(5) 厳島合戦
陶晴賢との決戦はま近に迫っていました。戦力を比較すれば、毛利方が不利なことは明らかです。敵の軍勢はおよそ2万、毛利軍はわずか4千です。この戦力の不足を補うには、元就の智略、謀略の才に頼るほかありません。それに加えて重要なのは、毛利家兄弟3人の結束です。3人の性格はまったく異なっていました。この兄弟の性格を表したおもしろい記述が「陰徳太平記」にみえます。
長男隆元は桜 − 心広く慈悲深い方で、孝行のほどは古今に抜きんでている。武勇、人徳ともに優れ、毛利家相続の人物としてもっともふさわしい隆元こそ、万木に優れた桜である。
次男元春は梅 − 知、人、勇の三徳を兼備した良将で、威ありてしかも猛からず、深雪、厳寒をいとわずに咲き、花実ともにすぐれた梅に似る。
三男隆景は柳 − つねに危ない戦いを慎み、謀りごとをもって敵を屈服させる戦法を主とする。文武両道に優れ、柔よく剛を制する隆景は強風に折れず、風に従って風を制する柳とみる。
元就はこれら桜、梅、柳の優れた息子たちにしっかり支えられて、大敵に挑むのです。この時59歳の元就は決戦の場を厳島に定めます。兵力の乏しさを考えると、不利な平地戦をさけ、敵を一箇所に集めて攻撃する必要がありました。元就は毛利水軍を指揮する三男の小早川隆景(23歳)に、瀬戸内海中部を支配する村上水軍を味方につけるように命じました。次男の吉川元春(26歳)はすでに背後の敵、石見永安城を攻略していました。一方、長男隆元は、厳島に築いた宮ノ尾城には井戸がなかったので、大量の水がめを運ばせて決戦に備えました。また、城の兵士らが島民に乱暴を働くこともかたく禁じたのです。
こうして戦時態勢を固めながら、元就は敵への謀略を始めていました。大内家中随一の勇将、江良房栄を晴賢から離間させる策をとったのです。毛利方に潜入していた敵のスパイを逆利用して、江良房栄がすでに毛利に通じているという情報をわざと知らせ、この情報を陶方に伝えさせました。さらに房栄の筆跡をまねて、偽の手紙まで作りました。晴賢は疑心暗鬼になり、元治元年3月16日、とうとう房栄を岩国の琥珀院で謀殺してしまいました。
さらに元就は宿老桂元澄を二重スパイとして晴賢に内応させ、厳島に誘導するべく謀りました。すなわち、
「あなた(晴賢)が厳島にわたって宮ノ尾城を攻撃すれば、元就も渡海して救援に駆けつけるだろうから、その間に私(元澄)が毛利の本拠、吉田郡山城を占拠しましょう」
という密書を送らせたのです。元澄の父親は元就の弟元綱謀反の際に、元綱に味方した罪で切腹を命じられたという経緯があったので、晴賢は「裏切りはもっともなこと」と信じたようです。これも意図的にそうした人物を選んだ元就の深慮だったでしょう。
元就の攪乱戦術はなおもつづきます。陶方の反間を利用して、また山口城下に間者を放って、次のような風説を撒き散らします。
「元就は、厳島に宮ノ尾城を築いたのは失敗だったと後悔しているらしい。もし陶軍がすぐに攻めてきたら、ただちに落城してしまうだろう。援兵を送るには軍船の数が足りないし、城の普請が完成するまで陶軍の来襲がないことを、ただ願うばかりだそうだ」
この偽情報をすっかり信じ込んだ陶晴賢は、重臣の慎重論をも一蹴して、弘治元年(1555)9月21日、ついに警固船500余艘に2万余の軍勢を分乗させて、岩国の今津・室木海岸から厳島に押し渡りました。宮ノ尾城の南方に位置する塔ノ岡に本営を置き、晴賢から毛利側に寝返った己斐豊後守ら500余の将兵が守備する宮ノ尾城への攻撃を開始しました。
厳島奇襲
「してやったり!」と調略の成功をよろこんだ元就は、9月27日、本軍を率いて吉田郡山城を発しました。途中、吉川元春の軍勢が合流し、翌日には本陣を地御前火立岩(ほたていわ)に置いて、村上水軍の来援を待ちました。陸上戦では正面と背後から陶本軍を攻撃し、海上の陶軍に対しては小早川・村上水軍があたるという作戦を立てていたのです。しかし陶軍は堀を埋め、水道と糧道を絶ち、新式の鉄砲を使って宮ノ尾城を攻めていたので、思いのほか早く落城の危機が迫っていました。村上水軍には晴賢側からも参陣を促す働きかけをしていたので、晴賢も彼らが自分に味方するものと期待していました。
村上水軍を待っていたら、宮ノ尾城は陥落してしまうかもしれない、という危機感を抱いた元就は、その到着を待たずに攻撃を開始しようとしました。そのとき、水平線の彼方に200〜300艘の兵船が現れ、毛利軍本陣の沖に投錨したのです。村上水軍の到着です。これで合戦の準備はすべて整いました。
9月30日、突然に訪れた暴風雨をものともせずに、元就は闇夜をついて全軍を進撃させました。元就、隆元、元春らの主力軍は鼓ケ浦に上陸し、晴賢が本陣を敷く塔ノ岡の背後を衝きました。一方、隆景の指揮する別隊は大野の海岸を迂回して厳島神社正面から上陸すると、宮ノ尾勢と合流して敵の本陣を目ざしました。
10月1日午前4時ごろ、突撃は開始され、山腹のせまい平地で眠っていた陶軍は不意をつかれてなすすべもなく、全軍総崩れとなって味方の船舶が停泊する大元浦方面にむかって潰走しました。
だが、毛利・村上両水軍が陶方の宇賀島・大浜水軍を撃破して封鎖線を敷いていたので、陶軍は進退きわまって大敗を喫し、ついに総大将の陶晴賢は厳島西岸で自刃して果てました。享年35。
元就の調略と奇襲作戦は見事に成功し、厳島合戦は毛利両川軍を率いた元就の完勝に終わりました。中国平定の橋頭堡を築いたといえる厳島合戦で毛利方が討ち取った首級は4,740余人(毛利方の覚書)とも8,000人(厳島神官の手記)ともいわれています。元就は累々と横たわる陶方の死者を対岸まで運ばせ、手厚く葬ったそうです。晴賢の首も黄竜山洞雲寺に葬り、石塔を建てて鎮魂のしるしとしました。
弘治3年(1557)には冨田若山城に籠る晴賢の嫡子長房を攻め滅ぼし、さらに山口の大内義長を攻めて自刃に追い込みました。ここに守護大名の名門大内氏は完全に滅亡し、元就は阿武郡(吉見正頼領)を除く周防、長門の2か国を手中に収めました。山陰一帯を支配する尼子氏とは早晩、雌雄を決するときが来そうです。
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