<人物紹介>

水 戸 藩

 武田耕雲斎  藤田東湖  藤田小四郎  相楽総三



徳川斉昭(1800〜1860)  とくがわなりあき

水戸七代藩主治紀(はるとし)の三男に生まれる。幼名は虎三郎、のちに敬三郎。幼少より会沢安(号は正志斎。弘道館初代総裁))に学び、英才であった。兄の八代藩主斉脩(なりのぶ)が嗣子なく病没したため、文政十二年(1829)九代藩主となる。翌年には藤田東湖、戸田忠敝(ただあきら)らを登用して、藩政改革に着手する。民政を重視して藩校「弘道館」を設立し、尊皇の理念に基いて藩士の文武にわたる教育を推進した。
また、兵制改革では鉄砲を鋳造し、外国船に対する海防の強化にあたっては蝦夷地開拓、大船解禁などの意見書を幕府に提出した。しかし、斉昭の急激な改革を警戒した幕府は弘化元年(1844)五月、七か条の罪状をもって斉昭に隠居謹慎を命じた。この裏には、斉昭の性急な藩政改革に不満を抱いていた結城寅寿など保守門閥派の幕府に対する工作があった。だが、武田耕雲斎、高橋多一郎らの復職嘆願によって、同年十一月に処分は解かれた。
嘉永六年(1853)、米国使節ペリーが来航すると、七月に海防参与を命じられ、十か条の意見を建言して、大船製造の必要性や攘夷の実行などを説くとともに、大砲七十四門を幕府に献上した。だが、斉昭に好意的だった老中安部正弘が病死すると、通商条約や将軍継嗣問題などで大老井伊直弼と対立する。徳川慶勝、慶篤らと不時登城して条約調印を詰問したことから、安政五年七月、蟄居謹慎を命じられ、八月には水戸へ禁錮となり、活動の場を奪われた。万廷元年(1860)八月十五日、水戸城中で心臓発作を起こして死去した。

斉昭は死後に「烈公」と謚(おくりな)され、その強烈な個性と改革の手腕が称えられた。徹底した攘夷論者として知られるが、開国の必要性は感じていた。しかし、皇国防衛のためには、日本人の結束を促すために「攘夷」を旗印にすることが最も有効であると考えたようだ。



武田耕雲斎(1803〜1865)  たけだこううんさい

享和三年、跡部正続の長男に生まれる。宗家の正房の養子となり、文化十四年、家督を継いだ。文政十二年の藩主継嗣問題では藤田東湖らとともに斉昭擁立に尽力した。弘化元年に斉昭が蟄居処分になると、老中水野忠邦に嘆願書を提出して、致仕謹慎に処せられる。だが、斉昭の復権とともに許されて、安政三年(1856)、執政(家老)となり、尊攘運動を援助した。
安政六年(1859)、朝廷から下された勅諚(戊牛の密勅)の返納問題では返納に反対して、会沢らと対立した。万廷元年、丙辰丸盟約実現のため、長州藩士・桂小五郎が呼びかける水長二藩の重臣提携については、未だ長州藩の誠意を認めがたいとして拒絶する。文久元年六月、東禅寺の英国仮公使館襲撃事件が発生して、政務参与を免ぜられ、謹慎に処せられる。同年十一月、再び執政となり、一橋慶喜に随従して上京する。
元治元年(1864)三月、藤田小四郎ら、天狗党による筑波山挙兵に際しては、幕府から首謀者とみなされて、隠居謹慎処分を受ける。保守門閥派が諸生党を組織して、天狗党追討を始めると、耕雲斎は一族を率いて江戸へ向い、下総小金の東漸寺に拠り、ついで穴倉に移った。八月、藩内鎮撫の命をうけて下向した水戸支藩の宍戸藩主・松平頼徳(よりのり)に従ったが、諸生党の入城拒否にあって城兵と交戦する。十一月には筑波勢と合流し、京都を目指した。しかし十二月には越前・加賀藩に降伏し、鰊倉(にしんぐら)に拘禁される。慶応元年(1865)二月四日、敦賀海岸で多くの同志とともに斬罪に処せられた。同年三月二十五日、水戸で妻延子(四十歳)、子の桃丸(十歳)、金吾(三歳)が死罪となり、孫の孫三郎(十五歳)、金四郎(十三歳)、熊五郎(十歳)も死罪に処せられた。



藤田東湖(1806〜1855)  ふじたとうこ

文化三年(1806)、藤田幽谷の次男に生まれる。通称は虎之助、誠之進。幼少より文武の修業に励み、湊の堀川潜蔵に師事する。のち江戸に遊学中は太田錦城、亀田鵬斎らに学ぶ。 文政十年、家督を継いで二〇〇石を賜わり、進物番となる。同十二年の藩主継嗣問題では斉昭擁立に奔走した。天保元年、郡奉行となり、経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)に留意し、武備充実、庶政刷新を主張した。十一年には側用人となり、土地改正、弘道館建設の責任者となり、藩政の中枢に参与して天保改革を推進した。
弘化元年(1844)、斉昭が幕命により謹慎処分をうけると、戸田忠敝らとともに職を免ぜられ、蟄居の身となる。この間に「回天詩史」、「常陸帯」などを執筆し、水戸学の代表的著作である「弘道館記述義」を著した。弘化三年(1846)、蟄居の禁を解かれるが、藩より謹慎を命じられる。
嘉永五年(1852)謹慎が解かれ、同三年、ペリー来航後に斉昭が幕政に参与すると、海防御用掛・側用人として江戸詰となる。以後、橋本左内、横井小楠、西郷隆盛らと交遊して志士の信望を集める。安政二年(1855)十月二日、関東に大地震が起り、老母を助けようとして小石川の官舎で圧死した。

東湖は戸田忠敝、武田耕雲斎とともに「水戸の三田」と称され、その思想は朱子学的名分論によって貫かれた尊王攘夷論であった。



藤田小四郎(1842〜1865)  ふじたこしろう

天保十三年、藤田東湖の四男に生れる。名は信、字は子立。幼少から父の薫陶をうけ、明敏で才知に富み、かつ詩文、書画に長じていた。幕府を非難した朝廷からの「戊牛(ぼご)の密勅」返納問題では、尊攘激派として返納に反対した。
文久三年(1863)二月、藩主慶篤(よしあつ)の上京に随従し、長州の桂小五郎、久坂玄瑞ら諸藩の尊攘志士と交流した。帰藩後も長州、鳥取藩の有志と往来して国事を論じ、東西呼応の挙兵計画を実行しようと、武田耕雲斎に首領を頼んだが、かえって耕雲斎に軽挙を慎むよう諌められて断念した。
元治元年(1864)三月二十七日、水戸町奉行・田丸稲之衛門を総大将にむかえて、ついに筑波山で挙兵した(天狗党)。その後、日光東照宮の参拝に向ったが、幕府の日光奉行に阻止されたので、大平山に拠って一ヶ月半ほど宿陣し、五月に総勢七百人で再び筑波山に戻った。七月には水戸藩諸生党、幕府軍と交戦して勝利する。だが、水戸帰還を拒否され、陣容を立て直した幕府軍が加わった諸生党軍に包囲され苦戦、十一月には武田耕雲斎らと京都をめざして西上した。途中、追討諸藩と戦うが、十二月、越前に至って加賀藩に降伏し、鰊蔵(にしんぐら)に拘禁された。翌年二月四日、幕命により敦賀の海岸で処刑された。享年24。

追記: 処刑が一般窃盗などの罪人と同じ処刑場で行われるという屈辱的なものだったことを、後で知った大久保利通は「そのむごたらしい行為は、近く幕府が滅亡することを自ら示した」と日記に記している。処刑の決断者は水戸藩出身の徳川慶喜だった。



相楽総三(1840〜1868)  さがらそうぞう

郷士小島兵馬の四男に生れる。本名は四郎左衛門将満(まさみつ)。文武に秀で、20歳のとき、国学と兵学を講じる私塾を開設すると、門弟は百人を超えた。文久元年、父から五千両をもらって上州、信州、秋田を遊歴、尊王攘夷運動に奔走する。元治元年には天狗党の筑波挙兵に参加したが、藩内の党争にあきたらず、戦線を離脱して江戸に潜伏した。
慶応二年(1866)、京都に行き、尊攘志士たちと交流を深めて、「華夷弁」(かいべん)を著し、それを読んだ毛利敬親(長州藩主)を感心させた。やがて、薩摩藩の西郷隆盛と出逢い、西郷から江戸攪乱の密命をうけて江戸に入り、薩摩藩邸で同志とともに浪士隊を結成し、江戸市中の豪家を襲撃するなどして治安を攪乱した。このため幕軍が薩摩藩邸を焼討ちし、それがきっかけとなって鳥羽伏見の戦いがはじまった。
慶応四年(明治元年)、東征軍の先鋒隊として「赤報隊」が結成され、総三が一番隊隊長となった。出発前に新政府から「年貢半減令」の認可を得て、一月十五日、信州に向けて進撃を開始した。民衆は年貢半減令をよろこんで、赤報隊を支持した。だが、新政府は財政難から年貢半減を実行するのは不可能だったので、これを撤回し、赤報隊は偽官軍にされて、総三は東山道総督の下諏訪の陣営に呼び出され、全隊員とともに捕縛された。三月三日、総三以下、幹部七名は斬首され、他は追放された。死に臨んで総三は沈黙して、取り乱すことはなかったという。

追記: 昭和三年、昭和天皇のご即位大典によって、相楽総三に正五位が贈られた。翌年の靖国神社臨時大祭に、相楽総三を含む十五名の合祀が告示された。これは総三の孫にあたる人が祖父の冤罪を晴らすために、その名誉回復に奔走した努力の結実であった。

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