<連載小説>

維 新 の 恋


(12) 大阪会議(その1)

大久保利通は病気保養のため有馬温泉に入湯を理由に休暇をとり、12月24日に横浜を発ち、26日に神戸に着くと、すぐに大阪にむかった。大阪では同郷の実業家、五代友厚の屋敷に滞在し、訪ねてきた税所篤(堺県令)、吉井友実などをまじえて囲碁、閑談をして時間を過ごした。
新年(明治8年)を大久保は大阪で、木戸は下関でむかえた。穏やかな晴の元旦で、木戸にとっても、大久保にとっても、手強い相手との舌戦を数日後にひかえて、いっ時の安らぎの中にあった。大久保が大阪に着いたことを、木戸はすでに内海大坂参事からの電報で知っていた。大久保のことだから、ぐずぐずしていると山口まで乗り込んで来かねない。三が日の休養もそこそこに、木戸は1月4日には馬関を発って、神戸に向かった。

翌1月5日、神戸ではすでに大久保が木戸の到着を待ち受けていた。大阪にいるとばかり思っていた大久保の出迎えをうけて、木戸は内心驚いたが、表面上は平静をよそおって久しぶりの挨拶をかわした。右手を差し出す大久保の所作に、木戸はとまどった。西洋風の握手をしようということなのだろう。しかし、とまどうこと自体がはやくも大久保の風下についてしまったのではないかと感じて、木戸もすぐに自分の右手を差し出した。相手は差し出されたその手を取り、強く握り締めてきた。二人の眼が合った。揺るぎない自信に満ちた大久保の眼光はいつもと変らなかったが、その表情は柔らかく、口元に笑みさえ浮かべている。木戸の胸に不安がわき上がり、おもわず握られた手を振りほどいた。
「誤解のないように言っておきますが、私は東京にもどる気はありません」
大久保は一瞬、獲物を狙うような鋭い眼で相手を見たが、すぐに微笑んで、
「まあ、そう早急に結論を出さずともよろしいでしょう。支那の件など、いろいろお話したいこともありますし、まずは互いの近況について語り合いましょう」
「私のほうは持病の脳痛に苦しんでおりますから、京都で静養したいと思っているのです。もちろん官職もすべて辞して、かねてから申し上げているように、隠退したいのですよ」
「京都でご静養なら、私も同道いたしましょう。あなたとゆっくりお話ができるなら、どこであろうと構いません」
そう言われて木戸は沈黙した。この男はどこに逃れようと、追っかけてくるつもりなのだ。一度、膝談判で話し合わなければ、どうにもならぬか――。
「わかりました、大久保さん。すべては大阪で決着をつけましょう。この際、私も腹を割って言いたいことを言わせていただきますから。そのうえで、私の心情をご理解いただきたい」
大久保の顔にぱっと喜色がうかび、
「それでは大阪でまた、お逢いしましょう。私は五代友厚の屋敷に逗留しておりますから、一度ご来訪ください。まずは囲碁などして緩々閑談いたしましょう」

それから3日後に、大久保と木戸の本格的な会談は行われた。大久保が木戸の旅宿を訪ね、いっしょに会談場所である料亭・三橋楼にむかった。
「どうです、木戸さん。いっしょに東京に帰りましょう」
座敷に入ってすわるなり、いきなり大久保が切り出した。
「北京にいたときから、ずっと考えていたのです。いかなる障害があっても乗り越えて、我々はともに国に対する責任を負わなければなりません。あなたと私、どちらが欠けても現政府は立ち行かなくなるでしょう。そうではありませんか。あなたにもそれはお分かりになっているはずです」
「私がいなくても問題はないでしょう。伊藤や山縣など、長州人にもあなたの協力者はいるのですから、あえて私が復帰して、またあなたと対立すればかえって政府内は混乱しましょう。もう私の出る幕はないと思いますから、あなたがご自由におやりになればよろしいのです」
いささかの皮肉を交えて、木戸は答えた。
「私のやり方が強引だと思われるのなら、今からでも改めましょう。あなたが再び参議になって政府を指導してくださるなら、私はあなたに従ってゆきたいと心から思っているのです」
そんな言葉には騙されないぞ、という木戸の表情を読んだのか、大久保はさらに続けて、
「なにかご不満があれば、なんでも話していただきたい。この際、腹蔵なく一切の問題について論ずることが、互いの理解を深めることにもなりますし、今後の国政の方向性を定めるうえで、一致点を見出すこともできましょう」
それで、木戸は一昨年来の政治状況と、昨春ついに退職にいたった事情について縷々説明し、大久保も台湾出兵にいたったやむを得ない事情を語って、木戸の理解を得ようとつとめた。しかし、木戸は、「とにかく隠棲したいという気持ちは変らないので、是非自分の願いを聞きとどけてほしい」と執拗に言い張るので、大久保はまた木戸の説得にこれ努めるというくり返しになり、二人の議論は平行線をたどるばかりで、なかなか決着しそうになかった。
だが双方ともいささか疲れてきたこの膠着状態に、思わぬ水入りがはいった。薩摩の黒田清隆が薩長両雄の会談が気になってしかたなかったらしく、様子を見に三橋楼にやってきたのだ。幕末の薩長同盟に関わった木戸と黒田は10年来の知己だったので、そうした気安さがあったのだろう。木戸はなかなかの難物だから、大久保卿は苦戦しているに違いない、と加勢にはいるつもりもあり、うまくいけば二人の仲をとりもち、大久保も目的を達して、両者会談を円満に終了させる役割を果せるかもしれない。
そんな思惑をもった黒田の来訪によっていっとき、重苦しい雰囲気が拭われたのは確かだった。だが、不幸なことに黒田には酒乱の癖があった。彼は、予想どおり大久保の苦戦を読みとると、さかんに酒を飲みながら、木戸に絡みはじめたのだ。要するに、木戸さん、あんたは無責任ではないか、我々薩長はともに協力して政府を支え、国家を運営していかなくてはならぬのに、途中で逃げ出すとはなにごとか、あんたはそれでも長州の首(かしら)か、単なる一兵卒ならともかく、ともに維新を成しとげた一方の首領が責任ある立場を放棄して、なにが隠棲したいだ、そんな我儘がとおりますかね、あんたはおかしいんだよ。文句があるなら東京にもどって、閣議の席で堂々と話せばいい。堂々と言えない不満があるならおれが聞きますぜ、さあ、どうです、あんたの不満聞こうじゃないか、さあ、言いなさい、言いなさいよ、云々。
木戸の肩に手をかけ、酒くさい息を相手の顔に吹きかけながら、黒田の饒舌はいよいよ聞き苦しい暴言に変っていく。大久保も唖然として、黒田の酒乱を黙ってみているよりほかなかった。こいつに酒を飲ませるべきではなかった、と後悔してももう遅かった。木戸のほうは、黒田とまともに議論するのも馬鹿らしいと思っているらしく、時々手でうるさそうに相手を払いのけながら、こちらも憮然として沈黙を決め込んでいる様子だった。

そんな状況で、この日の木戸・大久保会談は大失敗に終わってしまった。その後、木戸は大久保に手紙を書き、改めて隠退の意思の変らぬことを伝え、すっかり酔いの醒めた黒田からの謝罪と面会を乞う手紙には、身体の不調を理由に多少の皮肉もまじえて謝絶したのだった。
だが、大久保の次の手は最初から決まっていた。木戸を捕える一の矢は折れても、二の矢、三の矢を彼はしっかり準備していたのだ。兼ねてよりの打ち合わせどおり、大久保は伊藤に来援を求める手紙を書いた。すぐに来れないと、さらにまた手紙を送り、東京が無人になるなら黒田をいったん東京に帰すから、大阪に来て木戸を説得してほしいと催促しており、大久保の必死な様子がうかがい知れる。また、木戸とは会談がこれきりにならないように、囲碁を口実に再会の約束を取りつけている。
木戸はもはや大阪から立ち去りたいと思っていたが、大久保がいっこうに東京にもどる様子がないし、他にも大阪に留まらざるを得ない理由があった。それは、井上から板垣退助が大阪に行く予定だから、是非会って今後のことを話し合ってほしいと頼まれていたからだ。
もちろん、井上の意図は木戸と板垣をいっしょに政府に復帰させることにあった。それには国会開設などでは急進論者の板垣と欧米視察後は漸進論を是とする木戸との妥協をはかり、二人を協力させなければならなかった。大久保の専制政治に歯止めをかけるためには、木戸の立場を強化しなければならない。それには板垣の存在が役に立つと井上は考えていたようだ。事はそれほど簡単ではないことが後になってわかるのだが、井上は井上で今回の大阪での薩長両巨頭の会談が木戸の有利に運ぶように一所懸命に工作していたのである。
木戸は隠退しようとしている今になって、板垣と政治上の話をするのも煩わしかったが、無碍に断るわけにもいかず、板垣との会談を承諾してしまったのだ。前門の虎、後門の狼ではないが、目下のところ木戸は前からも後ろからも逃げ出せず、大阪の地に封じ込められている状況だった。大久保と井上はその目的は明らかに違ったが、木戸を東京に連れもどすということではまったく同腹の友であった。東京政府の大臣、官僚はもちろん、民間人の関心もいまや大阪での木戸・大久保会談に集中していた。

(13) 大阪会議(その2)

当時の政府、あるいは在野の重要人物の多くが大阪に引き寄せられていった。それも木戸孝允という中央政府を逃れた大魚を捕えんとして、まず事実上の最高権力者・大久保利通が、木戸を除けば政府のナンバー2とみられる伊藤博文が、さらには在野で民選議院党ともいうべき一勢力を築きつつある板垣退助が後には大阪に乗り込んでくる。実業界の大物井上馨、五代友厚らは現在、大阪にあって木戸、大久保を側面から支援する役割を演じていた。東京政府も大久保を強力にバックアップし、1月12日には大坂府より木戸に御沙汰書を届けさせた。

   従三位木戸孝允
御用これ有り候條、来る一月帰京致すべき事。
   明治七年十二月二十五日  太政官

これに対して木戸はすぐさま辞表を提出した。一時は面会を拒絶されていた黒田清隆もしつこく木戸を訪ねてきて、ついにその感情を宥めることに成功したが、木戸を東京に同道させることは至難の業であり、もはや大久保も伊藤の周旋の才にたのむ以外にすることがなかった。それで伊藤が到着するまで有馬温泉に出かけ、帰阪後は堺に赴き、税所、五代らと囲碁や遊猟などをして過ごした。
伊藤が大阪に着いたのは1月23日である。鶴首して伊藤を待っていた大久保はすぐに、差し支えなかったら、今晩か明朝でも御宿をお訪ねしたいという手紙を届けさせた。しかし伊藤のほうがその晩に大久保を訪ねてきたのである。
「木戸さんに逢ってきました」
いきなり問題の核心に触れた伊藤に、大久保は、
「どんな様子だったかね」
と、静かな口調だが、強い関心を眼に表して訊ねた。
「あまり顔色が良くありませんね。どうやらもう、政治への関心を失っているようです。ご病気のせいもあるのでしょうが――。説得するのはかなり難しいと思います」
「……」
大久保が沈黙しているので、伊藤はさらに続けた。
「どうでしょう。強引に東京に連れ戻しても、また同じ繰り返しになるのではありませんか。それよりも、ここらへんであの人の望みを叶えさせてやってはいかがでしょう。持病のこともありますし、もう休養させてやったほうが――」
「なにを言っているのだ!」
大久保がいきなり声を張り上げたので、伊藤はびっくりして相手を見た。
大久保の鋭い眼光、ぴんと張った口髭、黒い豊かな頬髯を蓄えた相貌はいつもながら威厳に満ちて、対する相手を戦慄せしめる。
「木戸は隠退させぬ」 
断固とした口調で彼は言う。
「君はどうしたというのだ。私を援助しに来たのではないのか。いいかね、木戸はこの政府に半分の責任がある。そうだろう? 病気だろうがなんだろうが、責任は最後まで果たしてもらう。木戸の立場で隠退など許されるわけがなかろう」
大久保は苛立っていた。彼は木戸が廟堂にいないと落ち着かないのだ。彼が逃げ出すたびに自分のどこかに隙ができてしまったような気がして、はやくその隙を埋めたくなる。そうでないと大変なことになる、と大久保らしくもない恐怖観念に捕われるのだが、それは故なきことではない。
鹿児島からは絶えず怨嗟の声が上がっている。西郷を擁する旧薩摩藩は政府の政令も通達も無視して、独立国家を形成するがごとくになっている。大久保は生国である鹿児島から完全に孤立しているどころか、敵とみなされていた。しかも西郷の問題ばかりでなく、旧主の島津久光がこの時期には左大臣職にあって「すべてを封建制にもどせ」と絶えず要求し、折あらば大久保の罷免を企図していた。木戸を失うことが、どれほどの意味を持つものであるか、大久保は心底において明瞭に意識していた。
伊藤は大久保の様子を見ながら、ここらへんで自分が考えてきた木戸説得の策を話すときがきたと思った。伊藤は「木戸招致」に対する大久保の強固な意志を確認しておきたかったのだ。このまま、口だけで木戸をいくら説得しても、彼はけっして首を縦には振らないだろう。木戸を懐柔するためには本人の意見を採り入れねばならず、どうしても大久保の大幅な譲歩が必要だった。
「木戸さんを呼び戻せるとしたら、その餌は政策しかありません」
少し思案したふうを装って伊藤は言った。
「政策?」
「はい。つまり木戸さんの意見を尊重し、採用することです」
木戸のおおよその政体構想を伊藤は理解していたので、これを念頭において説明した。まず、司法と行政を分離するため、元老院と大審院を設けること。元老院は将来の上院を目指すもので、下院に代わるものとして地方官会議を定例化すること。そして、正院(太政大臣、左右大臣、参議から成る)と各省を切りはなして、大臣、参議は国政の基本のみを定めて実務に就かず、行政を担当する各省の卿はその省務に専念するという、大阪に到着する前からすでに考えていた案を伊藤は大久保に提示した。
「いいだろう」
ほとんど間をおかずに、大久保は答えた。
「私のほうはそれでいい。木戸がそれで戻ってくるなら、私は木戸を立てて、彼の後にしたがってゆくつもりだよ」
相手があまりにもあっさりと承諾したので、伊藤はいささか拍子抜けがした。大久保がこの案を呑むことは、なかなか難しいのではないかと思っていたからだ。
「それならよほど木戸さんとの交渉がやり易くなります。木戸さんにはまだ貴方にはお逢いしてないことにしておきましょう。それでどう反応するか、まず手応えを探ってみます」
「よろしい。それでもまだ不服で、大久保に毒を飲ませろとでも要求するなら、私は喜んで毒を飲もう」
伊藤は返答できずに、黙って大久保を見た。
「毒はあとから吐き出せばいい」
そう言って、大久保は片頬でニヤリと笑った。そのとき伊藤は、大久保利通という稀代の政治家の凄みを改めて知ったような気がした。彼は目的を遂げるためなら毒をもくらうし、火に飛びこむことも辞さない男なのだ。そして今、大久保の最大の関心事は、木戸孝允を廟堂に拉致すること――それに尽きた。

伊藤博文の来阪によって、木戸と大久保の交渉はにわかに前進しはじめた。その後、伊藤が木戸を訪れて、提示した政府の改革案は明らかに木戸の心を動かしたのである。そして、「これなら入閣してもよい」という言葉をついに木戸から引き出した。伊藤の案は漸進的立憲政体の持論に合致しており、とかく批判のある有司専制(官僚の独裁)を打破できると木戸は思ったのだろう。
「しかし、これでは大久保が承知すまい」と彼はすぐに悲観的になった。
「なんとか私があたってみましょう。大久保さんが賛同されたら、あなたは東京に戻られますね」
伊藤が念を押すと、「うん、戻る」と木戸は答えた。このとき、伊藤は役割を全うしたという満足感に満たされた。もちろん、大久保はすでにこの案を呑んでいたのだから、伊藤は木戸をうまく嵌めたことになる。多少の後ろめたさは残るが仕方がない、と伊藤は割り切った。大久保の手先となってしまったのも、半分は木戸に責任がある、と彼にも言い分がある。長州閥の首領である木戸が大久保のようにしっかり政権に腰をすえてくれないので、下の者はどうしても不安になる。自分と長州閥を守るためには、大久保に取入るほかないではないか。
下級武士から己の才覚だけでのし上がってきた大久保と、足軽の身分から木戸、高杉などの先輩、上司のために身を粉にして働くことで運を開いてきた伊藤とは、どこか心情的に理解し合えるところがあったのかもしれない。裕福な藩医の息子として生れた木戸は、わずか8歳で養子先である桂家の当主となったのちも、実家の和田家で大事に育てられた。策略には弱い坊ちゃん育ちだったといえる。
後日、大久保の了解を得られたことを伊藤から聞いたときには、木戸は意外なこととは思ったが、内心の喜びは隠せなかった。

この前後に、木戸は井上馨の仲介で在野の民権派である小室信夫、古澤滋と話しあっていた。勢力盛んな薩閥にたいして、木戸・板垣の共同戦線を井上に持ちかけたのは、まさにこの二人だった。「征韓論」政争に敗れて下野した後、板垣、後藤などが左院に提出した「民選議院設立建白書」にも名を連ね、思想的にも近い木戸を再起させて板垣と組ませ、国会の早期開設を企図したのである。彼らの案は「このままでは芋(薩摩)の専制政治になってしまう」と憂慮していた井上の思惑と一致した。
問題は彼らの急進論と木戸の漸進論を妥協させることにあり、そのためには木戸と板垣をぜひとも引き合わせる必要があった。そして、まもなく二人の会見が実現し、板垣も木戸の漸進論に理解を示した。こうなると、あとは大久保と板垣の間を周旋することだが、右と左の両者が直接話し合っても妥協の余地はない。木戸が間に入ることによって緩衝地が設けられ、なんとか思想的なバランスが保たれる可能性も出てくる。大久保は板垣の政府復帰については、なんら異論を唱えなかった。木戸がそれを望むなら、板垣を何人連れてこようと、彼の意に介することではなかったのだ。
こうして最終的な大阪会議が2月11日、木戸の招待により料亭・加賀伊で開かれる運びとなった。このとき、大久保と板垣は「征韓論」政変以来はじめて対面した。両者とも木戸の意見を了解し、木戸は大いに満足した。大久保も木戸の政府復帰の決意にたいして満足した。あとのことはみな、大久保にとってはたいした問題ではなかった。もはや木戸の心変わりはあるまいと、安心してはいたが、翌日、木戸が板垣との会談内容を詳しく伝え、最終的な合意事項を確認するために訪れたとき、大久保は最後の保証を得ることを考えた。
木戸の声はいつになく弾んでおり、これで立憲政治への道が開けるのだという意気込みが伝わってきた。木戸にはまだ一抹の不安があったらしく、本当に大久保がこちらの主張を理解して賛同しているのか、確かめたかったらしい。木戸と板垣が将来的に目指す政治体制は、大久保の権力を徐々に奪い取るものなのだから、用心深い彼は再度、大久保が賛同した真意を探りたいという気持ちに突き動かされているようだった。大久保はすべてを了解しているという様子で終始、木戸の話の聞き役にまわっていた。他人にはめったに見せない穏やかな微笑さえ口元に浮かべて――。いささかの反論も唱えず、終始機嫌よく頷いている大久保の様子を見て、木戸の気持ちもようやく安らいできた。帰り際に、木戸が立ち上がったとき、大久保も同時に立ち上がって右手を差し出した。木戸はためらわずに手を伸ばして、大久保と握手した。
「大丈夫。すべてはうまくゆきますよ」
穏やかな口調の大久保の言葉に、安堵したように木戸は微笑んだ。
「私がこの世で畏敬する人物はただ一人。あなただけです、木戸さん」
突然、重大な告白でもするかのように、声を低めて大久保は言った。木戸ははっとした表情で相手を見た。大久保の眼にからかいの色はなく、真剣そのものだった。木戸はにわかに頬が熱くなるのを感じた。内心の狼狽を隠そうとして、視線を逸らしかけたが、すぐに相手をしっかり見つめなおした。もう自分はこの男から逃れられない運命を選んでしまったのではないか。胸にざわつく想いが木戸の耳に響いてきた。自分もまた大久保を畏敬しているのかもしれない――。握手している右手が、なぜか燃えるように熱かった。

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