<人物紹介>

土 佐 藩

 吉田東洋  武市瑞山  坂本龍馬  福岡孝悌
 
 谷 干城  板垣退助  中岡慎太郎  後藤象二郎
 


山内容堂(1827〜1872)  やまうちようどう

第十五代土佐藩主。 容堂は雅号で、諱は豊信。自称「鯨海酔侯」としても知られる。
分家の出であったが、藩主の相次ぐ死去により、山内本家を相続する。相続にあたっては幕府の寛大な処置を受けたので、初代一豊以来、徳川家に恩を感ずるところが大きかった。
馬廻りの吉田東洋を抜擢して、藩政改革を進め、人材を登用し、大砲鋳造、海防強化などを行った。 将軍世嗣問題では松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬らとともに一橋慶喜を推したが、紀伊家の徳川慶福を推す井伊直弼に敗れて、隠退、謹慎の身となる。井伊の暗殺後に謹慎を解かれると、公武合体策に奔走し、吉田東洋を暗殺した武市瑞山率いる土佐勤王党には大弾圧を加えた。幕長戦争後に幕府が衰退すると、徳川慶喜に大政奉還を建白する。だが、慶応三年十二月九日、王政復古が宣言されて、容堂の慶喜救済の努力もむなしく戊辰戦争に突入。王政復古後は議定に任ぜられ、明治元年一月には内国事務局総督となり、刑法官知事、学校知事職を経て、明治二年七月に辞任し、以後は悠悠自適に暮らす。酒豪で知られ、好んで詩を詠み、木戸孝允とは親交が深かった。
明治五年六月二十一日に死亡。享年四十六。

<逸話> 明治元年十月某日、山内容堂は木戸孝允を自邸に招いて、酒を酌み交わしながら歓談していた。そこへ東征軍の凱旋総督・板垣退助が容堂邸に報告に訪れた。容堂は「別室に待たせておけ」といって木戸との談話を続けた。板垣はあまりに長く待たされるので、いいかげん気が倦んできた。木戸が、
「私はいいから早く板垣と会ってやられたら」
と気をつかって言うと、容堂はただうなづくだけで、一向に会おうとしない。それから随分長い時間が経ってから、ようやく板垣を座敷へ呼んで、こう言った。
「えろう待たせて気の毒じゃった。すぐに会ったらお前のことだから、さぞ自慢話がひどかろうと思うてな。それでわざと待たせて退屈させたのさ」
板垣も手柄話をする気が失せて、淡々と戦況報告するにとどまったという。こうしたからかいも、板垣にはたいしてこたえないだろうという、相手の気質を見抜いたうえでの容堂の対応だった。



吉田東洋(1816〜1862)  よしだとうよう

土佐藩士吉田光清の四男として生まれる。十三代藩主山内豊熙に認められ、天保の改革に参画する。嘉永六年、ペリーの浦賀来航時に提出した対外意見書が山内容堂に注目され、参政(仕置役)に抜擢される。だが、安政元年三月、旗本・松下嘉兵衛への殴打事件を起こして失職、蟄居する。
同五年十二月に参政に復職すると、後藤象二郎、板垣退助、福岡孝悌ら新人を登用して藩政改革に着手、「海南政典」の編纂、階級制度の改革、文武世襲制の廃止などを行った。そのため保守派の反発を招き、公武合体策の推進により勤王党の尊王攘夷論とも対立した。文久二年四月八日、勤王党員の那須信吾らによって暗殺される。



武市瑞山(1829〜1865)  たけちずいざん

通称は半平太。幼少より文武に励み、絵画の才もあった。嘉永二年、城下の新町で剣術道場を開く。安政三年に江戸に出て、桃井春蔵に入門、翌年には塾頭になる。
「桜田門外の変」後に尊攘運動が激化すると、九州の諸藩を巡歴し、文久元年には江戸で尊攘派の志士らと交わり、住吉寅之助、岩間金平、樺山三円、桂小五郎、久坂玄瑞ら水戸、薩摩、長州の志士と時勢を論じた。
同年八月、下級武士、郷士、村役人層を中心とする土佐勤王党を結成する。翌二年、党員の手で佐幕的な立場を採る吉田東洋を暗殺して藩論を一変させると、他藩応接役として京都で朝廷工作に奔走、三年正月には京都留守居役となる。だが八・一八政変によって尊攘運動が後退すると、佐幕派が勢いを得て勤王党は弾圧される。この時期に土佐では脱藩する志士が相次ぐが、瑞山はとどまり、九月には投獄される。一年半にわたる過酷な獄中生活に耐えるも、慶応元年閏五月、切腹を命じられる。妻の富は夫が獄中にある間、畳の上で就寝しなかったという。



坂本龍馬(1835〜1867)  さかもとりょうま

天保六年十一月十五日、土佐藩郷士坂本八平の二男に生れる。母は幸。坂本家は明智光秀一門の子孫であるといわれる。四代目のときに高知で「才谷屋」の屋号で商いをはじめて繁盛した。祖父の代に酒造業を弟に譲り郷士となったが、藩の財政収税の下級吏員であると同時に、197石の土地を持つ商人兼地主の家で龍馬は育った。
嘉永六年(1853)、江戸に出て北辰一刀流千葉周作の弟貞吉に剣を学ぶ。同年にはペリーひきいる米国艦隊が浦賀に入港し、天下が騒然とする様相を見て大いに刺激を受ける。翌年帰郷し、漂民万次郎から海外の話を聞いていた画家河田小龍を訪ねて、海外の事情を教えられる。
文久元年(1861)九月、尊皇攘夷を主唱する武市瑞山の土佐勤王党に参加し、翌年一月、武市の使者として萩に久坂玄瑞を訪ねた。帰藩後の三月、土佐藩論の因循に失望して、沢村惣之丞とともに脱藩する。十月に幕府軍艦奉行勝安房(海舟)を訪れ、その話に感激して門下生となる。神戸海軍操練所の設立に協力し、そこで航海術を学び、越前藩主松平春嶽、幕臣大久保一翁、熊本藩士横井小楠らの知遇も受けて思想的な影響を受ける。
文久三年の「八月十八日の政変」後は幕政が反動化して、海軍操練所は閉鎖されてしまったので、勝の紹介で西郷隆盛を頼り、薩摩藩の保護を受ける。翌年には長崎・亀山で商社(のちの海援隊)を設立し、海運貿易に従事するかたわら、薩長の和解に奔走する。慶応二年(1866)正月、京都の薩摩藩邸で桂小五郎と西郷隆盛の間で薩長連合盟約が結ばれた際に、龍馬が証人として立ち合う。直後に旅宿寺田屋で幕吏に襲われたが、愛人お龍の機転で薩摩藩邸に逃れた。この薩長同盟によって幕府の長州再征は失敗におわるが、幕長戦には龍馬も参加し、長州海軍を指揮して高杉晋作とともに幕軍と戦った。
慶応三年には後藤象二郎を介して山内容堂を説き、将軍慶喜の大政奉還を実現させた。この時船中で後藤に提示した八か条の新政府機構と政策案は「船中八策」として知られている。大政奉還後の十一月十五日、下宿近江屋で中岡慎太郎と会談中に身廻組に襲われ、斬殺された。享年三十三。

<小話> 慶応三年(1867)八月に長崎で、龍馬は木戸孝允を佐々木高行に紹介した。木戸が急に船の修繕が必要になったので、不足した費用を佐々木から借りてやったのだ。そのとき木戸は、イギリス公使館のアーネスト・サトウの意見を引用して次のように語った。
「最近サトウに会ったところ、近頃諸侯たちが上京して意見を申し立てているようだが、大体公論というものは行われにくいものである。公論を天下に言いふらしながら、それが実行されないで、そのままにしておくことを西洋では「老婆の理屈」といって、男として一番嫌うものだ。どうも近頃の建白はそんな気配がする、と言われたが、外国の通訳官にこんなことを言われては、神州男子にとって大恥だと感じた。どうか大政返上のことも七、八分までいけば、その時の状況で、十段目は砲撃芝居以外にはやり方がないだろうと思う」
これに対して龍馬も佐々木も大いに感服し、木戸の意見に同意したという。木戸は龍馬の大政奉還論に不安を感じていたようだ。龍馬にあてた九月四日付け手紙に「乾(板垣退助)頭取の役割、この末はもっとも肝要とぞんじ奉り候」と書かれてあったが、板垣は土佐藩内の武力討幕派の中心人物だった。
この手紙に対して龍馬は、「高知に帰ってから板垣に会う」と返事に書いて、木戸を安心させようとしている。龍馬は佐々木には「今度の大政奉還のことが成功しなかったら、ヤソ教で人心を扇動して、その混乱によって幕府を倒したい」と述べ、オランダのハットマン商社からライフル銃一千三〇〇挺を購入しており、龍馬の決意にも悲壮感が漂っている。



福岡孝悌(1835〜1919)  ふくおかたかちか

天保六年に土佐藩士福岡孝順の二男に生れる。
安政元年(1854)、吉田東洋が長浜村に蟄居中に後藤象二郎、岩崎弥太郎らとともに教えを受けた。安政六年、東洋が参政に復職すると大監察に抜擢され、東洋閥「新おこぜ組」の一人となる。文久二年(1862)、東洋暗殺後に藩政が尊王攘夷に傾くと、同三年、山内豊範の側役となる。
慶応年間には後藤象二郎とともに殖産興業を目的とする開成館の開設にかかわり、海援隊と陸援隊の結成を決定し、坂本龍馬の脱藩の罪を赦した。慶応三年に参政となり、後藤とともに上京して将軍慶喜に大政奉還を勧告し、公議政体論を主張して薩長の武力討幕論に対抗した。
王政復古後は新政府の参与となり、越前の由利公正、長州の木戸孝允とともに五か条の御誓文の起草に参画、由利の第一条草案を修正した。政体書の発布にも尽力し、王政復古の功により賞典禄四〇〇石を永世下賜される。議事政体取調所御用係から、明治三年には高知藩少参事、同権大参事となる。同五年、文部大輔、司法大輔を務め、以後、元老院議員、参議兼文部卿、参事院議長を経て、同二十四年には枢密顧問官に就任、その間、明治十七年(1884)に子爵となり、八十五歳で没している。



谷干城(1837〜1911)  たにたてき

土佐国高岡郡窪川村の医師の家に生まれる。父の影井が藩校の教授に任命されて、城下近郊の小高坂に移住した。安政三年(1856)、江戸に出て安積良斎(あさかごんさい)、塩谷宕陰、安井息軒(三計塾)に学んだ。この頃、武市半平太ら土佐勤王党の尊王攘夷論に影響を受ける。文久二年(1862)、藩校・致道館史学助教となり、慶応二年(1866)には藩命により長崎、上海を視察し、内外の情勢に目覚めて攘夷論を捨てる。長崎では後藤象二郎、坂本龍馬と交流、慶応三年五月、乾(板垣)退助と共に西郷隆盛、大久保利通と会見して討幕を密約する(薩土密約)。
戊辰戦争では東征軍の大軍監として関東・東北地方に戦い戦功をあげた。維新後は新政府の徴士となるが、藩政改革のため帰国。明治四年(1871)に再び政府に出仕して陸軍に入り、六年には熊本鎮台司令長官に任ぜられる。同七年、台湾蕃地事務参軍として台湾に出征、九年には再度、熊本鎮台司令長官となり、翌十年の西南戦争では西郷軍一万数千人に包囲される中、五十日にわたる籠城戦に耐えて官軍を勝利に導いた。翌年、戦功により陸軍中将に昇任する。
明治十八年(1885)、第一次伊藤内閣の農商務大臣となったが、伊藤内閣の条約改正案と欧化主義に反対して辞職した。その後、国粋主義を唱え、新保守党を結成。二十三年、貴族院議員となり、保守の姿勢は崩さずに、日露開戦には反対した。七十五歳で没。



板垣退助(1837〜1919)  いたがきたいすけ

土佐藩上級武士・乾(いぬい)家の長男に生れる。少年の頃から武断的なことを好み、母親は養育に苦労したという。青年期に盛組の首領となったが、安政三年、同輩凌辱の罪により土佐郡神田村に謫居した。その後、吉田東洋に見出されて文武の修業に励み、万延元年(1860)に免奉行に登用された。文久元年(1861)、江戸藩邸の会計・軍事の職につき、翌年、山内容堂の側用人となる。慶応二年(1866)に江戸へ遊学、騎兵術とオランダ兵学を学び、翌年、中岡慎太郎の紹介で西郷隆盛らと会合し、討幕の密約を結ぶ。
戊辰戦争では東山道先鋒総督府の参謀を務め、土佐の迅衝隊を率いて各地を転戦する。この頃、乾を板垣と改める。帰国後、土佐藩大参事として藩政改革を指導し、明治四年(1871)には明治政府の参議に就任する。六年の「征韓論」が敗れて下野し、翌年、副島種臣、後藤象二郎らと民選議員設立建白書を政府に提出した。その後、立志社を創立、自由民権運動の先頭に立ち、明治十四年に自由党を結成した。翌年四月、東海道遊説中、岐阜で刺客に襲われ、その時に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという話が全国の新聞で報道された。同年十一月に外遊し、翌年六月に帰国したが、民権運動の下からの激化によって自由党を解党した。
明治二十年、一代華族論を唱えて伯爵を受けた。その後愛国公党を組織し、立憲自由党総理、第二次伊藤内閣、隈板内閣で内務大臣となったが、三十三年、伊藤博文による政友会結成と共に政界を退いた。その後は社会事業などに尽力し、大正八年(1919)七月十六日に死去した。



中岡慎太郎(1838〜1867)  なかおかしんたろう

土佐国安芸郡の大庄屋の家に生れる。長男で名は道正。学問を間崎哲馬に、剣術を武市瑞山について学んだ。坂本龍馬とは武市道場で相知る。文久元年(1861)、武市が指導する土佐勤王党に参加。翌二年十月、同志五十人とともに江戸に出て、石川清之助の変名で尊攘運動に活躍し、十二月には久坂玄瑞とともに佐久間象山を訪ねる。このころ、慎太郎と改称。
文久三年(1863)八月十八日の政変以来、勤王党の弾圧が強化されたため、九月に土佐を脱藩して長州三田尻に走り、三条実美卿らに面会する。三田尻では忠勇隊に属し、招賢閣において真木和泉らとともに尊攘派志士たちの指導者の一人となる。
翌年七月十九日の「禁門の変」に出陣して負傷、長州に敗走する。のち忠勇隊長となり、八月五日、下関で外国艦隊来襲に出陣する。十二月、九州小倉にいたり、西郷隆盛へ五卿移転の件を交渉。以後、薩摩と長州両藩の和解と同盟に尽力する。慶応元年(1865)閏五月、下関での薩長和解工作には失敗したが、龍馬の協力を得て、翌二年一月に西郷と桂小五郎が京都の薩摩藩邸で会見し、目的を達成する(薩長同盟成立)。第二次征長戦では奇兵隊に身を投じた。
慶応三年四月、三条卿の命を帯びて岩倉具視を訪問し、両者の和解を周旋する。同月、龍馬とともに脱藩罪を赦免され、海陸援隊の組織、統率を命じられる。6月、薩土密約が成立し、京都白川の藩邸に陸援隊を編成、隊長に任ぜられる。十月十日、長崎より武器を運搬して入京、大政奉還を支持する龍馬に対して、武力討幕を説く。
十一月十五日の夜、龍馬をその下宿「近江屋」に訪ね、会談中、身廻組に襲われて重傷を負い、十七日夕刻に絶命した。著書に「時勢論」あり。



後藤象二郎(1838〜1897)  ごとうしょうじろう

一五〇石の土佐藩士の家に生まれたが、父親が幼少時に亡くなり、義叔父吉田東洋の薫陶をうけた。板垣退助とは幼馴染み。二十一歳で幡多郡奉行となり、その後、近習目付に就く。文久二年に吉田東洋が暗殺されて勤王党が台頭すると、しばらく不遇な時代を経験する。その間、江戸に出て開成所で航海術、蘭学、英学を学んだ。八・一八政変後は藩論が一変し、勤王党が弾圧される一方で、後藤は大監察に任命され、山内容堂の信任を得て、藩の実権を握った。
慶応二年(1866)、藩命により薩摩藩を訪れ、その後艦船、鉄砲購入のために長崎、上海に出張する。アーネスト・サトウからイギリス議会の組織・権限について学び、坂本龍馬と長崎の清風亭で会談して意見を交換する。両者は藩船「夕顔丸」に乗船して、龍馬が「船中八策」を提案し、後藤が容堂を説得して、大政奉還の建白を慶喜に行うという成果をあげた。
新政府では参与に任ぜられ、明治六年には参議・左院事務総裁となったが、征韓論に敗れて辞職。翌七年、板垣退助とともに幸福安全社・愛国公党を組織して、民選議院設立建白書を左院に提出、官僚独裁、大久保利通の専制を非難した。翌年、実業界にはいり、高島炭鉱を経営して失敗し、岩崎弥太郎に譲った。同年、元老院議官、副議長として復帰したが、翌年に辞職した。
明治十四年、板垣と自由党を結成、幹部として党の運営にあたるが、民権運動の弾圧に動揺し、三井の資金を受けて板垣とともに渡欧して非難を浴びた。帰国後、朝鮮の内乱に介入して大陸進出の足場を作ろうとし、二十年には反政府的大同団結運動を展開したが、同年、伯爵を授けられ、黒田内閣の逓信大臣になるなど、その無節操さを攻撃された。
明治二十六年、取引所設置に関する醜聞がもとで翌年に辞職した。日清戦争に際しては、露骨な軍国主義を主張したが果さず、晩年は病気がちで不遇のうちに亡くなった。

戻る