藩知事の世襲反対に関する自叙 |
明治二年六月、諸藩「版籍奉還」の請いを許さるゝの際、朝議延びて旬余(10日余り)におよび、終に三百諸侯をして改めて世襲知事に命ぜらるゝに内決せり。抑(そもそも)版籍奉還の事、由て起こる所以のものは、天下の実権一に帰し、徐々に人民平等の政を起し、勉て抑厭の積弊を一洗し、大いに皇国を振興し、億兆を安堵するに在り。 而して版籍奉還の請いを容れ、また直ちに命ずるに世襲の二字を以てする時は、纔(わず)かにその名を改めて、その実は則、従来の諸侯にすこしも異ならず。その請いを容るゝも何の益あらん。千苦万難今日を致す者忽(たちま)ち水泡に属し、大事まさに去らんとす今において断じて世襲の二字を除き且つ東京に本住を命じ、妻子の旧封に在るは之を任に携え赴く者とせば、その名義自ずから明らか也。 かくの如くして、知事たらしめば大勢も今日の目的に向はざるを得ず。因って切にこの意を主張し、以て建言す。数日の後、朝議ついに此れに決せり。而して今、その稿を失すゆえにその概略を識せり。 (解説) 明治2年6月に版籍奉還がなされる前の廟議においては、知藩事を世襲制にする意見が大勢を占めていました。木戸は知藩事が世襲になれば、将来目標とする廃藩置県の実現も難しくなることを懸念して大反対したのです。それでは旧来の諸侯となんら変わらない、これまでの苦労は無意味であり、なんのための維新か。知事を世襲制にすれば、天下はけっして統一できない――。そう思った木戸の大いなる抗論によって、ついに世襲制に内決されていた廟議はひっくりかえり、世襲の二字は永久に排除されたのです。維新以降における木戸孝允の功績には戦功と比べて派手さがないので、現在でも顧みられることが少ないのですが、「憲法制定の意見書」などを含め、のちの歴史を左右するほど重要なものだったことがわかります。 木戸孝允研究の第一人者・妻木忠太氏は、その果断の功を称えて次のように述べています。 公(木戸)が去年二月、諸侯の版籍奉還を建言せしこのかた、四面楚歌の中に独り毅然として所信を主張し、苦辛惨憺百折不撓(ふとう)の精神を益々鼓舞して毫末も一身の危害を顧念せず、日夜盡瘁(じんすい)して遂にその宿望を貫達した。その勲功の偉大なること、永く燦然として青史に光輝あるものである。 (註) 百折不撓(ひゃくせつふとう) − いくたび失敗してもくじけない。 盡瘁(じんすい) − 心を尽くして努力する。 青史(せいし) − 歴史 |