<連載小説>

維 新 の 恋


(19) 西南に風雲あり

来客が帰った後も、大久保利通はしばらくの間、応接室の肱掛椅子にすわって煙草を燻らせていた。時計は午後11時をまわっている。ようやく一人になっても、淡い石油ランプに照らし出される端正な顔にくつろいだ表情は見られなかった。
つい先ほど去った来客は木戸孝允である。約束により、午後4時に彼をむかえて、延々7時間ものあいだ、大久保は木戸の鋭い舌鋒にさらされ、身を低くして、ひたすら彼の慰撫に努めなければならなかった。木戸は大久保がまた、のらりくらりとお茶を濁して問題を先送りしていることに我慢がならなくなったのだ。木戸のヒステリーがまた始まった、といって今回ばかりは逃げをうつわけにいかないことは、大久保も十分にわかっていた。木戸の不満の大半はもちろん、治外法権化している鹿児島のことであった。
昨年秋に熊本、秋月、萩の乱とつづいて、なんとか鎮圧はしたが、次は鹿児島に乱が起こると、必然的に政府首脳は予測し、警戒していた。政府の警戒とは反対に、全国の不平士族はそれを期待しており、そうした不穏な空気は日々濃厚になっていた。もちろん西郷は大義名分がなければ容易に起つまい、と大久保は信じている。しかし、他県で起きた一連の士族の乱に刺激されて、私学校徒が西郷の決断をいまや遅しと待っているだろうことは想像に難くなかった。彼らは西郷さえ動けば、天下の権をたやすく握れると思っているのだ。西郷の声望を過信するあまり、東京政府の力を相当に侮っていた。
大久保もできれば鹿児島との衝突は避けたいと思っている。問題は西郷と私学校党をどうやって分断するかだった。その手はすでにうってある。大警視川路利良が大久保の内意をうけて、鹿児島出身の警視庁職員20余名をすでに帰郷させ、私学校党の動静を探らせていた。これは一歩間違えれば、危険な事態になりかねない作戦であった。確かに、大久保さえ決断すれば、もうすこし穏やかな方法を採ることもできた。それは、彼自ら鹿児島に赴いて、西郷と直接逢って話し合うことだった。西郷を説得して、もう一度東京に呼びもどし、閣内に取り込むことだった。これまで彼はそれを考えたこともあった。しかし、どうにも気がすすまなかった。彼は木戸に対してしたように、身を屈し、相手の足元に跪いても西郷を政府に招致しようという気にはどうしてもなれなかったのだ。
それはなに故か。大久保は自分の心理を分析してみる。たとえ自分が直談判しても西郷は容易に腰を上げまい、という思い。それはあった。だが心底においては、政府で西郷と並び立って国政に携わることの不可能を、彼は感じていたのだ。おそらく西郷は薩摩を捨てきれまい。士族を切り捨てられまい。自分の目指す政治と西郷自身というよりも、彼の周辺が望む西郷の武官、あるいは士族の代表としての役割は、互いに相容れないものだった。
大久保にも政治家としての矜持がある。西郷の人気に譲って、自らその風下に退くことはもはや彼にはできなかった。鹿児島のことは、あたらず、触らず、もうしばらくそっとしておきたいというのが本音だったが、そうすれば今度こそ木戸を失うかもしれなかった。この時期、木戸は自分の後輩たちからも、三条・岩倉両大臣からも、伊藤からも、参議に復職するように懇請されていたのだが、頑なに断りつづけていた。
大久保が、農民に同情する木戸の意見をいれて、地租改正を緩和し、地税の減額を実行したのも、これ以上木戸の主張を無視したら、またも辞表を出されかねないことを怖れたからだった。この日、大久保も参議の復職を木戸に請うてみたが、にべもなく断られてしまった。目下、木戸の頭は鹿児島のことでいっぱいで、鹿児島の問題をなんとかしなければ本当の維新は訪れないと彼は思っている。全国どの県も平等に扱われなければならない、という木戸の主張はまったくの正論であり、相手の反論や弁解を押さえつけるには十分であった。大久保はまさしく追い詰められていた。たとえ西郷とは長年の縁が切れても、維新政府の安定を考えれば、木戸との仲が破れることは絶対に避けねばならなかった。この問題に関しては、他の誰もあえて大久保を詰問する者はいなかったが、彼の一番苦手とする木戸の追求に対しては、大久保も重大な決断をしなければならない心境に追い込まれたのである。
そうしてみると、西南戦争の間接的な誘因は木戸孝允にあったといっても過言ではないかもしれない。だが、それは単にその勃発を早めたということであって、早晩、鹿児島の乱は起きていたに違いなかった。木戸はおそらく自分の余命の長くないことを悟っていた。鹿児島を政府の支配下におかなければ、死んでも死にきれないという焦りがあったのだろう。確かにこの問題を未決のまま、後輩政治家に託すことは好ましくなかったし、危険でもあった。木戸、大久保という薩長の両巨頭によって、鹿児島の問題は処置されるべきであったし、伊藤、黒田あたりでは、西郷の士族を中心とする全国的声望に対抗するには軽すぎただろう。そうした意味では、木戸は最後に大久保をせっついて、維新以来、東京政府が負っていた重荷をとり払うきっかけを創ったといえようが、そのために心身を消耗させ、自分の命を縮めてしまったのかもしれない。木戸の亡くなった翌年から、士族の乱は完全に絶えて、士族と平民は戸籍上に記されるだけで、実際上の差別はまったくなくなるのである。だが、それはもうすこし先の話になる。

鹿児島で私学校の生徒50余名が草牟田村の火薬庫を襲い、弾薬600箱を略奪したのは明治10年1月29日深夜のことだった。翌日の夜には1千余人が再び陸軍火薬庫を襲い、倉庫4棟を破壊し、多量の弾薬を略奪した。武器・弾薬の移転ははやくから木戸が主張していたことで、すこしまえから大久保がこれを実行して、大阪への輸送がくりかえされていた。私学校党がそれに気づいて、弾薬庫を襲撃したのである。
また、川路が鹿児島に派遣した中原尚雄ら秘密工作員20数名は2月始めに大半が捕えられて、凄惨な拷問のすえに「帰国の目的は西郷の暗殺だった」と自供させられた。私学校党は中原らが帰郷するまえに、すでに東京の同志からその情報を得ており、てぐすね引いて彼らの到着を待ちかまえていた。大警視川路と同様、中原は外城士族の出身で、若年のころから城下士族に烈しい敵意を抱いていた。鹿児島ではこうした身分差別が甚だしかったのである。
大久保が暗殺を命じたというのは、事実とは信じ難い。政府がひそかに刺客を鹿児島に放って、西郷大将を暗殺しようとしている、という流言は前年の11月頃から伝わっていた。また、廟堂に討薩の議あり、との流説を耳にして、私学校徒が神経を尖らせ警戒していたこともあり、その思い込みが拷問による自白というかたちをとらせてしまったのかもしれない。いずれにしても、この頃には東京政府と鹿児島、双方とも相手に対して疑心暗鬼になっており、刺客のことがなくても、両者の衝突は避けられない歴史の必然であったといえるだろう。

西南方面が風雲急を告げる状況になってきたとき、木戸は天皇に供奉して京都にあった。大久保にしても、木戸にしても、私学校党の暴発に西郷がかかわっているとは思わなかった。だが、彼らに担ぎ上げられる可能性はあったので、大久保はこのとき、自ら鹿児島に赴いて西郷を連れ出そうと決心した。だが大久保はすでに西郷の暗殺を命じた張本人とみられており、いまさら鹿児島に入って生きて帰れる保証はなく、三条や天皇が許可するはずもなかった。
木戸もまた薩摩行きを願い出ていた。彼は、今こそ鹿児島を他県と同じくする好機と捉えており、一刻の猶予なく断然討伐するべしと主張し、自分を鹿児島に派遣してほしいと三条に嘆願し、大久保、山縣にも尽力を請い、伊藤、鳥尾(小弥太)へも熱心に訴えて、周囲の者たちを困惑させていた。結局、天皇の御前へ召し出され、厳命をもって差し止められたのである。しかし、彼はあきらめなかった。性質も政見も異にする大久保とともに廟堂にあるよりはむしろ、九州に赴いてかの地を他府県なみに改革するか、それが叶わなければ、薩兵の弾にあたって斃れるも本望――自分の死に場所は西国にあり、と木戸は本気で考えているようだった。

(20) 西南戦争

明治6年の政変で東京を去り、鹿児島に帰ったあとの西郷隆盛は、もっぱら農業に従事し、白鳥温泉、日当山(ひなたやま)温泉などで湯治をしたり、犬を連れて趣味の遊猟に出かけるなど、見かけ上は悠悠自適に暮していた。それまでに起きた佐賀、熊本、萩などでの一連の士族の乱にも軽々しく呼応することなく、なかばは隠居の風情であった。
私学校徒による弾薬庫の襲撃があったとき、彼は大隈方面に遊猟に出かけて家を留守にしていた。私学校幹部の桐野利秋、別府晋介、篠原国幹らもこの変を知らず、あとから聞いて驚いたのである。容易ならぬ事態に3人は篠原邸に集まって協議した。「今や弦(つる)は放たれた。もはや抑えようもなく、今こそ決断の時である」
意見が一致すると、直ちに辺見ら3人の者に西郷を迎えにやらせた。

使いの者からこの事件を聞いたとき、西郷は怫然色をなし、
「卿ら弾薬なんの用かある」
と言うと、あとはひと言も発せずに帰路についたという。
西郷が武村の私邸に帰ったのは2月3日の朝だった。すでに家の周囲には、先生を刺客から守ろうという生徒たちがたくさん集まっていた。数人の代表者が西郷の前にでて、一切の事情を報告すると、
「おはんたちは、何たることをしでかしたか」
西郷は大声をあげて叱りつけたが、今となってはどうしようもなかった。中央政府はこれを理由に私学校徒を征討するに違いなかった。このうえは、西郷暗殺の刺客を放ったのか、政府を糾弾することを名分に挙兵する以外に道はない。八千の子弟を見捨てるわけにはいかない、と西郷は不本意ながら決断した。
西郷は起った。その名分は、政府に尋問の筋これあり。
たったそれだけであった。しかし、西郷の崇拝者たちにとってはそれで十分だったのだ。名分があってもなくても、西郷が起つことが重要なのであり、西郷が起ちさえすれば天下の志士たちは呼応し、いかなる敵も、たとえ官軍であろうと彼の前にひれ伏すのだ。薩摩人はそう信じて疑わなかった。

明治10年2月半ばに西郷は1万3千の兵を率いて鹿児島を発った。これに九州各地から有志隊が加わって総勢は3万に膨れあがり、熊本に進軍して熊本城を包囲した。政府が征討令を発したのは19日である。征討総督は有栖川宮で、山縣有朋と川村純義が陸軍、海軍を指揮する参軍に任命された。当時、熊本鎮台は谷干城(司令長官)と樺山資紀(参謀長)が率いる4,300余人が守っていた。このうち3分の2は徴兵制で募った民兵だったので、屈強な薩摩士族に太刀打ちできるか不安があった。それで谷は籠城戦を採ることにした。
熊本鎮台が抵抗の構えを見せたので、22日に薩軍はこれに最初の攻撃を加えた。だが攻め落とせず、包囲作戦に切り替えることにした。どうやら長期戦になりそうな様相だった。

京都で戦況を気にしていた木戸孝允は胸痛におそわれ、両手で胸をおさえて倒れこんだ。京都に到着して以来、体調がおもわしくなかったのだ。それでも病をおして参朝し、東京から移動してきた大久保利通にうったえた。
「この戦争においては、たとえ百敗するとも戦いを止めてはなりません。こちらが斃れて力尽きるまで戦い続けるのです。あるいは、速やかに平定できたときには、一時の平穏に安んぜず、大いに内政にも配慮してください。あまり人民が嫌がることをしてはいけませんよ、大久保さん。みな苦しいのですから」
「あなたはどうも顔色がよくありませんね。体調を崩しておられるのでしょう? 無理をなさらずに、ゆっくり休養なさったほうがよろしいのではありませんか。病気が悪化しては――」
「私の身体のことなど、どうでもよろしい。国家の一大事に、ひとりだけのんびり休んでなどいられません」
木戸は大久保を睨みつけた。大久保はあまり相手を興奮させては、かえって身体に悪い影響をあたえると思って、それ以上は言わずに口を閉ざした。
「もっと早く私の言うとおりにしていれば、こんなことにはならなかったのです。西郷のことは本当に残念です。最悪の結果になってしまいました。昨日の友が今日は敵となり、親兄弟が敵・味方に分れて殺しあうとは、なんと哀しいことでしょうか」
徹底的に戦う、と言っておきながら、木戸は自分の言葉の矛盾に気がついていないようだった。あるいは無理やり自分を奮い立たせ、そうすることによって、なお生きる意欲を保とうとしていたのかもしれなかった。どこか胸に満ちてくる哀しみを必死に抑えながら――。大久保は依然として沈黙をつづけていた。
「私を熊本に派遣してもらえるように周旋してくれませんか、大久保さん」
大久保は眉をあげて、わずかに表情を動かした。
「あなたはまだそんなことをおっしゃっているのですか。主上もたいそう心配なされているのに――。どうか、ご自重なさってください。だれもあなたを死地にやりたい者などおりませんよ」
「こんな病弱ですから、兵力として役に立たないことはわかっております。私は西郷に逢いたいのです。逢って説得したい。もうこの国に士族は必要ないのだということを。政府も反省するべきところは反省しなければならない。そうしたことを誠をつくして話してみたいのですよ」
「馬鹿なことを!」大久保はおもわず声を張り上げ、
「あなたが戦地に行くなぞ、この私が許さん!」
声を荒げてきっぱりと断じた。普段、冷静な彼には珍しいことだったので、木戸は驚いた表情で相手を凝視した。それは、俺が宰相だ、すべては俺が判断して決める、と宣言したようなものだった。さすがに大久保ははっとわれに帰って、
「どうも、失礼した。あなたがあまりにしつように言われるので、つい……。あなたがなんとか持病を克服され、健康になってくだされば、私も安心だし嬉しいのですよ。今はそのことだけを考えて、あまり無理をしないでいただきたいのです。私ばかりでなく、すべての大臣、閣僚たちがそれを望んでいるでしょう。長州のお仲間はもちろんのこと」
返事をするかわりに、木戸は寂しげに微笑んだ。自分の身体の異変は自分だけが知っている。もはや治りようのない病にかかっていることを、この時期には彼ははっきりと意識していた。だからこそ命を差し出して、最後のご奉公をしたいと願ったのだろう。

木戸孝允が病にたおれ、死の床についたのは、それから2箇月あまり後のことだった。

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