長州藩祖・毛利輝元

― 耐え難きを耐えて ―


萩城跡に立つ毛利輝元像

<序文>
萩城では毎年正月になると、秘密の儀式が行われていたといいます。
「殿、今年は関東を討ちますか?」
「いや、まだその時期ではあるまい」
元旦、大広間でお雑煮の式などがおわると、藩主と譜代の家臣21人が小座敷に入り、質素な膳を共にしました。服装は平服半袴で、「割雁の式(雁の包丁)」が執り行われました。毛利家創業の苦労を忘れないために続けられたようですが、上記のような会話が本当にあったのだとしたら、「いつの日か関が原の恨みを――」という毛利家主従の怨念がいかに強かったかという表れでしょう。また、「長州藩士は代々足を江戸に向けて寝る」という話も幕末期には流布されていました。
そんな長州藩の怨念を感じていたのか、徳川家康は死に際に三池典太の名刀を手にとり、罪人の胴を切らせて切れ味をためさせ、
「予の遺骸は西にむかって埋めよ。予は死すともこの刀をもって西国にそなえ、子孫を守るであろう」と遺言しました。徳川家の潜在敵国は長州の毛利氏と薩摩の島津氏であり、天下人家康はこの二藩の存在を最期まで憂いながら逝ったようです。
豊臣政権下では120万石を有した毛利家は、関が原の敗戦後に防長二国に減封されました。和議の密約も、幾重にもかわした領国安堵の起請文・誓紙もすべて反故にされてしまったのです。家康への怒りと恨みを呑んで毛利輝元は出家剃髪して宗瑞(そうずい)と称し、家督を長男秀就(ひでなり)に譲りました。それ故、名目上の長州藩祖は秀就ですが、事実上は輝元が藩祖といえます。このときから輝元と長州藩士の長い苦難の旅がはじまったのです。


(1) もう大名をやめたい

毛利氏は関が原の敗戦により8カ国から防長2国に減封されました。しかもすでに徴収していた年貢については新領主たちから返還を迫られていたのです。総額はおよそ15、6万石にものぼり、すでに4分の1に減った総石高では家臣たちを養うことさえ困難でした。安芸の新領主となった福島正則からはとくに厳しく催促されたので、返還額8万石のうち2万石を来月に送るので、残りの分は秋の収穫までどうかお待ちください、と懇請しました。112万石が30万石になってしまったのですから、家臣の多くを切り捨てないかぎり、とてもやっていけるものではありません。
藩主輝元は思い悩んだすえに、重臣2人を筑前福岡の黒田如水(豊臣秀吉の名軍師だった)のもとに派遣して相談しました。「返租もできず、家臣団も養えないので、もはや大名をやめて2国を幕府に返上したい。あとは自分たち父子がそこそこやっていけるだけの扶持をもらえればいい」という輝元に、如水はこう諭します。
「2国を返上しても租米は返納しなければならないのだから、2国は抱えて返納に努めたほうがいい。2国を抱えてさえおれば、なにか才覚も生れてくるだろう」
その言葉を聞いた輝元は「下々なら家産を捨てれば返納の身から逃れられるのに、殿様は逃れるところがない。唐天竺へも行かれず、身の置きどころもない」とため息をついたそうです。でも、なんとか思いとどまり、返租問題の解決について重臣たちにも知恵を絞らせました。
ところが数日たっても誰も打開策を思いつきません。ついに、益田牛庵が「防長2国についても旧領主が主君輝元に返租して、それを他の6カ国にあてたらどうでしょうか」という案を提出しました。つまり、返納の重荷をみんなで分かち合おうというわけです。
輝元はついに大リストラを決断します。すなわち、旧秩禄を五分にして、その一部をもって定額とする、ということで、家臣は家禄を五分の一に減らされてしまったのです。過酷な措置でしたが、そうしなければ藩自体が立ち行かなくなるのですから、受け入れるほか、しようがありません。なかにはやっていけずに禄を捨て出奔した者、新領国へついていくのを諦めて、帰農した者たちもいました。

(2) 萩に築城する

輝元は関が原敗戦後、まもなく出家剃髪して宗瑞と称していましたが、毛利氏を警戒する家康は輝元をなかなか領国に帰らせず、築城の許可も与えませんでした。しかも、諸大名に先立って、わずか7歳の嫡子秀就を人質として江戸に送らされていました。さらに伏見城の築城、江戸城の大拡張の際には手伝い普請を命じられ、大きな財政負担を強いられたのです。
家康からようやく領国入りを許されたのは慶長8年(1603)8月のことでした。居城の場所については幕府から「自由に思うところに造りなさい」と言われていましたが、関が原での辛酸をなめてきた輝元は、もはやそれを鵜呑みにするほど愚かではありませんでした。候補地としてあがっていた防府、山口、萩のうち、利便性のよい山口はとても幕府の意向に沿うまい、と最初から諦めていました。家康の真意を探るため、輝元は福原広俊を派遣して国司元蔵と共に幕府との折衝にあたらせました。日本海側に位置する萩は不便なので、できれば防府に築城したいと思っていたのですが、家康の側近・本多正信は「身のほどをお考えになられよ。指月(萩)が然るべき所でありましょう」と有無を言わさぬ口ぶりです。輝元も落しどころはやはり萩だろうと考えていたので、本拠地は萩に決しました。

■ 五郎太石事件

慶長9年(1604)6月に築城は開始されました。萩は2つの川にはさまれたデルタ地帯にあり、そこの指月山(しづきやま)に城を設け、その周囲の堀内とよばれる一画には上層家臣団の屋敷、その東方に町人地、南方に中下級家臣団の屋敷が配置されました。新城の普請は一門・家臣たちが資金も労力も本人負担でやらなければならない大変な事業でした。防長移封でただでさえ苦しいのですから、普請中には家臣の間にいざこざが起きることもありました。その最大のものは石垣の築造に使う小石の盗難から端を発した「五郎太石事件」と呼ばれる紛争です。
二の丸東門近くの工事現場で天野元信の組が置いていた五郎太石二千百荷が盗まれたのです。捕まった3人の犯人は別の場所で石垣を組む益田元祥の組の者でした。天野側は「昨日も益田の者に石を盗まれたから、その分もいっしょに返してくれ」と要求しますが、益田側は「証拠がないものまで返せない」と断りました。そこで両者間を熊谷元直が調停するのですが、うまくいきません。元直は天野元信の義父(妻の父)だったので、それ以後は天野側について、強く加勢することになったのです。
天野側は工事の都合があるので明日までには石を返してくれと主張してきたので、今度は他の宿老たちが仲介にはいりますが、すべて失敗してしまいます。困った益田側は犯人の3人を斬首して、「犯人を処罰した以上、石は返せない」と主張しますが、天野側は納得せず、はやく石を返せと、なおも要求し続けます。このごたごたで築城工事は大きく遅れ、輝元が自ら断を下さなければならない状況になりました。このころ、家康から将軍職を譲られた秀忠への祝いで上京する日程が迫っていた輝元は対応に苦慮し、叔父の毛利元政に後事を託します。
「自分はあす京に赴くが、萩では今、天野・熊谷と益田が互いに怨み争っている。萩へ出かけて鎮静してほしい」
自ら処断するまえに最後の手順をふんで、一族の長老である元政にこの事件に関与させ、予め了解をもとめたのでしょう。京から帰国した輝元は、7月2日(慶長10年)に熊谷元直、天野元信ら11人を罪ありとして、両人の罪状を自ら書き、死を命じたのです。とくに熊谷元直に対して輝元は相当な遺恨をもっていたらしく、これまでの勝手きままな振る舞いを糾弾しています。すなわち、元直が相談もしないで毛利秀元の娘を細川忠興へ娶わせる約束をした、毛利家中のことを他へ悪し様にしゃべった、高麗陣(秀吉の朝鮮出兵)で輝元の命をそしった、軍律に違反した等々。
実は元直は熱心なキリシタンで、毛利氏が棄教を促しても従わなかったことが処刑された本当の理由である、とイエズス会の記録にはあります。元直がキリシタンだったのは事実で、教えにしたがい自刃せずに、斬首されています。キリスト教会側からみれば熊谷らの処刑は殉教ということになり、現在の萩キリシタン殉教者記念公園には熊谷元直と天野元信の殉教碑が建っています(大正3年建立)。ただ、キリシタン信仰は処刑理由のひとつであって、元直がたびたび主命に違背して、主家をないがしろにしていたことが毛利氏にとっては看過し得ない大問題だったのでしょう。これから藩の組織を堅固にし、統治体制を整えていこうという時期に、こうした厄介な家臣がいては新しい本拠地での藩の安定は望めません。こうして源平合戦以来の名門、熊谷次郎直実の直系は、不幸にもここに断絶してしまったのです。



目次に戻る  次へ