<イギリスに密留学した長州藩の若者たち>

長州ファイブ


■ 序章 − 維新に向けて

文久3年(1863)5月12日、幕末の攘夷熱が高まるなか、5人の若者が密かに横浜港からイギリスに向けて出航しました。5人を派遣したのは、そのころ外国船にさかんに砲撃を加えていた長州藩でした。まさに尊王攘夷の拠点ともいうべき藩が、幕府の禁制を犯して若い藩士を外国に送り出したのです。明日の日本のために、長州藩は外国の情報を得ようとしていました。では、その5人とはいったい、どんな若者たちだったのでしょう。


井上聞多
(井上馨)
いのうえかおる
5人のなかでは最年長の28歳(1835年生れ)。初代外務大臣。欧化政策を推進し、不平等条約改正に尽力する。
遠藤勤助
えんどうきんすけ
27歳(1836年生れ)。造幣事業に一生を捧げ、「お雇い外国人」から独立し、日本人の手による貨幣造りに成功する。
山尾庸三
やまおようぞう
26歳(1837年生れ)。グラスゴーで造船を学び、明治4年に工学寮(のちの東京大学工学部)を創立。聾盲唖教育の父でもある。
伊藤博文
いとうひろぶみ
22歳(1841年生れ)。初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法を発布。4度首相を務める。
野村弥吉
(井上勝)
いのうえまさる
20歳(1843年生れ)。鉄道の父。新橋−横浜間に日本初の鉄道を敷き、以後、全国の鉄道敷設工事を指揮した。小岩井農場の創設者。

明治政府の重鎮として、もっぱら政治畠を歩んだ伊藤と井上(馨)。最先端の工業技術を学んで日本に持ち帰った遠藤、山尾、野村。彼らの新しい知識や技術への強い学習欲、異文化を受け入れる柔軟な思考は近代国家建設のために役立ちました。それにしても日本へ無事に帰れるかどうかもわからない、無事に帰れたとしても、自分の身がどうなるかも覚束ない、すべてが流動する不確かな時代に、彼らはどうして国禁を犯してまで未知の世界へと旅立ったのでしょうか。ここで、彼ら一人ひとりの個性と人生の歩みを辿ってみたいと思います。

攘夷から開国へ − 井上馨の進取の気象




長州ファイブ+アルファ

留学生たちが育んだ 
もうひとつの薩長同盟

1865年6月21日((慶応元年5月28日)、薩摩藩の留学生19名がロンドンに到着しました。ちょうどそのころ、彼らの世話役であるグラバー商会のライル・ホームはケンジントン公園近くの路上で偶然、3人の日本人に遭遇します。3人は長州藩の密留学生・野村弥吉、遠藤勤助、山尾庸三で、ホームから彼らの話を聞いた薩藩留学生たちは驚きました。自分たち以外に国禁を犯して密留学している者がいるとは思いもしなかったからです。この3人がベースウォーター街にある薩摩人の宿舎を訪ねたのは7月2日。両者は最初、互いに警戒心をもって相手をみていました。というのも、薩長は「禁門の変」以来、仇敵の間柄だったからです。
しかし彼らが打ち解けていくのは時間の問題でした。薩人留学生には五代才助、森有礼、町田清蔵などがおり、とくに山尾とは頻繁に接触し友好を深めたようです。彼らは徳川幕府による貿易独占権の排除、不正な条約の破棄という問題では共通の認識を持っていました。その実現には西南雄藩が連合して国政を変革するしかない、という必然的な結論に達します。自由な貿易を期待するイギリス側も幕府の独占権排除は歓迎すべきことでしたから、日本の雄藩から派遣された留学生たちの意見を聞くことは、対日外交において重要事だったに違いありません。ときのラッセル外相はすでに長州藩の留学生(野村、遠藤、山尾)と会談して、長州侯が外国船を砲撃した理由を訊ねていました。
「長州藩の真の目的は『不正な大君政府』を倒して正統な皇帝である『ミカド』へ大政を奉還し、祖国に平和と秩序を回復することであり、そのうえで改めて諸外国と条約を締結すれば、外国人も日本における生命と財産の安全を確保できる」
という留学生の話はイギリスの対日外交政策を決定するうえで、十分考慮に値する情報でした。事実、この時期から駐日公使オールコックの長州藩に対する強硬姿勢が変化していきます。薩摩藩の五代才助なども雄藩連合の成立をめざして、イギリスでの活動を活発化していくのです。
そのころ(慶応元年5月)、イギリスの新聞で長州藩の危機を知って、すでに一年前に帰国していた井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)は、桂小五郎とともに下関で新任の駐日公使パークスと会談していました。彼らは幕府の長州再征に対処するため、連合国と協約した下関砲台非武装の解除を求めたのです。イギリスは薩長の同盟を視野に入れて、両藩をバックアップする体制を整えつつありました。土佐の中岡慎太郎や坂本龍馬も薩長融和に向けて周旋を始めています。
そうした日本での動きと連動するかのように、イギリスでは長州藩と薩摩藩の留学生たちが日本人としての同朋意識にめざめ、その親交を深めていくのです。その一例が山尾庸三のグラスゴー行きです。山尾は造船技術を学ぶために、ロンドンから造船業が盛んなグラスゴーに移りたいと思っていました。しかし、藩の資金は底をついていました。薩摩藩では富国強兵策を推進するために藩公認で留学生を派遣していたので、資金は潤沢にありましたが、長州藩の場合は藩内外の攘夷論者をはばかって、極秘で留学生を送り出していたために、限られた資金しか準備できなかったのです。山尾は困窮して、薩藩の留学生たちに相談しました。他藩留学生のために藩費を使うわけにはいかなかったので、彼らは一計を案じ、学生たちから義捐金をつのることにしました。16人が1ポンドずつ出し合って、合計16ポンド(約100万円)を集めて山尾に渡したのです。この義捐金で山尾のグラスゴー行きは実現しました。彼は薩藩留学生たちの恩義を忘れず、たびたび彼らに近況を知らせる手紙を書き、ひとりだけスコットランドにいた薩摩藩の最年少(十三歳)の留学生磯氷彦輔の様子についても報告しています。

■ 長州藩留学生、異国に死す

山尾がグラスゴーに旅立ったころ、長州藩からさらに二人の留学生がロンドンに到着しました。南貞助(18歳)と山崎小三郎(21歳)で、南は高杉晋作の従弟で、山崎は藩の優秀な海軍士官でした。高杉は自らイギリス留学を望んでいたのですが、諸般の事情から断念し、代りに南の密留学を藩に認めさせ、山崎と竹田傭次郎にも英国渡航の藩命がくだったのです(竹田は事情があって、のちに単独で渡英している)。この二人は最初から資金難に苦しみ、住居はなんとか山尾がいた一室を借りることができましたが、食費、衣料費もままならず、石炭や薪を買うお金もなく、火のない部屋で厳しい冬の寒さに耐えなければなりませんでした。
こうした悲惨な環境の中、疲労と栄養失調からついに山崎は肺病を病んでしまいます。みかねたグラバーと懇意のイギリス人が生活費を援助し、住居もウィリアムソン博士邸に移り、博士夫妻が親身になって看病してくれたのですが、山崎の病状は回復せず、ついに亡くなってしまいました。1866年3月3日(旧暦1月27日)、享年22歳。
使命感と語学力不足への焦燥、祖国への想いと密航発覚の恐怖。海外渡航じたい、決死の覚悟が必要だった時代です。志を遂げられずに病に命を奪われた山崎の無念は察して余りあります。しかし、山崎の死はけっして無駄ではありませんでした。山崎の死を地元紙は、「(略)遺骸はウォーキングに埋葬され、ユニバーシティカレッジのウィリアムソン教授および12名の日本人学生たちが出席して葬儀がとり行われた」と報じています。この12名のうち10名が薩摩藩留学生でした。窮乏する山崎をついに救い得ずに死なせてしまったことに、悔恨の情を共有したことは容易に想像できます。もはやそこには薩摩藩も長州藩もありませんでした。はるかに遠い祖国日本の平和と統一を願って、両藩の留学生たちは心をひとつにしたのです。山崎の死は薩長両藩の若者たちの絆を深め、すでに「無言の同盟」が結ばれていたと言えるでしょう。彼らの留学生サークルはその後、スコットランドのアバディーンにも広がり、肥前や芸州藩からの密航留学生とも交流するようになります。そこには長州藩の竹田傭次郎も滞在して、勉学に励んでいました。山崎小三郎の死と前後して、日本では桂小五郎と西郷隆盛が両藩を代表して、密かに薩長同盟が結ばれました。

 * 長州ファイブ+アルファとして、山崎小三郎の死について先に紹介いたしました。


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