<人物紹介>
女 性 |
おうの 楠本いね 天璋院 和宮 中西君尾 木戸松子(1843〜1886) きどまつこ 木戸孝允夫人。若狭国小浜藩士・木咲市兵衛の二女で幼名は計(かず)。母は同藩医師・細川太中の娘末。 嘉永四年、父が死亡したため、母は京都御幸町の提灯屋に再嫁した。のちに松子は三本木吉田屋の芸妓竹中かのの養女となる。九歳で舞妓となり、十四歳で二代目「幾松」を名乗り、その才気と美貌で売れっ子となる。文久二年に長州藩士桂小五郎と知り合い、恋仲となった。桂は幾松を身請けするが、彼女は芸妓をやめずに情報収集などをして、尊攘運動に挺身する桂を援助した。 元治元年(1864)六月、池田屋事件後には新撰組の厳しい追及にも屈せず、桂を庇いとおした。同年七月の禁門の変後も、京で潜伏中の桂を命がけで庇護し、但馬国出石へ逃がした。その後、対馬藩士多田荘蔵に保護された幾松は、京都を発って馬関(下関)に逃れた。 慶応元年(1865)三月、出石の商人広戸甚助に伴われて桂を出石まで迎えにいく。四月に二人で帰藩すると、事実上、木戸孝允(旧名・桂小五郎)の妻となり、維新後には晴れて正式な木戸夫人となった。 明治十年に夫孝允が病死すると、松子は剃髪して翠香院と称し、京都木屋町の別邸で菩提を弔った。四十四歳で亡くなり、遺骸は京都霊山の夫の墓側に埋葬された。 おうの(1843〜1909) おうの 高杉晋作の側室。下関裏町の三味線芸者で、源氏名は此ノ糸。 明治後の戸籍では谷梅処。谷は晋作の変名だったが、亡くなる直前に藩主が百石を与えて、谷家の当主として晋作を独立させた。梅の花は晋作が好んだ花である。 おうのの経歴ははっきりしていない。萩城下の油商の娘で、生家の没落で遊女になったという説。また、生れは大阪という説。父は水戸藩士で母は京都の女性という説など、様々である。おうのの性格についても色々に伝えられているが、「右を向けと言われれば、いつまでも右を向いている」という従順な女性だったらしい。晋作に深く愛され、幕吏の追求を逃れるため、晋作はおうのを連れて逃避行したりもした。 慶応二年(1866)十月、晋作の病状が進むと、そばについて看病していたが、本妻雅子が萩から馬関にくると身を引いた。だが、雅子とともに晋作をみとり、剃髪して梅処尼(ばいしょに)と称した。結婚を勧める話もあったらしいが、尼僧となって晋作の菩提を弔った。 明治四十二年八月、六十七歳で没し、晋作と並んで葬られた。 楠本いね(1827〜1903) くすもといね オランダ商館医師シーボルトの娘として文政十年五月六日、長崎で生まれる。母は丸山の遊女其扇(そのぎ。本名、楠本滝)。文政十二年(1829)にシーボルトがスパイ容疑で国外追放となり、母子の苦難の道がはじまる。 滝はやむなく俵屋時次郎という商人と結婚し、いねが十四のときにシーボルトの弟子で宇和島藩開業医・二宮敬作に娘を預けた。いねは外科の術を敬作に学び、十八歳になると備前岡山の石井宗謙のもとで産科医の学問、技術を学んだ。石井には妻子があったが、いねに娘ただ(たか)を産ませている。 いねはたかを連れて長崎にもどり、嘉永四年(1851)十月から阿部魯庵(ろあん)について産科の修業をつづけた。その後、宇和島の二宮如山(敬作)門で産科医術を修業後、大村益次郎(村田蔵六)やオランダ医師ポンペ、ボードウェインからも直接指導を受けた。 安政六年(1859)、長崎西坂の刑場でポンペによって罪囚の死体解剖が行われた。そのとき集まった四十六名の医師のうち、ただ一人の女医師がいねであった。同年、長崎のカピタン(商館長)部屋で滝、いね、たかの三人はシーボルトと涙の対面をした。 その後、江戸に出た大村のあとを追って上京し、明治三年(1870)二月に東京築地一番町で産科医を開業する。日本初の西洋女医の誕生だった。明治六年七月、権典侍葉室光子の産事に際し、宮内省御用掛を命じられる。明治三十六年八月二十六日、七十七歳で没した。勝気な性格で、負けず嫌いだったという。 小説「花神」(司馬遼太郎作)に楠本いねと大村益次郎の興味深い交流が描かれている。 天璋院(1836〜1883) てんしょういん 島津斉彬の養女(島津一門、忠剛の娘)から、近衛忠熈の養女となって安政三年(1856)十一月、十三代将軍家定に嫁した。諱は敬子、通称篤姫(あつひめ)といった。二年後に家定が病没すると、落飾して天璋院と称した。その後、将軍継嗣問題が起るが、島津の推す一橋慶喜が敗れて紀州家の慶福が十四代将軍家茂となった。皇女和宮が降嫁してくると、聡明で勝気でもあった天璋院は一時、和宮と対立していたという。公家と武家のしきたりの相違などの問題もあったようだ。しかし明治元年、戊辰戦争が起こると、二人は徳川家存続のために心を一つにして尽力した。維新後も徳川家にとどまり、家名を相続した田安亀之助(徳川家達 いえさと)の養育に専念した。 和宮(1846〜1877) かずのみや 孝明天皇の妹で父は仁孝天皇、母は権大納言・橋本実久の娘経子。第八皇女で諱は親子といった。嘉永四年、有栖川宮熾仁親王と婚約するが、徳川幕府の公武合体策により婚約が解消され、文久元年(1861)十月に京都を発って将軍家茂に降嫁した。 四年後の慶応二年(1866)七月、長州再征中に家茂は大阪城で病没し、和宮は剃髪して静寛院と称した。明治元年、戊辰戦争により政府軍が東下してくると、将軍慶喜の請いをいれて徳川家救済の嘆願書を京都に送るとともに、政府軍の江戸進撃の猶予を請うた。江戸開城後は清水邸に移り、明治二年に京都に帰った。同七年、再び東京に移住し、平穏に時を過ごしていたが、十年九月、脚気治療のため滞在中の箱根で亡くなった。享年三十二。遺言により増上寺の徳川家霊廟に葬むられた。 中西君尾(1844〜1918) なかにしきみお 京都祇園・島村屋の芸妓で本名はきみといった。父は園部藩の入方元締・友七という博徒の親分だった。父の死後、母とともに京都建仁寺町の槍術師範・江良太造の世話になる。文久元年(1861)置屋・島村屋から君尾という名で芸妓に出た。勤王志士たち(高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎、井上聞多、品川弥二郎、西郷隆盛など)の贔屓をうけて、勤王芸者といわれた。とくに井上とは親交があつく、井上が俗論党の襲撃をうけた際に、君尾が贈った鏡を懐に入れていたために、とどめの刃を避けられたという。 また、薩摩の桐野利秋が幕府方の浪士に追われ、某公卿邸に逃げ込んだとき、居合わせた君尾の機転で浪士を退散させたという逸話もある。戊辰戦争で歌われた「宮さん宮さんお馬の前のひらひらするのはなんじゃいな」という「とことんやれ節」は品川が作詞をして、君尾が作曲したともいわれている。品川との間には一子をもうけている。 祇園一の美貌ときっぷのよさが評判となり、新撰組の近藤勇も彼女を口説いたが、「天子様のために尽してくださるお方でなければいや」といってはねつけたという。七十五歳の長寿を全うした。 辞世の句は「白梅でちよと一杯死出の旅」 |