維新以降、木戸孝允は病弱で新政府の要職を辞することが多かったので、政治家としてなにもしなかったと思っている人がかなりいるようです。政府の政策を決めていたのは大久保利通ひとりだったと考えるのは大変な間違いです。少なくとも維新初期においては、近代化政策を含めてかなりの面で木戸孝允がリーダーシップをとっていたのです。五箇条の御誓文、版籍奉還、廃藩置県、教育制度など重要な政策の主唱者は木戸孝允でした。彼は最初から三権分立、民権確立、軍・政分離を基礎とした国体のビジョンをしっかりと持っていたのです。 ■ 両雄並び立たず しかし、国政においてトップリーダーが二人というのは、政局をきわめて難しくします。どちらかが主導権を握ろうとするからです。明治6年の「征韓論」政争における大久保と西郷隆盛のばあいも、つまるところ主導権争いで西郷が負けたというのが実情でしょう。西郷を政府に迎え入れたときから、その火種は意識下で醸成されていたといえます。本人同士の問題ばかりでなく、武官と文官の対立を代表する色合いが濃く、木戸孝允と大久保利通が共同戦線を張ったのも、西郷の主張がとおれば、いずれ軍人が政治に介入することになるという危機意識を共有したからだと思われます。とくに先見の明のある木戸孝允は、単なる朝鮮使節の派遣で問題が終わるわけではないことを、明らかに予知していたに違いありません。 西郷の下野以降は、病気で廟議に出席できなかった木戸の国政への影響力が相対的に弱まり、大久保の独壇場になってゆきます。しかし、ここに木戸孝允のすぐれて政治的な戦略が発揮されるのです。 ■ 大久保の性格を熟知する 明治7年2月に起った佐賀の乱では、反乱軍鎮圧のため東京を留守にした大久保に代わって文部卿の木戸が内務卿を兼任することを承諾し、2人は協力して危機にあたりました。しかし、2月6日に大久保は大隈重信とともに「台湾蕃地処分要略」を閣議に提出し、強引に「台湾征討」を決定していました。これは明治4年に大風で台湾に漂着した琉球民54人が島の兇徒に殺された事件に関わる政策でした。佐賀の乱がまだ解決していなかったので、木戸は自分の意見を言うのを控えていましたが、大久保が九州に出発したあと、外征反対の意見書を提出しました。木戸は前年8月にも「征台、征韓速行反対の意見書」を提出しており、これに賛同した者たちが外征論に転じることの矛盾を鋭く突いたのです。 しかし大久保を説いても無駄なことが木戸にはわかっていました。大久保の決意には征韓論に敗れた鹿児島士族への配慮があり、彼の性格からも政治の主導権を他者に譲ることは考えられません。木戸は「国内3千万の人民の保護が政府の急務である」との持論を述べて、辞表を三条太政大臣に提出しました。三条、岩倉は木戸の決意を翻せないことを悟ると、参議兼文部卿を免じ、相手が断りがたい宮内省出仕の辞令を5月30日付で出します。でも、木戸は宮内省に休暇願いを出して、結局、山口県に帰ってしまいます。この「引き」の手は桂小五郎時代にも木戸がよく使っていた政治手法です。相手と正面から争わずに、負けを装って引いてしまうのです。 その後、西郷従道率いる3千をこえる将兵が台湾にわたり、清国との関係が緊張の度合いを深めてゆきます。清国は「台湾は自国の一部だから撤兵せよ」と言い、日本は「清国の行政権は生蕃人(原住民)にまで及んでいない」と主張します。日本政府は「清国が日本の軍事行動を是認して、償金を支払えば撤兵する。しかし拒絶したら開戦も辞さない」という方針を7月の閣議で採択しましたが、木戸直系の三浦、山田、鳥尾などが開戦論に抗議して辞表を提出するのです。このままの状態が長引くと政府自体が危うくなると思った大久保は、台湾出兵を認めたことに責任を感じてもいたので、三条、岩倉の反対を押し切って自ら清国に乗り込んで交渉することを決意します。そして8月初めには清国に向けて日本を発ち、9月10日に北京に到着。清国では強硬な態度を崩さずに1箇月以上も粘り強く交渉した結果、ついに相手に日本の出兵、償金の支払いを認めさせました。 「これで木戸を政府に呼び戻せる」と大久保は安堵の息をついたに違いありません。もし開戦となれば、木戸との仲は修復できなくなるかもしれない。木戸が戻ってこなければ政府はもたない。国内の政治基盤をしっかり固めるためにも、清国との問題はなんとしても平和的に解決しなければならないと大久保は思い、必死だったのでしょう。ところが、土壇場にきて清国が償金の支払いを明文化することを拒否したために交渉は暗礁に乗り上げてしまい、ここに至って日本側は開戦を覚悟することになるのです。 でも清国も戦争はけっして望んではいませんでした。ここでイギリス公使が仲介に乗り出したことで、両者もその打開案で了承することになりました。つまり、清は日本の派兵を「義挙」として認め、被災者に慰撫金を支払うということで、日本もこの案を受け容れたのです。要は撤兵の名目が立てばよいのであって、琉球を日本の一部と清に事実上、認めさせたことも大きな収穫でした。 交渉が決裂した時には、木戸は「国家の安危に関し容易ならざる事態につき、帰京せよ」という勅書を受け取っており、将来起こり得る事変について非常に憂慮していたので、和議成立の報せを受けたときにはさぞほっとしたことでしょう。 11月下旬に帰国した大久保は、翌日すぐに伊藤博文邸を訪れて、「木戸を政府に呼び戻したい」と相談します。彼は木戸を説得するために山口まで行くつもりでしたが、伊藤はさすがにそれはまずいと思い、大阪で会うことを提案します。 ■ 「引き」戦術の勝利 こうして大阪会議が翌明治7年2月11日に実現するのです。和解案は木戸の満足を考慮して伊藤が練って作り上げた三権分立案でした。そんな案を大久保が呑むはずがないと木戸は思っていたのですが、大久保はこの和解案を丸呑みしてしまいます。もちろん彼は内閣・行政の分離は時期尚早だと思っていました。未だ脆弱な維新政府の基盤を固めるためには、誰かが強力な指導力をもって牽引しなければならない。しかし、木戸を政府に取り込むためには木戸が満足する政策で吊るしかない。有司専制と非難される政治手法も木戸がいれば、その非難を緩和することができる。なによりも木戸は幕末の戦火をくぐり抜けてきた志士あがりの功臣であり、長州閥の首領である。彼を野に放てば、天下の安定は望めない――。焦る大久保のひとり言が聞こえてくるようです。 ここで木戸と大久保が和解にいたった政策案を紹介しましょう。 @ 大審院の創立 A 元老院の設置 B 地方官会議の定例化 @とAは司法と行政を分離する目的で設けられ、正院(大臣、参議から成る)と各省は切りはなして、大臣・参議は国政の基本のみを定めて実務に就かないことにし、地方官会議は将来の国会開設を視野に入れた地方民会の実現でした。4月には「漸次に立憲政体を立てる」という詔書が発布されました。たとえ不完全なものに終わったとしても、ここに民主政治の方向性が示されたのであり、その意味では「大阪会議」の意義は大きかったと言わねばなりません。 大久保にそこまで譲歩させたのは、実に木戸孝允ひとりの力であり、他の誰が提案しようとも、大久保は首を縦には振らなかったでしょう。木戸の「引き」の戦術は見事に勝利し、やがては明治22年の憲法発布、同23年の国会開設へとつながっていくことになるのです。 |