<イギリスに密留学した長州藩の若者たち>
維新以降における井上は実業界との結びつきや、鹿鳴館にみるいき過ぎた欧化主義などであまり印象がかんばしくないようです。しかし、幕末期の彼は事に臨んで勇敢で、友誼にあつく、性格も明るかったので、主君からは気に入られ、同僚からも慕われていました。とくに、伊藤俊輔(博文)とは上士と足軽出身という身分差にこだわらず、ともに尊攘運動に挺身しながら、親友同士の付き合いにまで関係を深めていったのです。 ■ 密航を決意する もともと過激な攘夷主義者だった井上が、なぜイギリスへの密航を決意したのでしょうか。久坂玄瑞や山県半蔵から聞いた佐久間象山の話がそのきっかけでした。攘夷は不可能だとする象山の意見には同意できませんでしたが、武備充実、海軍興隆の必要性については同感で、「人材を海外に派遣すべし」とする論には大いに心が動かされたのです。また、井上は勝海舟を訪ねて、その幕臣らしからぬ進歩的な意見を聞いています。当時、長州藩は「一藩割拠」体制をめざして、防長2州を富強化させ、将来の「勤皇の決戦」に備えようとしていました。そして、その先には欧米列強との対峙が必然的に予見されます。西欧の技術を学び、軍備を近代化させることが急務だと井上は考えました。自らも参加したイギリス公使館焼討ちなど無意味であることを悟り、彼は洋行を決意するに至ります。 井上はその志を藩主毛利敬親に密かに打ち明けました。敬親は別段反対もしなかったのですが、「かようなことを予に直接、願うものではない」と井上に告げます。幕府はまだ日本人の自由な海外渡航を禁じていたので、藩主自ら公然と密航を許すことはできません。きちんと手順を踏んで準備せよ、ということだったのでしょう。 ちょうど京都では将軍家茂の入京後に、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、島津久光ら公武合体派が会議を開いていましたが、各々の政策実現が不可能であることを悟って、まもなく相ついで帰国してしまいました。その後、京都は長州藩を中心とする尊攘派の勢いがいよいよ強まっていきます。井上は改革派幹部の周布政之助、桂小五郎、林主税、毛利登人らに自分の洋行希望を説いてまわります。友人の高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎らにも志を語りますが、高杉は理解しても、久坂らははげしく反対しました。でも、 「自分の志は海軍を隆盛して他日の攘夷に備えることで、攘夷という目的においては貴君らと寸分もたがわぬ」 と語る井上の熱意に、ついに久坂らも同意することになりました。 同じころ、野村弥吉と山尾庸三が英国留学を望んで、すでに周布にその周旋を頼んでいました。周布は二人のために、4月3日、豪商大黒屋が営む貿易商会伊豆倉商店の番頭・佐藤貞次郎を祇園の一力茶屋に招いて、この計画実現への助力を請いました。 「世の中はいま、尊皇攘夷でわき返っているが、これはいったん日本の武威を外国に示すだけで、いずれは各国と交わる日が必ずやってくる。そのときに西洋の事情を熟知していなければ、わが国にとって一大不利益になる。そこで野村と山尾をイギリスに派遣したいのだ。あなたを見込んでこの密事を打ち明けたのだから、そのあたりをよくわかってほしい」 周布の真剣な打明け話に感激した佐藤は、一命にかえても周旋する覚悟であると答え、けっして他言しないことを誓ったのです。その晩、野村、山尾の話を聞いた井上は、以前から洋艦の買付けなどで昵懇の間柄である佐藤を訪ねました。 「自分も洋行を希望しているので、2人に加われるように周布に頼んでほしい」 井上の依頼に佐藤は快く応じました。井上の洋行希望については周布の耳にもはいっていましたし、佐藤も周布から井上の話は聞いていたでしょう。ただ、渡航費用に藩費を公然と使うことはできなかったので、佐藤の金策がどうなるか心配していたのかもしれません。 ■ 密航準備 周布は桂や毛利登人と相談して、3人のイギリス留学に関して綿密な計画をたててゆきます。すなわち、国禁を犯しての密航なので全員が賜暇のかたちをとり、期間は5年間とし、その間に宿志を遂げるよう努力すること。帰藩後は海軍興隆のために尽力することとし、4月18日には藩主が3人の洋行を黙許したのです。井上は藩主敬親から「量時度力」の4字を、世子定弘から「思弁」の2字の親書を授けられました。時勢を的確に見極めることのできる技量と判断力を身につけてきなさい、という意味でしょうか。 その後、井上は養家先の志道家と離縁します。密航の罪が養家におよぶことを恐れたためで、「志道」から再び「井上」の姓に戻ったのです。京都を離れる前に、井上は尊攘派の盟友・伊藤俊輔に海外渡航の密事を明かしました。「おまえもいっしょに来い」としきりに伊藤を誘ったのです。伊藤はすこし逡巡したのち、外国行きを決意します。二人は伊藤が愛読していた「日本政記」(頼山陽著)の巻末に署名して、同行を盟約しました。さらに、江戸到着後には遠藤勤助が渡航仲間に加わりました。彼は航海術習得のため、外国行きを希望していたので、結局、密航は5人で決行することになりました。 しかし、彼らの外国行きにはまだ困難が待ち受けていました。ジャーディン・マセソン商会のガワーによると、船賃と一年間の滞在費をあわせて少なくとも一人千両は必要だといいます。渡航は5人とも許可されましたが、藩からは各人300両しか受け取っておらず、それも服装の調達と遊興におおかた使い果たしていました。彼らは困惑しましたが、4千や5千の金がないからといって、イギリス行きを諦めるわけにはいかない、と井上が一計を案じることになります。井上と伊藤は麻布藩邸に兵学教授の村田蔵六を訪ね、鉄砲買入れの代金1万両から5千両を用立ててほしいと頼みこみました。しかし、これは非常用の予備金だったので、勝手に流用することはできませんでした。そこで村田は佐藤貞次郎に相談し、佐藤が主人の大黒屋六兵衛に話して、藩の御用金を担保にした5千両の貸出しを了承させることに成功したのです。これで渡航費用の心配はなくなりました。 5月11日の夜、5人はマセソン商会の英一番館に到着します。その場で洋服に着替えて、断髪しました。断髪はたいへんな決意のいることでしたが、彼らはその屈辱に耐えて、将来の艱難に備えて必ずや宿志を遂げようと、決死の集団密航を実行することになりました。 ■ 旅立ち 吉田松陰が金子重輔とともに米艦乗込みを企て失敗したのは安政元年(1854)3月のこと。その9年後、5人の長州藩士の洋行がいよいよ現実のものになろうとしていました。5人は横浜太田町の「佐野茂」に村田蔵六と佐藤貞次郎を招いて、ひそかに別盃を酌み交わします。宴たけなわになると、伊藤俊輔が「我らこのたび洋行すること、長州のためのみに非ず、実に皇国のためなり」と声を上げ、一首の歌を詠みました。 丈夫(ますらを)の 恥を忍びて行く旅は 皇御国(すめらみくに)の為とこそ知れ 断髪に西洋帽と服を身に着けるのは夷狄に擬することで、まさに恥を忍んで行く旅だったのです。5月12日夜半、5人は英国船「チェルスウィック」号に乗り込み、石炭庫内に身を潜めて出航のときを待ちました。それより前、彼らは毛利登人、楢崎弥八郎、麻田公輔(周布)、桂小五郎に宛て書いた告別の書で、洋行にあたって多大の尽力と配慮をしてくれたことを生涯の厚恩として謝しています。また、準備金を遊興に使ってしまったことを恥じ、疑心もありましょうが、もうそんなことはしないのでご安心くださいとも記しています。 周布は佐藤に渡英への助力を請うたとき、将来の開国に備えて「人の器械」を求めたいのだ、と説明していますが、渡英する藩士たちも西洋文明・技術を身につけた「生きた器械」になって役立ちたいと固く決意して日本をあとにしました。 およそ5日後に上海に到着すると、5人は甲板に立って停泊所の周辺を見渡しました。軍艦、汽船、風帆船などが幾百隻も投錨し、ひっきりなしにジャンクが行き交い、四層、五層の壮麗な建物群が林立する景観を見て、彼らは驚いてしまいます。東アジアにおける国際貿易の拠点として、上海には外国の商社、金融会社、新聞社などが続々と進出してきており、想像以上の繁栄ぶりを目の当たりにして、井上は眼が覚めるような思いに捉われます。 外国の強大な海軍力を考えますと、攘夷など到底不可能です、と井上はさっそく周布に手紙を書きました。開国の方針をとらなければ、将来国を維持することはできないでしょう、という彼の手紙を読んで、周布は「わずかに上海に行っただけなのに、早くも従来の所信を一変したか」といって一笑しました。井上の進取の気象は西洋を見る前に敏感に反応したようです。 ■ 苦難の船旅 5人は上海で二組に分かれ、帆船に乗って渡英することになりました。野村、山尾、遠藤の3人は「ホワイトアッダー号」(500トン)に、井上と伊藤は「ペガサス号」(300トン)に乗り組むことになったのですが、ジャーデン・マセソン商会のケズィックに洋行の目的を聞かれます。5人は英語が話せないので、戸惑いながら井上が海軍学研究の意味で「ネイビー」と言うべきところを「ネビゲーション」と言ってしまいます。そのためケズィックは航海術の修業と思い込んで、親切心で帆船に実地訓練を依頼したのです。井上と伊藤の苦難の旅はこのようにはじまりました。 船中でふたりは水夫同様の扱いをうけ、水夫たちにさえ「ジャーニー」と蔑称で呼ばれてこき使われました。帆の揚げおろし、甲板の掃除、ポンプによる水のくみ出しなど、訓練ということでなんでもやらされました。伊藤が下痢症に罹ってしまったときには、水夫用のトイレなどありませんから船側の横木にまたがって用を足すのですが、風に煽られて海に落ちる危険がありました。それで井上が伊藤の身体を縄でしばって、その端を錨柱に結んで支えなければならなかったのです。また、どこの港にも立ち寄らなかったので、飲料水は雨水を集めて水桶に蓄え補充していました。食物も水夫用のビスケットと塩漬けの牛肉ぐらいで、さぼって寝ているとパンもくれず、帆綱をもってきて尻を殴られることも何度かありました。夜になるとふたりは甲板に並んですわり、祖国のことを語り合い、憂国の思いに涙したといいます。 9月下旬(新暦11月4日)、そんな旅もようやく終わろうとしていました。23日にペガサス号がロンドンドックに入港したときには、横浜を出港してしてから4ヶ月余が経過していました。苦しい航海から解放されて、井上と伊藤はさぞ安堵の息をついたことでしょう。 大都会ロンドンに初めて足を踏み入れたとき、その文明世界の様相にほとんど茫然自失した、と井上はのちに回想しています。 市街は高層の大きな建物がつらなり、汽車は諸方に快走し、工場からはもうもうと黒煙が上がっています。人々の往来は激しく、その活気と繁華な営みは眼もくらむほどで、ふたりはただただ驚き、興奮するばかりでした。当時のイギリスはヴィクトリア朝時代の最盛期にあたり、「鉄道の時代」であり、産業革命による近代化によって経済が発展し、社会が繁栄し、都市が大規模に整備されていた時代でした。このとき、井上の攘夷思想は完全に霧消し、西洋文明、科学技術を貪欲に吸収し日本も近代化しなければならない、と思いはじめたようです。 ■ 緊急帰国 ロンドンで5人の世話をしたのは、ユニヴァーシティカレッジの化学教授ウィリアムソン博士でした。ジャーデン・マセソン商会の紹介でしたが、博士の家が手狭であったため、井上と山尾はカレッジの向かい側のガワー街103番地のクーパー邸に寄宿することになりました。クーパー邸は以後、幕末維新期の日本人留学生の定宿となり、現在もそのままの姿で残されています。5人は昼間はカレッジに通い、朝晩はウィリアムソンやクーパーの家で英語や数学を勉強しました。そのうち授業の合間を利用して造船所、各種製造工場、造幣局、博物館、美術館などへ通い、学問や技術ばかりでなく、西洋文明の真髄なるものをも探ろうと努めました。 翌1864年(元治元年)1月ごろ、マセソンから重大な情報がはいってきました。前年に起った薩英戦争に関する情報でした。それまでにも井上たちは新聞で、長州が下関で外国船を砲撃したこと、江戸政府が長州を懲罰できなければ、被害を受けた各国が直接長州を征伐しなければならない、という記事を読んでいたので、井上はもういても立ってもいられなくなりました。彼は伊藤に相談して言います。 もし自分の国が滅びたら、どこでこれまでの学習の成果を応用できようか。まったく無益になる。ふたりで帰国して、攘夷をやめさせ尊王開国の方針をとらせるようにしようではないか。 井上はすでに藩を超えた国家意識に目覚めていました。伊藤も賛同したので、ふたりは他の3人に話をしました。すると野村、遠藤、山尾もいっしょに帰国すると言います。しかし、それでは後事を託すものがいなくなるので、井上は3人に「残って素志を貫徹してくれ」と告げたのです。こうして井上と伊藤が帰国することになったのですが、ウィリアムソン博士ら多くの人々は「殺されるかもしれないから、今は帰国しないほうがいい」と言ってふたりを止めました。井上は「一死はもとより覚悟のうえ」として断固帰国することに決め、元治元年3月中旬、ふたりはとうとう風帆船に乗ってロンドンを発しました。ふたりの帰国時には日本の政情は混乱し、長州藩はまさに存亡の危機を迎えていました。 *日本での井上、伊藤の活動に関しては「木戸孝允への旅47」以降をご参照ください。 |