、ここに至って図らずも雀躍仕り候。肥後庄邨(荘村助右衛門)へ返書の義、石田兄より是またあいうかがい候につき、即ち別紙差出し候あいだ、よろしく願い奉り候。時に上国の風説取りどりにて甚だ懸念仕り候。 老君上にもご帰国遊ばされ候よし、いかがの御事にござ候哉。近況苦しからざる儀はあい伺いたく存じ奉り候。先々は後藤君ご一同、馬関ご通行のよし、駈違ひ拝青仕りえず、残懐に存じ奉り候。使節のことも石田兄へご伝言くだされ候ところ、この節は上にもご帰国遊ばせられ居、また後藤君などもご帰国中と存じ奉り、寡君の存じ付もこれ有り申し候間、お引請いかがこれ有るべきかと存じ奉り候えども、とりあえず差出し申し候。い細は石田兄よりご承知下さるべく候。先ずは其のため申し上げたく存じ上げ奉り候。梶X頓首拝 六月二十九日 竿 鈴 龍 大 兄拝呈 (解説) 5月に京都で開かれた四侯会議がうまくまとまらず、山内容堂公はすでに14日に帰藩していた。この時期、大政奉還の話が進行中であり、龍馬が武力倒幕を決定している薩摩に働きかけて、6月22日に薩土盟約が結ばれた。龍馬はさらに長土の提携を画策して、石田英吉を木戸孝允のところにやり、長州藩の使者を土佐藩に派遣することをすすめたのである。 前文の紀州一件とは、海援隊のチャーター商船「いろは丸」が濃霧の瀬戸内海で紀州藩船「明光丸」に激突されて沈没した事件のこと。肥後藩士への返書云々は、龍馬が薩長土に加えて肥後(熊本)藩を誘おうという意図から、小五郎に荘村を紹介したもの。 小五郎から龍馬へ(慶応3年8月) 朶雲(お手紙)拝誦奉り候。いよいよ御清適大賀奉り候。近頃御疎濶にうち過ぎ候ところ、引きつづき萬緒ご尽力と遙察奉り候。さては庄村氏返書の義、御伝意畏まり奉り候。庄村氏は十年前相武の間にて面接いたし、その後絶えて様子も承知仕らず候うち、当春(昨冬)崎陽英人より様子承り候につき、旧誼をもって□□仕り候ところ、それ巳(以)後同氏より一書到来いたし、甚だもって懇切の次第につき報復仕る可と存じ候ところ、彼の御藩論同氏の説とも相違仕り候か、幣国今日の仕合に立ち至り候も、寡君をはじめ臣子一統さらに好んで求め仕り候義は少しも御坐なく候えども、これまたやむを得ずの行きがかり、老兄もご推知くだされ候とおり、弟らに於ても臣子の是非なきことにござ候。元来、幣国においてはかの御藩へ旧来の御因もこれあり、童蒙のものまでも相弁え居り候ほどのことに候ところ、近来いかがの事に候哉分けて幣藩を讎視(しゅうし)せられ、一昨年などは天下の列侯に先んじ再討の御先鋒歎願まで差し出され、継いで昨年も外藩諸侯にては四方肥後のほか銃口を我に向け候藩は別にこれなく、士民といえども怨望なきにしもあらず。なお先ごろ小笠原、ご幼君を藩人(家臣)肥後表へお迎えに罷り出候ところ、この節上国の模様もこれ有候につき、先ずお帰り成(ママ)不被為成(ならせられず)候方しかるべしとの事にて家臣ども空しく豊前へまかり越し候よし、なおまたこの頃、帰国かけと申しわざわざ来着、弊国はご承知のとおりにつき、上国近況もあい分りかね候ところ種々上国の近説噺これあり、余ほど薩州の非を挙げられ将軍家をもっとも称誉とかく幕命通りに随従いたし候ようとの由に候ところ、今日のことは実に私心をもってあい図り候ことにつき□□実に神州の大義に関係仕り候については、現に将軍家ご兄弟の備因等にてもその非はご忠責ならせられ候折柄、ご私因はこれあり候にもせよ堂々たる大藩高大の天恩をご忘却千歳の不条理を残しなされ候儀は、侯に於いては決してこれなき御事と存じ奉り候えども、何分にも昨今の情実少しもあい分らず庄村氏へは前に申し上げ候とおり旧誼をもって伝言仕り候ところ、至って懇切の尋ねにあずかり書中肥(後)薩(摩)長(州)雲(州)互いに握手云々などの事もこれあり感心仕り候につき、すぐさま報復いたすべしと存じおり候えども、同氏の説と御国論とは相違にもこれあり候かにあい察せられ候あいだ、自然も一封の書よりして嫌疑を起こし同氏の迷惑などもこれあり候てはあい済まずと控えおり候ことにござ候。 (解説) 坂本龍馬が肥後藩の庄村助右衛門の書に回答するよう木戸に促したが、木戸は庄村の話と肥後の藩論が違うことを危惧して、返事を控えていることを龍馬に知らせている。「龍馬から小五郎へ」慶応3年6月10日付書状を参照。 小五郎から龍馬へ(慶応3年9月4日) 爾後いよいよご壮榮に引継ご高配遙察奉り候。さて滞崎(長崎滞在)中はいろいろご高意を蒙り多謝奉り候。ご迷惑の一条如何お片付あい成り候哉、早々お済にあい成り候邊、陰ながら心急かしく存じ奉り候。平時にご内話あい窺い候、上の方の芝居も近寄どもは仕らず哉。何分にもこのたびの狂言は大舞台の基をあい立候次第につき、是非とも甘く出かし申さずてはあい済まず、世間且々役に立ち候、頭取株は申すにおよばず、且また舞台の勤まり候ものどもは仲間に引き込み候工風もまた肝要と存じ奉り候。何分にもご工風ご尽力ねがい奉り候。 庄村氏の一條如何、是もせめて内輪だけにても芝居の趣向を立、つまり外の大芝居の役に立ち候こと六つかしき都合に候えば、却って内の芝居にて外へ出ぬだけにても然るべしと存じ奉り候。いづれ外の役は六つかしきと存じ奉り候。且つ又乾頭取の役前この末は最も肝要と存じ奉られ申し候。なにとぞ万端の趣向、ここにおいては乾頭取と西吉(西郷)座元と得と打合にあい成りおり、手筈きまり居り候こと尤も急務かと存じ奉り候。この狂言食い違い候ては、世上の大笑いとあい成り候はもとより、ついに大舞台の崩れは必然と存じ奉り候。しかる上は芝居はこと止みとあい成り申し候。ご同意に成らせ在候はば、一飛脚にても乾頭取元へ差越され、ご決定にあい成り居り度候ことかと存じ奉り候。ぜひ乾頭取はこの後は西吉座元とご同居くらいにても然る可様存じ奉り候。 ご高案如何、狂言の始末一定の所甚だ肝要に存じ奉り候。且つまた大外向の都合もなにとぞ其の御元ひこなどと極内とくと仰せられ談置、諸事お手筈専要に是れまた存じ奉り候。実に大外向のよしあしは必ず芝居の成否盛衰に訖度あいかかわり申し候。この上ながら四方八方へ御目をおくばり成らせ候てご尽力、芝居大出来と申すところに至り候ようご高配陰ながら祈念奉り候。 乾頭取のところも場合に後れては、丸々狂言は出来申さずは元より、実にいかよう考え申し候ても大舞台はそれぎりと存じ奉り申し候。即ち義経の早く行ってまつことあればいさぎよく、おそくていそぐ道は危しとはこの場合かと愚考仕り候。 時に拝借金大いにありがたく存じ奉り候。近日御地へ差し送り申し候あいだ、急ぎ早々ご返上仕るべく候。宜しくお聞済遣され候べく願い奉り候。先は幸便に任せ、取り敢えず愚考のまま申し上げ候。ご取捨願い奉り候。毫末ながら佐々木君はじめ諸君へ然るべくご致意願い奉り候。その中時下ご時玉第一に存じ奉り候。 梶X頓首拝。 九月四日 尚々この芝居に付候ては少しも損のいかぬようご工風ならせ在、且また役に立ち候ものは御引込みならせ在たく、迂遠ながら存じ奉り候。敬白。 さ い 様 御内拆御火中 き と(木戸) * 上記の名前、さい(才谷梅太郎)は龍馬の変名。 (解説) 解説は後日UPいたします。 |