<人物紹介>
外 国 人 |
ペリー ハリス ヒュースケン プチャーチン ロッシュ パークス サトウ オールコック グラバー ペリー(1794〜1858) Matthew Calbraith Perry 日本を開国させた米海軍提督。ロードアイランド州キングストンでクリストファー・レイモンド・ペリー大佐の三男に生まれる。母はアイルランド出身のセーラ・ウォーレス。1809年、海軍に入り、西インド、地中海、アフリカ水域での海上勤務を経て、1833年、ニューヨーク海軍基地司令官に任命され、1841年、海軍工廠長となり、蒸気軍艦を建造して「蒸気海軍の父」として知られた。 1847年、メキシコ戦争に参加。1852年、東インド艦隊司令長官兼遣日特使となり、四隻の軍艦を率いて東海岸ノーフォークを出航、ケープタウン、セイロン、香港、上海、那覇、小笠原諸島・父島を経て嘉永六年(1863)六月三日(太陽暦7月8日)、浦賀に来航した。 予備交渉後に久里浜に上陸、日本の開国と通商を求める米大統領ミラード・フィルモアの親書を同地奉行にわたして、来春の再来を表明して香港に向った。幕府は大統領親書を公開して、諸侯に意見を求めた。これによって国中で鎖国か、開国かの論議が沸騰し、幕末の志士らの尊攘運動に発展して、幕府崩壊を招く結果となる。 翌年二月、七隻の軍艦を率いて再び浦賀に来航し、三月、幕府委員・林大学頭らと日米和親条約を締結した。同条約では下田、函館の開港、生活物資の供給、領事駐在権、片務的最恵国待遇を日本に認めさせた。六月には追加条約に調印し、通商の足がかりをつくった。 帰国後、「日本遠征記」三巻を編纂、刊行し、議会に提出した。1858年3月4日、64歳で死去。 遠征記の邦訳は「ペルリ提督日本遠征記」(一)〜(四)が岩波文庫で発行されている。 ハリス(1804〜1878) Townsend Harris 初代駐日総領事。ニューヨーク州サンディ・ヒルに生まれる。 中学卒業後、父母と兄の開いた陶磁器店の経営を手伝い、東洋商品を扱った。しかし両親の死後、不況のためハリス兄弟店は倒産。1847年にサンフランシスコに行き、インドシナ、清国方面を往来して東洋貿易に従事した。ペリー艦隊の日本派遣後は商人から外交官に転じ、1854年に寧波(ニンポ)領事に任命された。 翌年には駐日総領事に任ぜられるが、これは事前に日本行きの希望を大統領ピアースに訴えるなどの運動が効を奏した結果であった。シャム国と修好通商条約を締結後、ヒュースケンを伴って下田に着任し、玉泉寺を総領事館とした。まず下田条約を結んで、通商条約の基礎を作った。安政四年、再三にわたる要求により江戸出府が許可され、江戸城で将軍家定に謁見、大統領の親書を上呈した。また、老中堀田正睦に清国で起きたアロー号事件などから英仏軍の脅威、通商の重要性を説いて日本を条約交渉に入らせ、安政五年(1858)には日米修好通商条約の調印に成功した。翌年、全権公使に昇進し、麻布善福寺を公館として対日外交にあたった。 文久二年四月(1862年5月)、任を解かれ、南北戦争のさ中に帰米した。日本には五年九か月滞在し、通訳官ヒュースケンが暗殺された際には各国公使が横浜に退去したあとも、ひとり江戸に留まるなど独自に行動し、誠実な人柄が好まれて幕府の信頼も厚かった。 1878年2月28日、肺炎により七十三歳で死去した。下田滞在中の唐人お吉との艶話などが有名だが、ハリスは厳格なクリスチャンで、酒を飲まず、身を持することに厳しかったという。 ヒュースケン(1832〜1861) Henry Heusken 米国領事館(のち公使館)の通訳官だが、アムステルダム出身のオランダ人で、1853年にニューヨークに移住、米国に帰化した。 1855年、ハリスの書記兼通訳官となり、翌年にペナンでハリスと落ち合って来日した。以後、ハリスを常に補佐し、ときには代理も務めて開国初期の日米外交に尽した。 語学力に優れ、滞日中に習得した日本語以外にオランダ語、英語、フランス語を操った。1858年(安政五)にはイギリス使節エルギン、1860(万延元)年にはプロイセン使節オイレンブルクの条約締結に際して、通訳を務めて協力している。 1861(文久元)年1月16日、プロイセン使節の宿所からの帰途、三田で攘夷浪士に襲われて殉職した。享年28歳。外国使節が殺傷された最初の事件で、各国の外交官に大きな衝撃を与えた。幕府はヒュースケンの老母に扶助料・慰労金の名目で一万ドルを支払っている。 ヒュースケンの著書に日本滞在記 "Memoires de Voyage" がある。 プチャーチン(1804〜1884) Evfimii Vasilievich Putyatin ロシアの海軍軍人。日露国交を開くため嘉永六年(1853)七月、軍艦四隻を率いて長崎に来航。幕府代表筒井正憲、川路聖謨(としあきら)らと国境の確定、通商開始について交渉するが、拒否されて十月にいったん退去する。翌年一月長崎に再来、交渉を開始したが、クリミヤ戦争により英仏艦隊に攻撃されるおそれがあったため退去し、十月、軍艦ディアナ号に乗って函館に入港、安政元年十二月、下田に入港し、三たび幕府側と交渉して二十一日、日露和親条約を締結する。千島はエトロフとウルップ両島間を国境とし、樺太は雑居、函館、下田、長崎を開港させた。その間、安政の大地震による津波でディアナ号が沈没し、伊豆戸田村で新艦を建造させた。 安政三年(1857)九月七日、追加条約調印、同五年七月に日露修好通商条約を結んで、将軍世子に会見する。のち、文相、参議院議員となる。 彼の秘書ゴンチャロフが日露交渉を記した「日本滞在記」(井上満訳)を著している。 ロッシュ(1809〜1901) Leon Roches 幕末の駐日フランス公使で、前任のベルクールより積極的に幕府を支援して、雄藩連合政権の誕生を画策するイギリスの外交政策と激しく対立した。前歴は約三十年間北アフリカで植民地政策に従事し、チュニス総領事を経て元治元年(1864)に駐日全権公使として来日。同年末、横須賀製鉄所の工事を請負い、横浜フランス語学校を創立して幕臣教育に協力した。また、日仏合同商社設立を建議して、実業家クーレーが経済使節として来日、武器・軍需品売却の借款契約を結び、フランス人軍事教官団も来日した。 徳川慶喜の将軍就任に際しては、大阪城での各国公使謁見について助言を与えて成功に導いた。また、国政改革案を提出し、幕府を中心とする統一政権確立のために尽力した。明治元年、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸にもどった慶喜に、新政府軍との交戦を主張したが受け入れられなかった。その後、本国の対日政策が消極策に転じて、帰国命令を受け、後任のウトレーと交代するため離日、帰国後は退官してニースで没した。 パークス(1828〜1885) Harry Smith Parkes イギリスの外交官でイングランドのスタッフォードシャー生れ。1841年、中国へ渡り、アヘン戦争に参加する。44年、アモイ通弁官となり、以後、福州、上海、廈門、広東と転勤し、各地の領事を歴任、英タイ条約を締結する。56年、広東領事代理となり、アロー号事件では英仏連合軍に参加、捕虜となった。 62年、上海領事となり、65年(慶応元)7月、駐日公使兼総領事として横浜に着任。9月には四国艦隊(英仏米蘭)を兵庫沖に集結させ、開国をしぶる朝廷から通商条約の勅許をかち取り、改税約書の調印にも成功する。親幕政策をとる仏公使ロッシュとは対照的に、薩長両雄藩に接近し、天皇を頂点とする諸藩による統一政権樹立を支援する対日政策を推進した。 江戸城開城を斡旋し、68年5月、明治政府を最初に承認して発言力を強めた。83年(明治十六)7月、駐中国公使に転じるまで十八年間日本に滞留、時には威圧的な態度で新政府に接し、様々な助言もした。85年3月22日、在任中北京で死亡。享年57。 アーネスト・サトウ(1843〜1929) Ernest Satow イギリスの外交官。イギリス人の母とスウェーデン人の父との間にロンドンで生れる。日本名は佐藤愛之助。16歳でロンドンのユニバーシティカレッジの入学試験に合格。18歳のときに、兄が図書館から借りてきたローレンス・オリファントの著書「エルギン卿のシナ、日本への使節記」に強い関心を抱き、日本行きを決意。外務省の通訳生の募集に応じて合格し、希望通り日本駐在を命じられる。1862年に来日し、通訳官、書記官として駐日公使オールコック、パークスを援け、とくに西南雄藩の動向を探って、イギリスの対日政策を倒幕派支持に導いた。66年(慶応二)、「ジャパン・タイムズ」に雄藩連合政権の待望論を展開した「英国策論」を匿名で発表し、幕末の政情に大きな影響を与えた。83年(明治十六)に帰国し、中国総領事、ウルグアイ、モロッコ公使を経て、95年には日本公使を務めた。その後、中国公使、ハーグ平和会議の委員などを務め、外交官時代の功労によりサーの称号をゆるされた。日本語に堪能で、歴史、宗教、風俗などにも通じ、イギリスにおける本格的な日本研究の開拓者となった。著書は A Diplomat in Japan(「一外交官の見た明治維新」)、「日本歴史の一挿話」、「日本の地理」など多数。 オールコック(1809〜1897) Rutherford Alcock ロンドン郊外に生まれ、1832年、軍医としてポルトガル戦争に従軍する。1844年5月、清国福州領事に任ぜられ、外交官に転身。1858年(安政五)12月、広東領事より初代駐日総領事に任命され、翌年6月、江戸に着任、11月には全権公使に昇任し、芝高輪東禅寺に公使館を設けた。1861年(文久元年)5月、水戸浪士らが東禅寺を襲撃したが、辛くも難を逃れた。イギリスの貿易拡大をめざし、アメリカ公使ハリスと競い合って、次第に駐日外交団をリードするようになる。1864年(元治元年)8月、長州藩の下関海峡封鎖に対して、長州を懲らし日本人に攘夷の不可能なことを思い知らせるため、自ら提案した英米仏蘭の四国連合艦隊による下関砲撃を実行した。長州藩は降伏するが、300万ドルの賠償支払いは幕府に対して要求し、この後、薩長両雄藩に接近しはじめる。だが、外相ラッセルの訓令に反したため、12月に召還命令をうけ駐日公使を解任された。1865年、清国駐在公使を経て、1871年に引退。著書に「大君の都」がある。 グラバー(1838〜1911) Thomas Blake Glover イギリスの貿易商。スコットランド、アバディーンに生れる。日本姓は倉場。1858年、父と弟とともに上海にわたり商社に勤務する。翌年9月来日し、長崎のジャーディン・マゼソン商会の借地に居を構える。1861年、同商会支店として貿易商社グラバー商会を設立し、茶、生糸などを商うが、やがて武器弾薬、艦船などを諸藩に販売するようになる。とくに薩摩、長州とは関係を深め、伊藤博文、五代友厚らのイギリス留学を援助し、木戸孝允を私邸にかくまったりもした。慶応年間にはアーネスト・サトウとともに、駐日公使パークスの助言者として諸藩の事情を提供し、薩長同盟締結時には武器の提供などで倒幕派を側面援助した。戊辰戦争では軍靴を調達し、新政府のために造幣機械輸入、技師招聘・育成に努めた。 1870年、グラバー商会は破産するが、その後も高島炭鉱、三菱などで働き技術導入に尽力し、麒麟ビールの設立にも参画、日本の近代化に貢献した。日本女性を妻とし、明治44年12月16日、東京に没した。享年73。 |