[「練華」番外編]  

ふたり小五郎
ふたりの出遭い
(1)

 池田屋の惨劇後、幕吏や新選組が血眼になって探していた人物がいた。尊攘激派の首領とみられていた長州藩士・桂小五郎である。池田屋の会合に桂も出席、との情報を得ていたが、踏み込んでみれば彼の姿は見当たらなかった。幕吏は一番の大物を取り逃がしたことが悔しくてならなかった。真っ先に池田屋に踏み込んだ新選組も、手柄は半減とみて、見廻組とどちらが先に桂を捕えるか、手柄合戦の様相を呈していた。

 これほど危険な京都に小五郎はまだ潜伏していたのだ。幾松との逢瀬に心を癒したあとで、彼もちょっと油断をしていた。三本木の吉田屋から出てきたところを、5〜6人の幕吏にとりかこまれた。
「おぬしは桂小五郎か?」
 幕吏のひとりが鋭い眼光で獲物を睨みすえながら、ずばり聞いてきた。どうやら吉田屋をずっと見張っていたらしい。小五郎は平静をよそおい、
「いいえ、違います。人違いです」
 だが、相手は容赦しなかった。
「申し開きは奉行所ですればよい。とにかくご同行ねがおう」
 やむなく小五郎は相手にしたがった。しまった、と思いながらも、幕吏にかこまれていたので、しばらくおとなしく一緒に歩いていた。
「ちょっと、用を足したい」
 途中で急に立ち止まると、小五郎はがんとして動かぬ様子で言った。
「ちっ、やむをえん」
 桂は剣の達人と聞いていたようで、ここはへたな争いは避けようとしたのか、上役らしい男が聞き入れて、小五郎を近くの草むらへ連れて行った。小五郎が刀を預けたので幕吏も油断したのだろう。蹲る男にちょっと眼をそらした。その瞬間、男はさっと立ち上がり、脱兎のごとく走りだして、その場から逃げ去ってしまった。
「あっ、しまった、追え!」 と慌てて捕り方が小五郎のあとを追いかけた。

 鴨川の橋を渡りかけたとき、向こうから見慣れた羽織を着たいかつい武士の集団が歩いてくる。まずい、新選組か? 後ろを振りかえると追っ手が間近にせまってくる。どうしよう。とっさに小五郎は橋の欄干にとび乗って、あっという間に下方に流れる川に飛び込んだ。しかし浅瀬だったのか、小五郎は川底に頭をぶつけて、そのまま気を失ってしまった。新選組も捕り方も、お尋ね者の出現とばかり、先を争って河原に駆け下りてきた。そのとき、ひとりの小五郎らしき男が河原に上がって、
「おーい、ここだ、ここだ! へなちょこ侍め、かかってこい!」 と挑発した。
「おっ、あそこだ。捕り逃がすな。追えー!」
 幕吏も壬生浪も、いっせいに大胆不敵な挑発男を追いかけた。

 どれくらい時間が経ったのだろう。小五郎が気がつくと、そこは質素だが畳の部屋で、布団の上に寝かされていた。
「おや、気がつきましたか?」
 寝ている男の顔を覗きこみながら、ひとりの美しい女が声をかけた。
「ここは?」
 ちょっと怪訝な様子で男が女に問いかけた。頭には白い包帯が巻かれていて、上半身を起こそうとしたらずきずきと痛んだ。
「まだ、寝ていたほうが――だいじょうぶ、たいした傷ではないから、すぐに治りますよ」 女がやさしく言った。
「ここは、どこですか?」
 小五郎が再びたずねると、
「芝居小屋です。もう追っ手は来ないから、安心なさい」
「あなたは、だれですか?」
 小五郎の問いに、女は、
「単なる役者です。怪しい者ではありません」
 微笑む女の表情に、小五郎は妙な懐かしさをおぼえた。どうも女の声はたおやかというよりも、むしろ凛としたはりのある響きをもった低い声だった。彼はじっと女をみつめた。すると、急に女はなにかしら怪しげな笑みをこぼした。はっと、小五郎は眼をみはった。
「あなたは男? あ、女形ですか?」
「女形でも、野郎でも、侍でも、どんな役でもこなしますよ。お望みとあれば、桂小五郎でも――」

 小五郎は無言のまま、再び相手を凝視していたが、すぐに、あっと声をあげた。
「あなたは… あなたは… 」
 彼は気づいたのだ。相手が自分とそっくりな顔をしていることを。最初は化粧をしていたので、すぐには気がつかなかったが、最後に相手が声音を変えたとき、声さえ自分にそっくりなことに、小五郎ははっきり気づいてしまったのだ。
「だれだ、あなたは?」
 驚きながら、小五郎が震える声で再びたずねた。
「怖れることはない。私はあなたの味方、あなたの影です」
 その温かい眼差しとやさしい表情に、小五郎は亡き母の面影をみた。

(2)

 塗りごめの小さな格子窓から外を覗くと、眼下に鴨川がきらきらと陽光を反射してゆったりと流れている。橋を往来する人々の中には、あきらかに長州人や尊攘浪士を取り締まる見廻組か新選組と思われる侍たちが混ざっていた。どうもまずいな。窓から離れながら、小五郎は焦る気持ちをつのらせた。
 ――あの男は芝居小屋と言っていたが、どうやらここは役者か小屋に関係する者の住居のようだ、と彼は思った。小五郎のいるのは四畳半の隠れ茶室のような部屋だった。飾りっけのない漆喰の壁に半畳の床があり、窓際に文机がひとつ置いてある。簡素だが、押入れの中には芝居本や和漢の古典書などが無造作に積まれており、退屈しのぎにはなった。
 小五郎がここに匿われてから3日経つが、あれ以来、彼を救った男は一度も姿を見せていなかった。長州藩や勤皇志士の味方だと言っていたが、あいつはいったい何者なのか? と彼は心のうちに問い続けていた。他人のそら似にしては、似すぎていると思う。ひょっとして自分と血縁関係があるのではないか? なぜこの時期に突然眼の前に現れたのか? 聞きたいことが山ほどあったが、本人が現れないのだから、どうしようもなかった。

「新吉です。入りますよ」
 小五郎がいろいろと物思いにふけっていると、板戸の外で声が聞こえた。どうぞ、とこたえると、歳のころ25,6歳の着流し姿の男が戸をあけて入ってきた。匿われた最初の日から小五郎の食事や身辺の世話をしており、彼も役者らしかった。
「新吉さん、私はちょっと外出したいのだか」
 新吉が来るのを待ちかねたように、小五郎がいきなり告げた。
「外出? とんでもない。あなたも窓からご覧になっているでしょう。幕府の犬どもがあなたを探索して、あちこち嗅ぎまわっていますよ」
「し、しかし、いつまでもここに隠れているわけにはいかないのです。対馬藩邸に仲間がいますから、親しい同志に逢って今後の対策を話し合っておきたいのですよ」
「いいえ、対馬藩邸も安全ではありません。手紙を書けば、私が届けにいきましょう。あなた自ら行くのは危険だ。頭の傷だってまだ完全に治っていないのですから」
 どうも小五郎が外出しないように、見張り役も兼ねているようだった。あきらめたように、ほうーっとため息をつくと、小五郎は背中を向けて文机の前にすわって筆をとり、手紙を書き始めようとした。が、すぐに筆をおいて再び新吉に向きなおった。

「新吉さん、教えてほしい。あの男、えーとたしか菊丸、佐々川菊丸でしたっけ。彼はいったい何者ですか?」
 小五郎と対座した新吉はにやっと笑って、
「ただの役者です。本人がそう言いませんでしたか?」
「本名をご存知ですか? 佐々川菊丸って本名じゃないでしょう。生れはどこです?」
「さあ、私もよくわからないのですよ。役者にはいろいろな素性の者がおりますからね。あえて昔のことをたずねたりはしません」
「私も何度かこの京で芝居を観ておりますが、彼のことは知りませんでした」
「ほんの端役ですからねえ。通行人とか、群集とか、殿様の家来のひとりとか――。だれも気づきはしないでしょう」
 小五郎は不満げな様子で、上目遣いに相手をみた。
「あなたと話していると、どうもはぐらかされる」
「いえ、はぐらかしてなんて……しかし」
 と言って、口ごもった相手に小五郎はすかさず、しかし?、と聞きかえす。
 新吉は右手で左の袖を肘のあたりまでたくし上げて、左腕を掻くような仕草をした。見た目よりも筋肉がついた、たくましい腕をしているのに小五郎は気づいた。

「いえ、実はね。菊さんは役者として、すごい素質を持っているのですよ。あのとおりの男ぶりだし――だいぶ前のことですが、子どものいない師匠、立花清次郎と申しますが、その師匠が菊丸さんを養子に望んだらしいのです。お前なら初代中村富十郎に勝るとも劣らぬ女形になれる、と」
「そ、それで、菊丸どのはなんと?」
「ええ、だいぶ思い悩んだようですが、結局、お断りしたそうです」
「どうして、どうして断ったのです。役者として大成する、またとない良縁ではありませんか?」
 身を乗り出して小五郎が聞く。
「こう言ったそうです。自分にはほかにやらねばならぬ務めがあると――」
 小五郎の顔色が変わった。おもわず相手の襟ぐりをつかみ、
「なんです? その、やらねばならぬ務めって、なんなのですか?」
 小五郎が力を入れたので、新吉は倒れ掛かって後ろ手をつき、かろうじて上半身をささえた。

「ちょ、ちょっと、待ってください。なぜ、そんなに興奮するのですか。まあ、すこし落ち着いてくださいよ」
 相手の言葉を無視して、小五郎はさらに問いかける。
「あなたは気づいているのでしょう? 私と菊丸どのがそっくりだということを。えっ? あなたこそ、なぜそんなに平静なのですか」
「と、とにかく、放してください、手を。苦しいですから」
 小五郎は手を放し、腕を組んで相手をにらみつけた。新吉は上半身を起こして、居住まいをただすと、
「やれやれ、桂さまは尊攘派の中では沈着冷静な方とお聞きしていましたが、意外と熱くなるお方なのですね」
「……」
「いえ、実は私も最初はおどろいたのです。あの京でも名高い勤王派の大将・桂小五郎が菊丸さんとこれほど瓜二つだとは思わなかったものですから」
 小五郎はまだ、不機嫌そうに相手をにらんでいる。

「化粧をして髪を結い、娘道成寺の衣裳を着せたら、師匠だってあなたを菊丸だと信じて疑わないでしょう。ただし踊る前までは、ですがね」
 そう言ってかるく笑う相手に、
「ばかばかしい。だれが女踊りなどするか」
 と小五郎は反発した。さらに言葉を継ごうとしたが、すぐに、うっと顔をしかめた。急に手で頭をかかえてうなりはじめたので、新吉はおどろいて、
「どうしたのです。頭の傷が痛いのですか?」
「うーっ、ちょっと痛い」 と小五郎が苦しそうに言う。
「だいじょうぶですか」 新吉が相手の両肩をつかんで、顔をのぞき込む。小五郎はうーん、うーん、とうなり続けている。
 そのとき、出入口の板戸がばっとひらいた。新吉が振りかえると、そこには菊丸が青ざめた表情で立っていた。
「あっ、菊丸さん」
 新吉が話しかける間もなく、菊丸は走りより、うずくまる小五郎を抱きかかえた。
「小五郎、しっかりしろ!」
 苦痛にあえぎながらも小五郎は眼前に、こんどは女ではなく、凛々しい若衆姿の自分の分身をみた。
「あなたは、だれ…だ…」
 遠のいていく意識のなかで、小五郎は問いかけながら、菊丸にしがみついた。

(3)

 あの日、君は菊ケ浜の砂浜にひとり佇み、じっと海をながめていた。白雲がはるか水平線のあたりに漂う秋晴れの空。その下に広がる蒼い穏やかな海。やがて浜辺に寄せては引く波を君は追い、追っては逃れて子どものように戯れていた。すぐ向うにはお城を戴いた指月山が見えた。

 その慣れ親しんだ風景とそこで過ごした少年の日々に別れを告げ、未知の世界に旅立とうとする君の姿を、あのとき僕はじっと見つめていた。あの日をどんな想いで僕が迎えたのか、君にはわかるはずもない。
 木立の影に身をかくし、夢にまでみた君の姿を、僕はずっと追いつづけていた。あふれる涙をぬぐうことも忘れて――。

 そのとき僕は思った。これまで自分がしてきたこと、すべては無駄ではなかったのだと。自分の生きざまにも意味があったのだと。君の人生でもっとも危険な時期に、僕はきっと役に立てるのだ。

 わが愛しい弟よ。君は未来の日本に必要な人だから、僕が守ってあげるんだよ。命を賭して君を守ること。それが僕の務め。なぜなら、僕は君の血を分けた兄だから。君を守るために僕は生れてきたのだから。

 こうして君をこの胸に抱きしめられるのも、おそらくこれが最初で最後。宿命の時はもうすぐそこまで近づいているのだから……

 母の匂いがする。もう、ずいぶん前に亡くなっているのに、懐かしい母の匂いがする。甘やかで、日向のように温かい… 気がつくと、小五郎は菊丸の腕の中にいた。
「ああ、君か――」
 まだ、すこしぼんやりしながら、小五郎は菊丸の腕をのけて上半身を起こした。
「頭はだいじょうぶ?」  菊丸が心配げに聞く。
「ああ、痛みはもうなくなった」
 憑き物でも取れたように小五郎がこたえると、「それは良かった」と、ほっとした表情で菊丸が言う。それからふたりは互いの顔をみつめあった。むさぼるように自分を凝視する小五郎に、菊丸はふっと笑みをこぼした。
「照れるな。そんなにみつめられると」
 小五郎はすこし黙っていたが、
「芝居やっているの?」 と話をそらした。
「ああ、もう出番は終ったから、君の様子を見にきたんだよ」
 いつの間にか幼なじみでもあるかのように、互いに親しい口ぶりになっていたが、どちらもそれを奇妙だとは思わなかった。

「新吉さんがいないようだが」 ふと気づいて小五郎がたずねた。
「ああ、長州藩邸へ行ったよ。君の無事を知らせてくると――。きっと留守居役の人が心配しているだろう」
 それには答えず、小五郎はしばらく無言で考えこんでから、「菊丸さん」 と呼びかけた。
「菊丸でいい。僕たち歳もそれほど違わないだろう。僕も小五郎と呼ばせてもらうから」
「じゃあ菊丸。僕は君のことを聞きたいんだ」
 別に動揺する様子もなく、菊丸は、
「いいよ。なにが聞きたい。なんでも答えよう」
「……」
「どうした。聞きにくいの? では、僕のほうから答えようか。僕が何者であるのか、君とどんな関係があるのか、それを知りたいのだろう?」
「……」
「実はね、僕は――」
「いや、いい!」 小五郎が急に菊丸の話をさえぎった。
「いいよ、いまは。答えなくても」
「……」
「なんだか、ちょっと……知るのがこわくなってきた」
「小五郎――」
 他人には見せたことのない不安げな表情をして、小五郎は菊丸から眼を逸らした。


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