中国の覇者、毛利元就


長州藩の歴史はやはり戦国時代の武将、毛利元就から語らなければならないでしょう。安芸の一国人領主にすぎなかった元就が、周防を拠点に7か国を統治する大内氏と出雲、隠岐など5か国を領有する尼子氏の二大勢力を凌駕して、ついに中国10か国の太守となったのは、元就の武勇というよりは知略によるところが大きかったようです。

元就といえば兄弟三人(隆元、元春、隆景)の結束を訓示した「三本の矢」の逸話がよく知られています。嫡男の隆元は不幸にして41歳で急逝しますが、二人の弟は父の訓示をよく守って、元就の死後も隆元の嗣子輝元を補佐して、中央の織田信長の勢力と対抗することになるのです。


(1) 元就、毛利家当主となる

では、毛利元就はどのような生立ちで、いつ毛利家の当主となったのでしょうか。 元就は明応6年(1497)3月14日に安芸の郡山九代城主毛利弘元の次男に生れ、幼名を松寿丸といいました。弘元の嫡男興元は明応2年(1493)に生れています。毛利家の祖は鎌倉時代に幕府の要職を務めた大江広元にさかのぼり、毛利家の一文字三星紋の家紋は大江一族の紋章でした。広元の4男季光が毛利荘の地頭となって毛利姓を名のることになります。


1467年に起った「応仁の乱」を経て足利幕府は弱体化し、弘元の代にはすでに弱肉強食の戦国時代に突入していました。生きのびるためには強者の陣営に属さなければなりません。強者とはすなわち、前述の大内氏です。しかし、足利将軍家の権力争いに巻き込まれそうになって、弘元は8歳の興元に家督を譲って隠退してしまいます。前将軍派と現将軍派の誘いを巧みにすり抜けながら、かろうじて毛利家を守っていましたが、その弘元も永正3年(1506)に39歳で病死します。


元就は母親(福原氏)を5歳のときに亡くし、父親の死亡時には10歳でした。そのため、彼は父の後室大方殿によって撫育されましたが、父が残してくれた所領は重臣の井上氏に横領されるという、きわめて不安定な生活を強いられていました。元就の自立心、忍耐、求道心はこうした環境の中で養われ、のちの戦国大名としての調略の才が磨かれていくことなったのです。


弘元のあとを継いだ興元も永正13年に24歳の若さで亡くなると、興元の嫡子幸松丸がわずか2歳で毛利家を相続することになります。叔父にあたる元就はこのとき20歳。重臣たちとともに幼主を補佐しながら、初陣で武田氏を討ち、26歳で吉川国経の娘妙玖(みょうきゅう)と結婚、やがて隆元が誕生します。同じ大永3年(1523)8月には幸松丸が9歳で夭逝してしまいます。重臣たちは動揺しますが、ここで結束しなければ、主家もろとも自分たちも没落しかねません。結局、重臣たちの推薦で元就が毛利本家を継ぐことになったのです。毛利家十二代当主の誕生です。




<戦国時代までの毛利氏略系図>


大江広元 ― 季光(毛利氏祖) ― 経光 ― @時親(郡山城主) ― A貞親 ― B親衝 ― C元春 ― D広房 ― E光房 ― F煕元 ― G豊元 ― H弘元 ― I興元(弘元長子) ― J幸松丸 ― K元就(弘元次男) ― L隆元 ― M輝元




(2) 郡山籠城戦



この元就の家督相続をおもしろく思っていない人物がいました。尼子経久です。彼の嫡子政久はすでに戦死しており、嫡孫の詮久(あきひさ)はまだ幼かったので、経久は前途に不安を感じていました。この時期には毛利は尼子氏に属していましたが、元就は自立心が強く思いどおりに動きそうもありません。大内氏と対抗するためには、自分の思いどおりに動く人物を毛利家当主に据える必要がありました。そこで経久は腹心の亀井秀綱を使って、元就の弟元綱を唆し、元就に対して謀反を起こさせようとしたのです。


元就はいちはやくこの謀議を察知して、大永4年(1524)4月、50余名の刺客団を元綱の居城船山城に送り込んで元綱とその一派を誅殺したのです。翌年には尼子氏を見限って大内氏に服属すると、元就は安芸・備後の国人衆の調略に乗り出し、敵対する者を攻め滅ぼして勢力拡充に努めました。五龍城主宍戸氏には娘を嫡子隆家に嫁がせています。


享禄3年(1530)に次男少輔次郎(のちの吉川元春)が生れ、天文2年(1533)には三男徳寿丸(のちの小早川隆景)が生れました。その後、尼子氏が毛利陣営の所領を侵食しはじめると、元就は15歳になった嫡子隆元を山口の大内義隆に人質として送り、大内氏の援護を得て、尼子氏と対決する決意を固めたのです。


こうした元就の動きを、経久の引退後に家督を継いだ若い尼子詮久(26歳)は無視できませんでした。重臣を集めて元就討伐の軍議を開きますが、大叔父の尼子久幸は元就の人物を警戒し、軽はずみに兵を起こしてはいけないといって、戦には反対しました。老いて病床にあった経久も久幸の意見をもっともと思い、この血気にはやる孫に自重をうながしますが、詮久は聞き入れようとはしません。天文9年(1540)6月には、第一次先発隊3千人が備後路から安芸の郡山城を目指して進発しました。途中、毛利の属城を攻め落とすつもりでしたが、その一つ祝屋城の守備は堅く、細道で迎撃されたり、落とし穴にはまったりと、敵の奇策に翻弄されてついに敗退してしまいました。


2か月後の8月には、詮久自ら3万の大軍を率いて今度は石見路を通って安芸高田郡に侵入し、郡山城から約4キロにある風越山に本陣を置いて、本格的な攻城態勢を敷きました。一方、元就のほうは郡山城下の一族、家臣ばかりでなく、商人や農民までみな城内に入れるという、常識では考えられない籠城戦術をとりました。こうした非戦闘員は合戦のじゃまになるし、食料もたくさん消費されてしまいます。でも重臣たちの危惧をよそに、元就は泰然と構えています。しばらくすると、領民たちは意外と役に立つことがわかってきました。食事のしたくや負傷者の手当をしたり、紙製の甲冑を身につけて偽兵の役割をも果してくれました。そのうえ、彼らの持ち込んだ石が、城壁にとりついた敵兵を撃退するのに格好な武器にもなったのです。


なによりも領民たちに危害がおよばないよう城内に保護したことで、元就の評判がいっきに高まったことが本人の得た最大の収穫だったといえるでしょう。こうして総勢8千人の将士、領民一体となって戦ったために、尼子軍はどうしても郡山城を陥すことができず、池の内や青山土取場などの局地戦にも敗れてしまいました。

12月に入ると山口から大内氏の援軍が到着し、毛利側の士気はいやがうえにも高まりました。尼子勢は攻囲5か月を経て、本国からの物資補給も途絶えがちになり、士気の低下はおおうべくもありません。元就と援軍を率いる陶隆房は年が明けた天文10年(1541)1月に尼子陣営に大攻勢をかけました。激戦のなかで敵の大将詮久に迫りましたが、先に戦に反対した尼子久幸が立ちはだかって奮戦したために、詮久はかろうじて戦場から脱出することができ、久幸のほうは毛利側の矢に射抜かれて戦死してしまいました。


相次ぐ敗戦により、尼子軍はこれ以上の戦闘は困難と判断して、ついに夜陰に乗じて撤退することになりました。こうして3万の尼子軍を撃退した元就はその勇名を中国一帯にとどろかせ、毛利家発展の基礎を固めることになったのです。


(3) 大内義隆、尼子氏を攻める



天文10年(1541)11月、山陰の風雲児・尼子経久が亡くなりました。享年84歳。郡山城攻めに失敗したうえに、祖父経久の後ろ楯を失ってしまったことは、晴久(同年10月に詮久から改名)にとって大きな痛手でした。すでに味方陣営に動揺する者が多く、石見、備中、備後、安芸の国人衆が大内氏に寝返ってしまったのです。これに気を良くした大内義隆は陶隆房の進言にも動かされて、尼子氏への攻撃を企てます。


天文11年1月、義隆は1万5千の将兵を率いて出雲遠征を開始します。元就にも出陣の命令が下されたので、嫡男隆元とともに大内氏の遠征軍に加わりました。元就は前年5月にも義隆の命により安芸銀山城に武田信重を攻め、滅ぼしています。大内氏のための合戦にかりだされることが、元就には大きな負担になっていました。


途中、尼子勢最南端に位置する赤穴(あかな)の瀬戸山城を攻めるなどして手間どり、遠征軍が富田月山城に本格的な攻撃を仕掛けたのは翌天文12年(1543)3月のことでした。攻撃に先立って、元就は「尼子氏の武力は今なお盛んなので、まともに攻撃しては味方の損害も大きくなります。ここは敵城を包囲しながら城兵を調略して内通者をつくるまで、持久戦法をとるほうがよいでしょう」と進言しました。しかし、義隆の寵臣田子兵庫頭や陶隆房らの積極的な攻撃論が採用されてしまいます。


富田城は海抜280メートルの急峻な山城で、正面には飯梨川をひかえ、両側は断崖絶壁、背後は渓谷を隔てて山岳が連なるという天然の要害でした。元就が危惧したとおり、数回にわたる攻撃も失敗に終わり、陣中には厭戦気分が出はじめてきました。遠征はもう1年以上の長きにわたっていますから無理もありません。間もなくして、元就とともに八幡山に布陣していた国人衆13人が富田月山城へ攻撃を仕掛けると見せかけて、敵方の城内に走りこんでしまいました。城攻めの不利を悟って大内氏を見限り、尼子方に内通していたのでしょう。味方の裏切りに驚いた義隆は、ついに総退却を決意します。


このとき、元就はもっとも困難な殿陣(しんがりじん)を命じられるのです。生きて領国にたどりつけるかどうかわかりません。敵の容赦ない追撃にあって、元就はなんどか危機に陥りますが、部下に助けられ、辛うじて安芸領内に戻ることができました。運が味方したとはいえ、小領主の悲哀をしみじみ味わったに違いありません。元就の独立心がこのとき、強烈に沸きあがったとしても無理はなかったでしょう。


(4) 両川体制の確立



大内氏の攻撃を退けた尼子晴久は息を吹きかえし、再び南下作戦を開始しました。備後三吉郡の布野に進軍してきた尼子勢を、元就は比叡尾山(ひえびやま)城の三吉広隆とともに迎え撃ち、これを撃退、安芸への侵入を阻止しました。同じ天文13年11月に、元就は三男徳寿丸(隆景)を安芸竹原荘の小早川家へ後嗣として送り込みます。小早川家の当主繁平は幼少の頃、眼を患い失明していました。とても戦場で軍を指揮する大将にはなりえません。繁平は隠居し、教真寺に入って僧侶になりました。一方、隆景は繁平の妹を妻にして、一生この妻と苦楽をともにしています。


翌天文14年6月に、元就の育ての親、杉の大方が亡くなり、さらに11月には妻妙玖も享年47歳で逝ってしまいます。最愛の女性二人を失った元就の悲嘆は想像に難くありません。そのためなのか、元就は喪が明けた翌年に、嫡男隆元に家督を譲っています。


天文16年、次男元春は吉川興経の養子となり、同19年に大朝新庄の小倉山城に入城しました。吉川家は元就の妻妙玖の実家です。興経(妙玖の甥)は尼子攻めの際に大内氏を裏切って尼子方に走った人物でした。隠退させてはいましたが、元就にとって好ましい人物ではありません。同年秋には吉川家の重臣、熊谷信直と天野隆重に命じて興経の館を襲撃させ、興経主従を滅ぼしてしまいました。元就はこの2か月前にも、毛利家の譜代の重臣、井上元兼一族を誅殺しています。井上党は元就の本家相続時には元就を強力に支持したので、自惚れや驕慢がはなはだしく、主命に背くこともたびたびでした。毛利家安泰のために、元就は非情にならざるを得ませんでした。こうして獅子身中の虫を滅ぼし、家臣団の結束を図りながら、毛利家の両川体制が確立されました。


出雲遠征の大失敗以来、大内義隆はすっかり戦嫌いになり、領内にこもって遊興に耽るようになりました。和歌を詠み、茶の湯、能に興じる義隆の軟弱さや、奢侈な生活ぶりに一部の家臣たちは反発を強めていました。その筆頭が武断派と呼ばれる陶隆房で、義隆の現状を是認する文治派・相楽武任としだいに対立を深めてゆきます。天文20年、陶隆房はついに挙兵し、深川の大寧寺に落ちのびた義隆は追っ手に攻め込まれて自刃して果てます。さらに隆房は7歳になる義隆の子義尊を捕え、翌日には殺害してしまいます。


元就は義隆の救援要請には応ぜずに静観を決め込んでいました。大内氏の内輪もめは、元就にとっては独立のチャンスだったのです。クーデターに成功した隆房は、大内氏とは血縁の大友晴英を迎えて家督にすえると、自らの名を晴賢と改めました。のちに晴英も将軍義輝の偏諱(へんき)を与えられ「義長」と改めます。当初は晴賢と協調したところもみられた元就でしたが、晴賢から吉見正頼討伐で出陣要請を受けると態度を保留します。いずれ晴賢は毛利家を滅ぼすかもしれず、出兵中に背後の尼子氏が安芸に攻め入る心配もありました。一族、重臣らとの評定では晴賢との断交、決戦が決定されます。


そうなると元就の動きは迅速でした。晴賢に味方する者たちの属城を攻略し、厳島を占拠して、弘治元年(1555)初めには安芸全域を手中に収めてしまいました。晴賢との全面対決となる厳島合戦はこの年の秋に起ります。




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