長州藩祖・毛利輝元

(5) 秀就への教訓状

元和元年(1615)、大坂城の落城によって豊臣氏が滅んでからは、名実ともに徳川氏の天下となり、幕府は武家諸法度を発布して徳川政権の基礎を固めました。翌元和2年に家康が亡くなったあとも、すでに跡を継いでいた二代将軍秀忠は亡父の偉業を守って、徳川支配体制の強化に努めました。毛利氏は大坂の役での「佐野道可事件」の危機を乗り切り、なんとか幕府の信頼を繋ぎとめて家の安泰を保つことができました。それ以後、輝元が死去するまでの10年間は、徳川の世も安定期に入り、それほど重要な事件も起こりませんでした。しかし輝元は隠居の身ではありましたが、毛利家の将来についてまだ安心してはいませんでした。
まず身内の結束をかためる必要がありました。そのため、17歳になった娘(母は児玉氏)を吉川広家の嫡子広正(16歳)に嫁がせることにしました。関が原の合戦で徳川氏との交渉役をしていた広家は、領地をすべて安堵するという徳川氏の約束が守られず、防長二国に減封となったことから毛利本家に恨まれていました。しかし吉川家からすれば、最初は全領土を没収されるところだったのを、防長二国を吉川家にあたえるという徳川氏の決定を、「なにとぞ本家に」と懇請した結果、それが受け入れられて毛利家を守ったのだという意識が強かったのです。輝元も広家の尽力を認めていないわけではなかったのですが、戦わずして敗れた悔しさがあったのでしょう。でも、そんなわだかまりが両家にあっては、祖父元就の「兄弟結束せよ」という訓示にそむくことにもなります。毛利家の将来のためにも、吉川家と親交を深めることは重要なことでした。
元和3年(1617)、輝元は次男就隆(なりたか 16歳)に周防徳山で3万石の地を与えて分家させました。ここに徳山毛利家が創立され、長府毛利家(藩祖は養子秀元で元就の孫)、のちに創立される清末毛利家(藩祖は秀元の子、元知)とともに宗家を補佐することになりました。就隆は秀元の娘を妻にむかえています。
こうして毛利一族の血縁の絆を深めることはできましたが、輝元の心配はやはり徳川幕府にありました。当時、幕府は外様大名に眼を光らせ、ちょっとした欠点でもあれば、これを口実に取り潰そうという方針がありありと見えていたのです。最上義俊、福島正則、のちには加藤清正が子の代で改易に処せられています。そのため輝元は長文の教訓状を書いて秀就に与えました。その内容を要約しますと、

最近、幕府は外様大名の取り潰しに熱心であるから、そなたも行状に気をつけなければいけない。秀忠はそなたが江戸より帰国するたびに、父に心付け養生せよといわれるようだが、そなたの心がけとしては父に気遣いをかけないことこそ、なにものにも勝る孝道となるのだが、そなたはそれがわかっていない。
そなたは執政には無経験だから、巧くいかないのは尤もであるけれども、もう30歳近くになったのだから、奉行などを相手としてその意見を聞くようにしなければならない。しかし、そなたは才能ある小姓を見分けて使おうともせず、老臣には打ち解けない様子である。また、少しでも気にくわぬことがあると、老幼を問わず一向に寄せつけないので、誰も率直にものが言えなくなり、善し悪しの判断について意見も述べなくなっている。これでは役に立つものはなくなってしまう。
とくに幕府のことはすこし違っても一大事となるから注意しなければならない。
召し使っている者を他所衆のまえで悪口を言う由で迷惑するものもある。
人を召し使うには以前にも申したように、義理、筋目、または奉公の出来・不出来をよく見知って役に立つように召し使うことが肝要である。
先年駿府にて家康大病のとき、そなたが見舞いにまいり滞在中、進藤某という猿楽役者に謡を謡わせ、また江戸へ帰ってからは踊などを催した由である。だからなのか、秀忠より家康の遺言とて何物も拝領しなかった。他の衆は色々の形見分けに預かったから、御方(そなた)は実に外聞が悪かった。
いく度申しても将軍御前の態度が大事である。少しでも悪い兆が出てきたら、今までの御懇も水になってしまう。これが恐ろしいのである。なんといっても自分は毛利家が続いて奉公できるようにと朝夕気遣っているからこそ、このように申すのである。以上をよく分別すれば数代の祖先および元就・隆元両卿への追善もこれに如くものはない。

苦労人の実父・輝元のこうした微細を極めた教訓をうけて、秀就も深く反省したようです。その日のうちに自筆をもって返事をしました。
 「御ヶ条の趣、ことごとくご尤もなことと存じます。随分気をつけて、慎まねばならないと肝に銘じます」(意訳)

輝元の晩年の生活が、毛利氏の存続、安泰をひたすら願う一念に貫かれていたことは無理もなかったでしょう。わずか10歳で父を失い家督を相続して以来、一家の興亡を双肩に担って、信長、秀吉、家康と変遷する天下の政局に必死に対応してきたのです。ときには苦杯を飲み、泥水に溺れもした処世の道に学んで、輝元が残した「君にねたむ臣下あれば賢人いたらず」、「国のおこらんとするは異見の臣下にあり」、「家をさかんとするは子にあり」という金言は、まさに戦乱の世を生き抜いた男の体験そのものを物語っているようです。

(6) 輝元の最期

輝元は慶長8(1603)年ごろから身体の不調を感じるようになり、大坂冬の陣では疲労から病に罹り、家康の許しを得て後事を秀就に委ねて帰国しました。元和5年の上洛時には名医曲直瀬正紹の薬を服用し、秀忠のいる二条城に赴いた際には玄関まで輿で乗りつけ、幕臣らに手を引かれて導かれるほどでした。
寛永2(1625)年、一時は快癒したと思われた輝元の病は、73歳という高齢もあって再び悪化に転じました。江戸在府中の秀就は父の病を憂慮して、3月に見舞のため家臣の児玉元恒を国許に派遣しました。4月には病状が著しく悪化したとの報せをうけ、秀就はついに「帰国して、父の看病に当たりたい」と幕府に歎願しました。5月2日に帰国の許可が下り、秀忠父子からは種々の品物が贈られ、秀就はただちに帰国の途につきました。しかし、彼は父の臨終に立ち会うことはできませんでした。
輝元はすでに4月27日、萩城内4本松の隠居所で亡くなっていたのです。帰国した秀就は父の死を知って深く悲しみました。
葬儀は5月13日に萩平安寺(現在の天樹院)で盛大に執り行われました。法名は天樹院前黄門雲巌宗瑞大居士。輝元の葬儀後10日余が経ったころ、長井元房という部将が自刃しました。元房は若年のころ、故あって萩を出奔し他国に牢浪していましたが、その間輝元はひそかに銀子を与えて元房を庇護していたのです。その後、帰参した元房を、輝元は以前と同様に再び家臣として遇しました。そのことに感激した元房は生涯輝元に深い恩を感じていたのでしょう。壮烈な殉死でした。
輝元の後半生はおそらく徳川氏への怨念を心底に秘めながらも、一家の末永い存続のために幕府に頭(こうべ)を垂れ、なに事にも堪え忍ぶ実に苦しい年月だったに違いありません。自分の死後、二百数十年後にその子孫と家臣たちが徳川幕府を倒すことになるとは、神ならぬ身、輝元にも予知し得ない歴史の奇跡だったと言えるのではないでしょうか。(「長州藩祖・毛利輝元」完)



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