<イギリスに密留学した長州藩の若者たち>
長州ファイブ |
工業の父・山尾庸三 |
山尾庸三は天保8年(1837)、周防国(現・山口市秋穂二島)に生まれました。幼名は富士太郎といい、父忠三郎は萩城下に住む長州藩士繁沢家の給領地(藩から与えられた土地)を管理する庄屋でした。7歳から寺小屋で読み書きを習い、13歳の時、忠三郎を厚く信頼していた繁沢家に奉公として迎え入れられ、その後も歴史、漢詩、書などを熱心に学んでいました。学問の志高い庸三が江戸に行く決意をしたのは20歳の夏で、江戸到着後、最初に訪ねたのが江戸三大道場のひとつ、練兵館でした。斎藤弥九郎が指導する練兵館には長州藩士桂小五郎がいて、塾頭を務めていました。庸三が入塾したことを喜んだ桂は、弟のように面倒を見て、維新以後も新政府の洋化政策で庸三が活躍する後ろ盾となりました。 文久元年(1861)には桂の周旋により幕船『亀田丸』(船長が弥九郎の弟だった)に乗りこみ、ロシア沿海を航行する貴重な体験をしています。(イギリス密航の経緯については、既述の「伊藤・井上馨」、「井上勝」の章を参考にしてください) ■ ロンドンからグラスゴーへ 1863年11月初旬(文久3年9月)、ロンドンに到着した山尾は井上馨とともにガワー街のクーパー家に下宿することになりました。ユニヴァーシティ・カレッジに聴講生として通い、ウィリアムソン博士が担当する分析化学のほか、土木工学を選択し、さらにイギリスの文化や日常の習慣も博士から学び、習得していきました。 山尾が造船技術を本格的に学びたいと思い、ロンドンからグラスゴーに移ったのは1866年秋のことで、その時に資金を援助してくれたのが薩摩藩の留学生たちでした(「留学生たちが育んだもうひとつの薩長同盟」を参照)。グラスゴーはスコットランドの工業都市で「産業革命」発祥の地であり、当時は造船都市として有名でした。下宿先は貿易商のブラウン家で、市内を流れるクライド川流域には造船所が30〜40もあって、1860年代には造船業の最盛期を迎えていました。山尾はそのひとつ、ネピア造船所で昼間は見習工として働き、夜はアンダーソンズ・カレッジで英語や科学を学んでいました。ネピア造船所ではエンジンから船体まですべてを造り、最先端のエンジン技術を持ち、ヨーロッパはもちろん、中国からも見習工を受け入れていました。 この造船所で、山尾は大工や鉄工、図面を引く職工たちの中に、指を動かして他者との意思疎通を行っている者たちがいることに気づきました。彼らは聾唖者で、巧みな手話により、健常者と変わらぬ能力を持って働いていたのです。初めて「手話」というものを知って、山尾は深く心を動かされました。言葉が話せず、耳が聞こえなくとも、手話を学べば立派な職人にもなれるし、独立した職業人として生活できる。彼は日本でも聾唖者の能力を引き出す教育が必要なことを痛感しました。 ■ 帰国後の活躍 明治元年(1868)、山尾は井上勝とともに5年半ぶりに帰国しました。木戸孝允を訪ねて旧交を温めたあと、山口に帰って、しばらくは藩の仕事に就いて、イギリスで学んだ知識と技術を藩士に教えていました。明治3(1870)年3月に新政府から呼び出されて上京し、海軍局で造船学を教えることになりました。その後、横須賀製鉄所に移りましたが、旧幕府がフランス人技術者に造らせたこの製鉄所は、当時は使われていなかったので、木戸がその再生事業に山尾を起用したのです。山尾はそこで船の建造や修理用のドックを造る事業を立ち上げました。 国の発展は工業を興すことから、という信念を持っていた山尾は、次には工部省の創設を訴えて意見書を提出しました。幸い、彼の意見が採用されて、明治3年(1871)に工部省が新設されると、工学、鉄道、灯台などの基盤づくりに尽力し、さらに長崎県が所有する製鉄所と造船所を国有化して、工部省の管轄下におき「長崎造船所」と改称しました。 しかし、工業を興すには、その知識を身につけた人材を確保しなければなりません。すなわち、工学教育が必要であり、そのための学校を創ることが急務であると感じた山尾は、それについても意見書を提出しました。そして明治5年1月に工学校の建設が開始され、同年12月に完工。山尾の計画は着実に実行されていきました。この学校は工部省の工学寮(のちの東京大学工学部)として明治6年10月に開校され、校長は山尾が通ったスコットランドのアンダーソン・カレッジからヘンリー・ダイヤーが来日して務めました。その他、8名のイギリス人教授や助手がグラスゴー大学、ロンドン大学などから招へいされ、最初の生徒は入学試験を受けて合格した40名でした。 明治9年には工部美術学校も開校しました。デザインも工業に付随する重要な要素だと山尾は考えていたのです。 彼は鉱山の視察にも各地へ出かけ、外国資本で運営されていた高島炭鉱(長崎県)の買収交渉も行いました。さらに鉄道、灯台の建設事業にも関わり、明治5年9月には新橋・横浜間の鉄道開業式に参加して、明治天皇を乗せた列車に野村とともに同乗。また、留学時代に世話になったネピア造船所に灯台巡視船を発注し、完成して「明治丸」(現在、重要文化財)と名付けられたこの船は、日本の海を駆け巡って活躍しました。 工学寮は学制改革で「工部大学校」と改称され、卒業生には鉄道技術者として活躍した南清(みなみきよし)、東京駅などの建築設計を手がけた辰野金吾などを輩出しています。山尾の印象については、卒業生が「質実剛健な好人物、一度近づけばよきおじさんで、政府の高官であることを忘れさせるほどだった」と語っています(当時、山尾は工部卿)。 イギリス人教師たちが任期を終えて帰国する際には、故郷スコットランドの民謡を合唱したと伝えられています。この曲が今日、卒業式で歌われる「蛍の光」です。同校の都検(校長)ヘンリー・ダイヤーは明治15年の帰国時に、「工部大学の成功は山尾の努力によるものだ」と褒め称えたといいます。 ■ 盲唖学校の創設 山尾はすでに明治4年に盲唖学校設立の意見書を提出していましたが、念願の盲聾学校「楽善会訓盲院」が開校したのは明治13(1880)年1月で、場所は東京の築地に建設されました。建設資金は山尾の要請を受けた木戸孝允の周旋により、皇室から手元金が出されたほか、一般からの寄付金も多く集まりました。木戸はすでに明治10年5月に病没しており、山尾は重病の木戸を訪ねて最後の面会をしています。山尾にとって、木戸は練兵館の塾生時代から今日まで世話になった大恩人で、遺言どおり彼を霊山墓地(京都)に埋葬して、仲間たちとともに最後の別れを告げました。 訓盲院は開校したものの、まだ盲唖者の教育に対する一般の意識が薄かった時代ですから、生徒集めは困難を極めました。 「盲に学問をさせて何になるのか」 と、疑問を投げかける親も多く、初年度の生徒はたった4人でした。翌年には24人と、生徒数は少しずつ増えていきましたが、通学する生徒の車代を山尾が負担することもあり、学校の運営は次第に厳しくなっていきました。この資金難を解決するため、山尾が文部省に働きかけた結果、明治18年に訓盲院は文部省の直轄となり、やがて大阪、石川、鹿児島などの他府県にも広がっていったのです。 ■ 官営から民営へ 工部卿として、山尾は油田開発にも着手し、手掘り作業から機械を導入して能率を上げ、いくつかの油田を採掘しました。こうして彼は新たな工業を次々と興していきましたが、官営工場は産業を興す手本として造られたので、採算は度外視されていました。したがって、赤字は年々増えてゆき、運営には多額の費用が費やされていました。そこで明治13年から工場の民営化が試みられ、ガラス工場、セメント工場、製紙工場、そして造船所も民間企業に払下げられていきました。このように民間企業に引き継がれた工業は、その後、利益を出そうとする企業の努力によって発展していったのです。 ■ 政治家としての業績 明治14年、工部省が新設の農商務省に吸収されたとき、山尾は役割を終えて、参事院(法律整備の機関)議官となり財務を担当しました。明治18(1885)年11月、第一次伊藤内閣の下、彼は宮中顧問官兼法制局長官に任命され、内閣の一員となりました。ともにイギリスに密留学した3人の若者はいま、伊藤博文(45)が初代総理大臣、井上馨(51)が外務大臣になって、同じ内閣で一緒に仕事をすることになったのです。この時、山尾は49歳になっています。 翌年、外国の都市に負けない中央官庁街を造る計画が立てられ、その責任者が井上から山尾に代わると、彼は長州藩の桜田藩邸跡地あたりに新道路を造り、東側に公園(日比谷公園)、西側に司法省、裁判所などの官庁をまとめて建設する官庁集中計画を提案しました。官庁街はこの計画どおりに建設されて、現在、霞が関官庁街となって残っています。 明治31年(1898)、山尾は61歳になり、すべての要職から退きました。日本の工業発展のために長年働いてきた身体をやすめ、しばらくは悠々自適に暮らしたのでしょうか。でも、彼は大正5年(1915)に日本聾唖協会を設立して総裁に就任しており、終生、聾唖教育の発展に力を尽くしたことがわかります。初めてグラスゴーで見た手話を日本の聾唖者にもたらし、全国に広げていった功績は大きかったと言えるでしょう。明治40年に盲学校と分離して下関に開校された県立聾学校は、のちに山口市に移転し、現在は高等部に普通科が設けれられており、卒業生の就職先も銀行、食品加工、印刷、自動車製造会社など幅広い分野にわたっています。 たった4名の生徒から始まった聾唖教育は、今では生徒たちが作家や美容師、デザイナーなど独立した事業者を目指すほどに充実し、多くの卒業生が社会で活躍するまでに至りました。山尾も草葉の陰でさぞ喜んでいることでしょう。 大正6(1917)年12月21日、東京の自宅で永眠。工業・聾盲唖教育の父・山尾庸三は81歳の長寿を全うしました。 |