<人物紹介>

薩 摩 藩

 島津久光  大山綱良  西郷隆盛  大久保利通  小松帯刀

 桐野利秋  篠原国幹  川路利良  五代友厚  黒田清隆

 西郷従道



<島津斉彬(1809〜1858)  しまづなりあきら

嘉永四年(1851)に薩摩藩主となる。早くから西欧諸国に脅威を感じていた斉彬は、近代化政策を推進するべく修成館事業に着手する。溶鉱炉、反射炉、ガラス工場、蒸気機関研究所などの工場群を鹿児島郊外の磯に建設し、造船所を築いて「いろは丸」、「越通船」、「昇平丸」などの洋式帆船を建造。安政二年には初の蒸気船「雲行丸」を竣工させた。また、機械紡績、印刷、出版、電信、精糖、製薬など民需関連事業にも力を注いだ。
幕府内においても老中安部正弘らとともに公武合体策を推進して、次期将軍に一橋慶喜を推すなど、積極的に幕政にかかわった。西欧諸国に対抗するためには、幕府を中心とする中央集権体制の確立が必要であると考えていたが、志半ばにして安政五年に病死した。



島津久光(1817〜1887)  しまづひさみつ

文化十四年に薩摩藩主斉興の五男として生まれる。生母は側室お遊羅の方。
嘉永二年(1849)に斉彬の西欧化政策を嫌った家臣らに擁立されて、兄斉彬と家督を争う朋党事件(お遊羅騒動)に巻き込まれる。だが、兄弟の仲は良好で、斉彬の遺言により久光の長男忠義が家督を継ぎ、藩主となった。斉興の死後は久光が忠義の後見役となり、斉彬の遺志を継承する。
大久保利通ら攘夷派の下級藩士たちによる脱藩・挙兵計画を知ると、これを止めて側近に抜擢するなどし、過激派には「寺田屋事件」にみるような弾圧を加えた。最初は公武合体策を推進していたが、元治元年(1864)の参与会議で一橋慶喜と対立すると、幕府を見限って藩論を倒幕へと転換させた。
西郷、大久保らによる倒幕が成ったのは、藩士を分裂させずに藩論を統一して、藩全体で行動するよう導いた久光の力が大きかった。



大山綱良(1825〜1877)  おおやまつなよし

薩摩藩士・樺山善助の二男に生まれるが、大山家の養子となる。通称は格之助。
十歳で藩の御数寄屋御茶道に仕える。薬丸半左衛門に示現流の剣を学び、居合の使い手として知られた。下級藩士の勤皇グループ「精忠組」に参加、尊攘運動に奔走する。京都の挙兵計画は久光の厳命により中止を余儀なくされ、同志の説得にあたるが決裂して上意討ちを決行する(寺田屋事件)。
慶応二年四月、大宰府の三条実美ら五卿を警固し、十月には大久保利通とともに長州に赴き、討幕出兵盟約を締結する。
戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府参謀となり、各地を転戦。
明治四年、鹿児島県大参事、七年には初代鹿児島県令に任じられる。同年、私学校が設立されると、その幹部を県官に就けて、政府の方針を無視した。明治十年、西南戦争が起ると、官金十五万円を軍資金に提供して、私学校党に全面的に協力したため、三月には官位を剥奪される。
戦後に捕らえられ、九月三十日、長崎において斬刑に処された。



西郷隆盛(1827〜1877)  さいごうたかもり

城下下加治町の下級士族・西郷吉兵衛の長男に生まれる。
十八歳で郡方書役助の役に就き、貧しい家計を助けた。大久保利通、有村俊斎(海江田信義)らと「近思録」を読み、陽明学を学ぶ。また、無参禅師について禅を学んだ。農民の窮状に接して、農政の改善を求める上申書を提出。これが藩主斉彬に認められて、江戸屋敷庭方役に採用される。
江戸では水戸の藤田東湖、越前の橋本左内らと国事を談じ、安政三年(1856)には斉彬の連絡係に抜擢される。ペリー来航後の通商条約締結をめぐっては国論が二分され、水戸、越前、薩摩、土佐などの諸侯は大名の幕政参加を要求した。西郷は京都と江戸間を往復し、将軍後継問題では僧月照とともに一橋慶喜の擁立に奔走した。しかし、安政五年、井伊直弼が大老に就任すると、通商条約が調印され、慶福(紀州)の将軍後継が決定されて、反対派が弾圧されるようになった(安政の大獄)。この時期に斉彬が病死したため、絶望した西郷は殉死を決意するが、月照に諭され、ともに薩摩に逃れた。だが、藩当局は幕府を恐れて西郷に謹慎を命じ、月照の入藩を拒んだので、二人は相抱いて錦江湾に身を投じた。その後、西郷だけが蘇生して、奄美大島に流された。
文久二年(1862)に赦されて、藩主後見・島津久光の挙兵上京の先発を命じられる。だが下関で待てという久光の命に背いたため、再び徳之島に、さらに南の沖永良部島に流された。
元治元年(1864)二月、再び召し出され、三月には京都に出て、薩摩軍賦役となり、禁門の変では会津藩と組み、長州勢を京から一掃した。その後の長州征伐準備中の九月に勝海舟と会い、姑息因循な幕府の内情を知らされて考えを一変させる。長州藩とは話合いによる解決をすすめて、幕府軍を撤退させると、慶応二年(1866)正月、幕府が計画する長州再征前に長州藩の木戸孝允らと薩長連合盟約を結んだ。
慶応三年には武力討幕策をとり、将軍慶喜が大政奉還を実行すると、十二月、王政復古の大号令、翌年の鳥羽伏見の戦いで幕府軍を追い込んだ。その後、征東軍の大総督府参謀となって東下し、旧幕府側の勝海舟と折衝して、江戸城の無血開城を実現した。
明治新政府では明治四年に上京して木戸孝允とともに参議となり、廃藩置県を断行。ついで陸軍元帥兼近衛都督、陸軍大将となる。しかし、明治六年(1873)に征韓論が起ると、自ら遣韓大使になることを主張する西郷は、米欧巡回から帰国して内治優先策をとる大久保利通らに敗れて下野、鹿児島に帰る。明治十年(1877)二月、私学校を中心とする士族層に擁されて西南戦争を引き起こし、同年九月二十四日に城山で自刃した。
明治二十二年(1889)、正三位を追贈され、同三十五年には嗣子が侯爵となる。



大久保利通(1830〜1878)  おおくぼとしみち

鹿児島城下の高麗町で五人きょうだいの長男に生れ、まもなく下加治町に移った。号は甲東、幼名は正袈裟、正助、のちに一蔵を名のり、西郷とは幼馴染みだった。少年時代は無類の暴れん坊、いたずら好きで、湯治場の上流へいって湯滝をせき止めて普通の水を流し、湯治客が急に冷たくなって飛び上がるのを、手を叩いておもしろがったりした。また、隆盛の弟信吾(従道)も大変ないたずら者だったが、大久保がやってくると仲間といっしょにバラバラと逃げていったという。年少者からは大西郷(隆盛)とともに一目置かれていた。
十七歳で藩の記録所書役助となるが、二十歳のとき、父の次右衛門が藩主継嗣問題(高崎崩れ)で罪を得て鬼界島に流されると、利通も職を免ぜられた。これ以後、生活が非常に苦しくなる。四年後の嘉永六年(1853)には赦されて復職し、安政二年(1855)、次右衛門も赦免されて家に帰った。
安政五年一月、西郷とともに御徒目付に任ぜられるが、七月に斉彬が亡くなり免職となった。同六年、時勢の動きに感じて西郷らと改革派を組織し、同志四十余人と脱藩を企てる。だが、藩主忠義の諭書を受けて計画を断念、「精忠組」として藩主の実父島津久光のもと、公武合体運動を推進する。大久保は久光に接近するのに碁を習ったり、久光が読む書物の中に自分の意見書を入れて差し出したという。
万延元年(1860)勘定方小頭格、翌年、御小納戸となり、さらに小納戸頭取から、文久三年には側役に昇進し、久光の篤い信任を受けた。「寺田屋事件」など尊攘過激派の突出を抑えながら、薩英戦争、禁門の変、第一次長州征伐などを経て、公武合体から反幕に傾き、慶応二年(1866)長州の木戸孝允と結び、薩長連合を成立させた。以後、討幕派の中心人物となり、将軍慶喜の大政奉還後には、岩倉具視らの討幕派公卿とはかって討幕の密勅、王政復古の大号令を発令し、幕府側との戊辰戦争に勝利する。
明治二年参議となり、新政府の中枢にすわった。版籍奉還、廃藩置県を実現させて大蔵卿となり、明治四年十一月には岩倉全権大使のもと、副使として米欧各国を巡遊し、とくにドイツ宰相ビスマルクから影響を受けた。帰国後の征韓論政争では内治優先を主張して西郷と対立、西郷を下野に追い込む。その後、内務省を創設して自ら内務卿となり、専制的な政治色を強めた。だが、佐賀の乱を鎮圧したあとで征台の役を計画すると、これに反対する木戸は職を辞して山口に帰ってしまう。
明治八年、大阪会議で木戸に譲歩し、木戸、板垣退助を再び参議に迎えて、四月には元老院、大審院、地方官会議を設置して民権派を懐柔した。士族の反乱には厳しく対処し、明治十年の西南戦争では西郷隆盛が自刃。翌年五月十四日、出仕途上の紀尾井坂で石川県士族の島田一郎らに襲われ、刺殺された。
大久保は財産を貯めこまず、政治家としては清廉潔白であったという。



小松帯刀(1835〜1870)  こまつたてわき

薩摩藩家老職、肝付家の第三子に生まれたが、同じ家老職を務める小松家の養子となった。文久元年(1861)、島津久光が国事周旋を計って藩政改革に着手した際に側役として用いられ、以後、藩政の中心に参与した。下級藩士の勤王派「精忠組」の指導者となり、大久保利通ら多くの人材を要職に就けた。翌二年には久光東上に従って公武間の周旋に務め、家老に任じられた。元治元年以降は京都に多くとどまって、薩摩藩を代表して幕府や他藩との交渉にあたった。慶応二年正月、西郷、大久保、坂本龍馬らと薩長同盟の結成に参画。大政奉還後には帰藩して、久光、忠義父子に王政復古のことを告げて、率兵上京を促した。
明治元年以降、徴士参与兼外国事務掛、総裁局顧問、外国官副知事などを歴任、明治政府に重きをなしつつあったが、明治三年、不幸にして大阪で病没した。明治二十九年、遺功により孫の帯刀が伯爵を賜った。



桐野利秋(1838〜1877)  きりのとしあき

鹿児島城下に近い吉野村実方に外城士(とじょうし)として生れる。はじめ中村半次郎と称したが、明治以後、元の姓である桐野利秋に改めた。外城士は他藩の郷士に相当し、城下の藩士より微禄で極貧のなか、唐芋が常食であったという。そうした環境下で教養には乏しかったが、武芸に長じ、時勢への関心も強かった。
文久二年(1862)、島津久光に従って入京、中川宮付の守衛となり、諸藩の志士たちとも交わった。この時期、京都では天誅の嵐が吹き荒れ、複数の暗殺計画に関与した桐野は「人斬り半次郎」の異名をとった。
元治元年(1864)、「禁門の変」での活躍が認められて、西郷隆盛に重用されるようになる。鳥羽伏見の戦いでは小頭見習として従軍し、その後、東海道先鋒軍に加わって江戸入りし、さらに会津征討軍軍監として会津若松城を攻略した。明治四年に上京して御親兵の大隊長となり、陸軍少将に昇進、次いで熊本鎮台司令長官、陸軍裁判所所長などの要職を歴任した。
明治六年の政変では、西郷隆盛に従って鹿児島に帰り、篠原国幹、村田新八らと私学校を設立して師弟の養成にあたった。明治十年の西南戦争では一万五千の兵を率いて熊本に進軍し、事実上、薩摩軍を総指揮したが、田原坂の戦いに敗れ、宮崎に転戦。最後は鹿児島に帰り、九月二十四日、城山の岩崎谷で戦死した。



篠原国幹(1836〜1877)  しのはらくにもと

藩校造士館に学び、優秀で軍略の才があった。尊攘運動に共感して、有馬新七ら過激派の義挙に参加し寺田屋に会したが、島津久光の鎮撫により挫折し、謹慎を命じられた。薩英戦争の戦功によって赦され、戊辰戦争では小銃第三隊長として鳥羽伏見に戦った。その後、東征軍に従って東北各地に転戦した。
明治四年、御親兵の大隊長となり、陸軍大佐に任じられ、五年七月には近衛局出仕を兼ね陸軍少将に進む。明治六年、征韓論が決裂すると、西郷隆盛の下野に従って帰国し、翌年、桐野利秋らとともに設立した私学校では監督となって、子弟の養成と開墾植林の事業を行った。
明治十年、西南戦争では薩軍一番大隊長となり、熊本城の包囲攻撃に従い、高瀬口より南下する官軍を防いだ。吉次峠の戦いで陣頭指揮していた三月四日、敵弾に当って戦死した。



川路利良(1834〜1879)  かわじとしよし

明治の警察制度の創始者。外城士で与力の出身だったが、薩英戦争、禁門の変で活躍し、西郷隆盛に認められた。戊辰戦争では兵具方(ひょうぐがた)一番隊(足軽隊)の隊長として、鳥羽・伏見、会津若松など各地を転戦、その功により兵具奉行となった。
明治四年(1871)、御親兵創設時に上京して、東京府大属となり、翌年八月、司法省の警保助兼大警視に昇進した。同年、警察制度視察のため渡欧、明治六年に帰国後、警察制度改革の建白書を提出して、大久保利通に接近した。征韓論の分裂で西郷以下、多くの近衛兵や警吏が帰国した際には、政府に残り、翌七年に東京警視庁が創設されると、大警視となり首都の治安維持に努めた。また、司法権と警察権を分離するため、警保寮を内務省に移して、ら卒、番人を廃して巡査を置き、消防別隊を設けるなど、警察組織、行政の整理、確立に尽力した。
西南戦争では陸軍少将に任じられ、警視庁巡査による別働旅団を率いて八代に上陸、薩軍の背後を突いて熊本城を救った。
明治十二年、警察制度調査のため再び渡欧したが、病を得て、帰国後まもなく病没した。



五代友厚(1835〜1885)  ごだいともあつ

城下の城谷に生れ、通称を徳助、才助といった。十三歳のとき、世界地図を模写して藩主島津斉彬に献じた。十九歳のとき、藩の郡方書役となる。安政四年(1857)、長崎海軍伝習所に入り、オランダ士官から航海、砲術、測量、数学などを学んだ。文久二年(1862)、上海に渡航、藩命によりドイツ汽船を購入し、「天裕丸」と名づけて船長となり、船奉行副役に昇進する。
文久三年の薩英戦争のとき、寺島宗則とともに船ごとイギリス艦に捕えられたが横浜で脱走し、藩の幹部に開国貿易、海外留学生派遣の必要性を説いた。慶応元年(1865)、藩命により留学生十四名を率いて渡英、フランス、ドイツ、オランダなどを視察してまわった。翌年に帰国し、藩の通称貿易の発展に努めた。
明治元年(1868)、参与兼外国事務掛となり、のちに大阪府判事として新政府の通商・外交の分野で活躍した。明治二年、実業界に身を投じ、鉱山、紡績工場の経営にあたり、十一年、大阪商法会議所を創立して初代会頭となる。その後、大阪株式取引所、大阪商業講習所(大阪商科大学、大阪市立大学の前身)、大阪製鋼・関西貿易社、阪堺鉄道、神戸桟橋会社などの設立に参画し、大阪商工業の近代化に貢献した。
明治八年の大阪会議(木戸孝允と大久保利通の和解交渉)にも関与して、会議を成功させるために政治的な働きをしている。
明治十四年の北海道開拓使官有物払い下げ問題では、安価に払い下げる密約が露見して、政変が起り、結果的に帝国議会の開設が決定された。
艶福家でも有名だった五代の豪邸敷地内には、三人の側室が住んでいたという。しかし、遺産を整理したら借財のほうが多かったらしく、剛毅な志士の側面も見せている。



黒田清隆(1840〜1900)  くろだきよたか

通称は了介。文久三年の薩英戦争に参加し、その後、江川塾で砲術を学んだ。薩長連合の際には連絡係となり、事前交渉に尽力した。鳥羽伏見の戦から戊辰戦争に従軍、函館五稜郭攻撃の際、敵将榎本武揚(たけあき)から「海律全書」を託される。その榎本の助命嘆願では剃髪して、これを実現させた。
明治三年、開拓次官となり、明治七年六月、屯田兵を創設し、陸軍中将兼開拓次官、八月には参議兼開拓長官に昇任して、北海道開拓と教育の基礎を築くためケプロン(開拓顧問)、クラーク(札幌農学校教頭)らを招いた。翌年、江華島事件処理のため、特命全権弁理大臣に任じられ、明治九年、日朝修好通商条規を締結した。
同10年の西南戦争では征討参軍として、八代口から薩軍の背後をつき、熊本城と連絡した。明治14年、開拓使官有物を五代友厚らの関西貿易会社に払下げようとして世論の攻撃をうけ、政変の原因をつくった。その後、第一次伊藤内閣では農商務大臣となり、翌二十一年には伊藤内閣の総辞職後に第二代首相となる。憲法発布の際には超然主義の宣言を発し、大隈重信らと条約改正につとめたが失敗におわって首相を辞任した。
第二次伊藤内閣では逓信大臣、その後は枢密院議長に転じ、薩摩閥の長老として重きをなした。



西郷従道(1843〜1902)  さいごうつぐみち

薩摩藩士西郷吉兵衛の三男で、隆盛の実弟。信吾と称した。
本名は隆興(りゅうこう)だが、誤記により戸籍上は従道となったとされる。最初は茶道に出仕したが、文久元年に還俗した。有馬新七の思想に共鳴し、精忠組過激派に属したが、寺田屋事件に参加して禁固刑に処せられた。
鳥羽伏見の戦いでは重傷を負ったが、平癒して戊辰戦争に出征、東北に転戦する。明治二年、山縣有朋とともにヨーロッパを歴訪、兵制を調査して翌年帰国し、兵部権大丞に任じられた。同七年には陸軍中将となり、台湾征討を計画して、政府の出兵中止を押して出兵した。明治十年、近衛都督となり、西南戦争に際しては大義を唱えて兄隆盛にはくみしなかった。
明治十一年、参議となり、文部卿、陸軍卿、農商務卿を歴任、第一次伊藤内閣では海軍大臣となる。その後、内務大臣、枢密顧問官、海軍大臣を経て、明治二十五年に品川弥二郎とともに国民協会を設立した。同二十七年(1894)に海軍大将、三十一年には元帥府に列せられた。晩年まで元老として重きをなし、日露戦争を控えた時期に60歳で没した。


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