長州藩祖・毛利輝元

(3) 洪水との戦い

萩城が完成したのは起工から四年後の慶長13年(1608)でしたが、輝元は同10年には一部の建物ができただけの萩城に入り政務をとりはじめました。萩の三角州は北部をのぞいてほとんどが芦の生い茂る沼地や湿地帯だったので、城下町の建設は困難をきわめました。橋本川と松本川に土手を築き、内側の沼地・湿地を埋め立てて町は少しずつ造られていき、完全な完成までには実に百年を費やしたといわれています。
しかも、この地は南北の標高差が大きく、最大で8メートルを超えていました。そのため、低地ではしばしば洪水が生じて、甚大な家屋の被害や、死者を出すことにもなったのです。なかでも元禄15年(1702)には3度の大洪水にみまわれ、川土手の損壊は合計で277キロメートルにわたり、家屋の流失・倒壊は4千911軒、死者46人という悲惨な結果となりました。その後もたび重なる水の災害に悩まされた萩藩は、橋本川堤防の大修築補強工事を行うことにしました。堤防はそれまでより370メートル長くし、土台部分を広げ、上に竹やぶを植え、石垣を2段ないし1段組にしました。それでも水害がつづくので、町民の間では、
「以前から洪水になると、ご城下の方を救うため、向こう岸の土手切りが行われている。けしからん」
という流言まで広まりました。事実か虚偽かはともかく、藩政府は住民の不信を一掃するため、洪水防止体制を強化しました。各町は堤防守備の受持ち区域を決め、昼間は同じ印の町昇り、夜間は高提灯を掲げて責任をはっきり示すことになりました。洪水のときは当職から奉行、代官、全戸の町民にいたるまで、全員が現場へ出動し協力して事にあたることになったのです。

(4) 佐野道可(さのどうか)事件
− 豊臣秀頼に味方した毛利家家臣 −

話を少しもどしますが、関が原戦に勝利したとはいえ、大阪にはまだ豊臣氏が健在だったことから、家康はずいぶん気にしたようです。これをなんとか葬らないことには安心してあの世へ行けないと思ったのか、巧みな策略をもって大阪の陣を引き起こしました。
一方、毛利輝元は豊臣氏への思い入れが強く、萩城の三の丸に豊国大明神を建立しようとしました。(豊国大明神は秀頼が父秀吉を祭るために京都に建てた神社で、「大阪の陣」後に徳川氏により取り潰された)。驚いたのは家臣たちで、そんなことをすれば、家康にどう思われるだろうか。かろうじて守った領国も没収されかねないと心配して、必死に主君を諌めたので、輝元も断念せざるを得ませんでした。
しかし、輝元は大阪の陣で危険なことを実行してしまいます。毛利氏とは姻戚にある内藤元盛(一門筆頭・宍戸元続の実弟)が輝元の命を受けて名を佐野道可と改め、豊臣氏に味方して大阪城に入城したのです。輝元がこの件を相談したのは執政秀元(長府藩主で関が原では主戦派だった)、藩主秀就(ひでなり)、道可の兄、宍戸元続だけでした。反対されることと漏洩を恐れたのですが、隠し通せるようなことではなく、元和元年(1615)4月、夏の陣直前には重臣間に知られてしまいます。とくに福原広俊は関が原戦で吉川広家とともに徳川氏との間を周旋していただけに、「もし漏れたら、お家の一大事だ」と秀元を責めました。
広俊の心配したとおり、佐野道可の大阪籠城のことは、のちに家康の知るところとなりました。道可は落城の際に逃走していたので、徳川方は「道可を捕えて差し出さなければ、輝元が籠城させたとみなすぞ」と脅しをかけてきました。まさに毛利家の危機でした。方々を探索して、ようやく京都に潜んでいた道可を見つけると、切腹させて、その首級を差し出しました。道可の二人の息子も国元から上洛させたのですが、家康は二人は関わりなしと認めて、帰国を許しました。しかし輝元は不安にかられて、二人を領地で自刃させてしまいました。これには幕府方も「痛ましきこと」と、驚いたようです。
大阪籠城に先だって、輝元は道可に誓詞を与えていました。すなわち、元続より頼んだこと、分別して上坂され神妙のいたり。決して忘れないし、約束は必ず守る。本家はもちろん、分家まで将来とも見捨てず取り立てる、等々。結果的に輝元は心ならずもこうした誓約を破ってしまうことになったのです。

それにしても、輝元はどうしてこんな危険なことを、あえてしたのでしょうか。豊臣氏への恩義、秀頼への同情、あるいは、家康の寿命が尽きれば、大阪方が勝利する可能性もあると考えたのでしょうか。こうしたことから、関が原戦から輝元が受けた精神的ショックと徳川氏への敵意は、実に大きかったことが察せられるのです。



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