<イギリスに密留学した長州藩の若者たち>

長州ファイブ
造幣の父・遠藤謹助


― 造幣事業の独立と技術の習得を目指して ―

遠藤謹助は天保7年(1836)に長門国萩城下に長州藩士の子として生まれましたが、幼少期についてはよくわかっていません。文久2年(1862)に長州藩がイギリスから購入した蒸気船ランスフィールド号を「壬戌丸」(じんじゅつまる)と改称して、江戸湾を航行したときに、当時、桜田藩邸にいた遠藤が、井上馨とともにこの船に乗り込んでいます。したがって、遠藤は海軍の重要性、時代の変化にはかなり敏感な若者だったことがわかります。この船舶売買の仲介役を務めたのが貿易商伊豆倉の番頭佐藤貞次郎で、彼はのちに遠藤ら長州藩士のイギリス密航に深くかかわることになる人物です。

■ イングランド銀行を見学して

文久3年(1863)5月12日、遠藤は、伊藤、井上(馨)、山尾、野村とともに決死の覚悟で日本をはなれ、はるか大海原をイギリスへと向かいました。1863年10月末(旧暦9月中旬)にイギリスに到着してからは、ロンドンで英語を学び、市内を見学してまわり、発達した西洋文明に触れて、毎日が驚きの連続だったことでしょう。じきにロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの聴講生となり、「分析化学」のほか、地質・鉱物に関する講義にも出席しました。
遠藤ら5人が日本人留学生としてイングランド銀行を見学したのは1864年1月のことでした。イギリスの中央銀行で紙幣が印刷される工程をみて、強い関心を抱いた遠藤は、造幣について、もっと深く学びたいと思うようになりました。近代国家における通貨政策の重要性を強く認識したのかもしれません。
1964年4月、長州藩の外国船砲撃に関するニュースを新聞で知った5人は驚き、藩の危機を救うために、伊藤と井上がイギリス滞在わずか半年足らずで帰国してしまいます。その後、1965年6月に19名の薩摩藩士がロンドンに到着しました。遠藤、山尾、野村の3人は薩摩藩留学生の宿泊先を訪ね、日本での敵対関係を超えて、しだいに親交を深めていきました。当時15歳だった薩人留学生・町田清蔵はのちに「遠藤さんはなかなかの好人物で、よく下宿を訪れ、とくに私のような子供に対しては可愛がってくれました」と語っています。

■ 帰国後の長州藩での活躍

1866年3月(旧暦1月中旬)、遠藤は山尾と野村をあとに残して、先に帰国することになりました。体調がよくなかった、あるいは成績が思わしくなかった、という話がありますが、理由ははっきりわかりません。しかし、帰国後の、地に足をつけた活躍ぶりをみると、2年5箇月にわたるイギリス滞在中に必要な知識はしっかり身につけていたのでしょう。4月の帰国時には、すでに長州藩と薩摩藩の間で薩長同盟が結ばれており、「幕長戦争」ま近の日本の情勢は風雲急を告げていました。
遠藤は英語力を買われて、桂小五郎のもと、外国との交渉役を命じられ、情報収集の役目も兼ねることになりました。6月から始まった幕府軍との戦い(四境戦争)は、長州藩優勢のうちに停戦となり、その後、イギリスとの交流を深めていきました。英軍艦4隻を率いて三田尻に入港したキング提督が藩主父子に謁見した際には、遠藤が井上馨とともに通訳として同席しています。
また、二人は英軍艦にも乗り込み、幕府から政権を朝廷に移すために、武力討幕も辞さない長州藩の覚悟と、攘夷ではなく、尊王“開国”の決意をキング提督に語ったのです。
その後、蒸気船の購入では、遠藤は長崎の貿易商グラバーを訪ねて、薩摩藩士として契約を交わし、さらに薩人五代才助の協力を得て、幕府寄りであったフランスに関する情報収集も行いました。長崎は幕府の直轄領であり、長州人は大っぴらに活動できなかったために、ここでは薩長同盟の効果が十分に発揮されたと言えましょう。
慶応4年(1868)1月から始まった幕府との「鳥羽伏見の戦い」をはじめとする一連の「戊辰戦争」では、薩長軍を主力とする新政府軍が勝利を収めて明治維新を迎え、近代化への道を急ピッチで進んでいくことになります。当時、税関業務や外交事務に携わる兵庫運上所司長(所長)を務めていた遠藤は、翌年(明治2年)8月には大蔵省の通商司に移りました。上司の大蔵大輔(次官)には大隈重信、大蔵少輔(副次官)には伊藤博文が就任しています。

■ 造幣局の創業と改革

幕末の日本の通貨については、財政難もあって質の悪い貨幣が流通し、信頼も損なわれていたのですが、新政府は各国からの苦情を受けて、慶応4年8月に造幣所の建設を決定しました。それまで1千種類以上(各藩発行の貨幣を含む)あった通貨を、金貨5種、貿易用の銀貨5種、銅貨3種の計13種類として、円形で造ることに定めました。
遠藤が造幣にかかわる仕事に就いたのは、明治3年(1870)11月になってからでした。造幣頭(局長)は井上馨で、遠藤は造幣権頭(副局長)に就任して、貨幣製造の準備が進められました。
ただし、造幣の設備はすべてイギリスが香港で使っていた中古品で、政府は6万両でこの機械を購入しました。機械だけでなく、技術者も必要だったので、同年2月にイギリス東洋銀行と雇用契約を結び、香港造幣局長だったイギリス人ウィリアム・キンドルが首長(工場長)として赴任してきました。このキンドルと対等に渡り合える人物として、井上が遠藤を造幣寮に招いたのです。

最初、造幣の基準は一円銀貨とされ、首長キンドルの指導の下に、遠藤が現場監督として銀貨の製造が開始されました。そのころ、銀行や貨幣制度の調査のために渡米していた伊藤から、「外国と同様に、金貨を基準にするべき」との意見書が届き、伊藤の意見が採用されることになりました。
明治4年(1871)2月には三条実美以下、34名の政府高官、外国公使らが出席して、大阪造幣寮(のちに造幣局)の創業式が盛大に行われました。5月には金貨1.5グラムを1円とし、通貨単位を円、銭、厘とする新貨条例も定められました。当時の職員数は事務職55人、職工157人、外国人8人の計220人で、外国人技術者が業務を監督し、キンドルがそのトップに座っていました。しかし、キンドルは癇癪持ちだったらしく、日本人に対して怒鳴ったり、横柄に振る舞うなどするので、職員の評判は悪かったようです。待遇の面でも、職員は月給5円前後、局長でも200〜300円だったのに対して、キンドルは1045円という桁外れの高給取りでした。当時の太政大臣でも月給800円でしたから、外国人技術者がいかに優遇されていたかがわかります。
遠藤もキンドルとは意見が合わず、度々衝突したので、明治7年7月にはついに辞職してしまいました。東京の大蔵省へ転勤となり、大阪を去ったのですが、造幣寮のことがその後も気になって仕方がありません。彼は8月に「造幣寮の大改革」と題した意見書を大蔵卿大隈重信に提出しました。それには、

・ お雇い外国人が不適当な場合には、ただちに解雇できるようにする
・ 貨幣製造高の千分の一をイギリスの東洋銀行に支払う、という条約を破棄する
・ 外国人は政府が直接雇い、今後は減らしてゆく
・ 造幣事業は外国と切り離し、国の独立した事業として行う

などの大胆な改革案が提示されていました。政府はこの意見書を審議のうえ採用し、翌明治8年1月にキンドルを含む外国人10人を解雇し、東洋銀行との契約も解消することになりました。そのころ、遠藤は大蔵省で大蔵大丞、税関局長、記録寮の記録頭を兼務し、多忙な日々を送っていましたが、明治14年11月に造幣局長に任じられ、再び造幣事業に携わることになったのです。それまでに日本人職員の技術は上がっており、外国人はマクラガンとガウランドの2名だけになっていました。

■ 日本人だけの造幣成功と「桜の通り抜け」

造幣の精度を高めるためには、さらなる技術の向上が必要でした。明治15年2月には有志が集まって造幣学の研究会が発足し、日本人の手だけで貨幣を造りたいという思いを抱いた遠藤が会長をつとめました。研究会では造幣学の定義や金銀の試金法(品質を確認する方法)など、技術的なことが議論され、他の会員も遠藤と同じ思いを共有していました。
明治22(1889)年1月までに、残っていた最後の外国人技術者2名が解雇され、造幣局はすべて日本人によって運営されることになりました。4月には5銭白銅貨(銅とニッケルの合金貨幣)が完成し、ついに日本人だけの手で初めての貨幣が造られたのです。その後、5種類の貨幣が製造されて、広く国内に出回るようになりました。
こうして造幣の基礎を創り上げ、通貨政策が安定し始めた明治26年(1993)6月、遠藤は造幣局を退官しました。密航による渡英から30年が過ぎていました。そのとき抱いた貨幣造りへの思いは、絶え間ない努力と研究によって実を結んだと言ってよいでしょう。イギリスで「長州ファイブ」と呼ばれ、苦楽を共にした5人の仲間たちは、帰国後に、それぞれが異なる分野で「生きた器械」となって貴重な役割を演じ、日本の近代国家としての歩みに大きな足跡を残しました。
伊藤、井上のように政治家として歴史の前面に出て活躍した者も、遠藤、野村、山尾のように主に産業技術の取得・発展に尽力し、地味な働きをつづけた者も、等しく激動の時代を生き抜いた「維新革命」の戦士だったと言えましょう。

明治26年(1893)年9月12日、遠藤は神戸の葺合村で病没。

なお、毎年4月、花見の季節になると、造幣局の傍を流れる大川(旧淀川)沿いは満開の桜で美しく彩られます。この桜並木を、
「局員だけの花見ではもったいない。大阪市民と一緒に楽しもうではないか」
と遠藤がこの道を開放することを提案し、明治16年4月に実現されました。現在もこの道の開放は続けられており、「桜の通り抜け」として知られていますが、その発案者として、桜並木の横に遠藤謹助の由来碑が建っています。

今日、日本の造幣技術は世界一を誇ると言われ、耐久性、模様の繊細さ、貨幣の質、どれをとってもトップレベルにあるのだそうです。それも、これも、遠藤をはじめとする、技術の向上を目指してきた人々の努力の賜物であり、こうした向上心あるかぎり、日本の未来は明るいと信じてよいのではないでしょうか。(「長州ファイブ」 おわり)

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主な参考文献:
「密航留学生たちの明治維新 井上馨と幕末藩士」 犬塚孝明著 日本放送出版協会発行
「密航留学生 『長州ファイブ』を追って」 宮地ゆう著 「萩ものがたり」 Vol. 6
「長州ファイブ」 (株)ザメディアジョン発行 山口県
「月刊 松下村塾 Vol.9 吉田松陰と伊藤博文 : 幕末の密留学 長州五傑」 (株)ザメディアジョン発行





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