斎藤弥九郎は寛政10年(1798)生れだから、天保4年(1833)生れの桂小五郎より35歳年上である。小五郎にとっては文字どおり「剣術の師」であると同時に「和平思想の父」でもあった。
弥九郎が開いた神道無念流の「練兵館」は北辰一刀流「玄武館」(千葉周作)、鏡新明智流「士学館」(桃井春蔵)とともに、江戸三大道場のひとつとして幕末期に隆盛した道場である。「剣を学ぶ者は、広く識見を持つべし」という練兵館の道場訓は、剣術ばかりでなく、政治的な議論の場をも門弟たちに提供した。 小五郎の入門は嘉永5年(1852)で、満19歳の時。長州藩からは他に5人の藩費留学生がおり、小五郎は私費で藩から特別に江戸遊学の許可を得てきていた。翌年には5人の藩費生を差し置いて、塾頭にまでなっている。後年の進歩的政治家、木戸孝允の非凡の才が最初は剣術にあらわれたというのは意外な気もする。だが、師の弥九郎は剣の才以外に、小五郎にはなにか特別な思い入れがあったようである。小五郎が練兵館にいた時期は嘉永5年から安政5年まで、足かけ7年にもおよんだ。弥九郎の尽力にもよったが、この長い江戸遊学を藩もよく許したものである。よほど小五郎の将来に期待をかけていたのだろう。 小五郎の外交感覚は他藩の者たちとの接触も多いこの時期に磨かれていった。弥九郎は出稽古によく小五郎を伴っていった。彼の実力はすでに知れ渡っていたから、請われて他藩邸にもよく剣技を教えにいった。師匠にとっては自慢の弟子だったのだろう。すでに父を亡くしていた小五郎は弥九郎を父親のように慕い、弥九郎も小五郎をわが子のように愛したようである。 神道無念流は実践型の剣法だったが、むやみに剣を振るうことを戒めていた。 ――武は戈(ほこ)を止むるの義なれば、少しも争心あるべからず。 ――兵は凶器といえば、其身一生用ゆることなきは大幸というべし。 これを用うるはやむことを得ざる時なり。 ――天下のために文武を用ゆるは治乱に備うる也。 その流旨は深く和平を志向するところにおかれ、修業者は剣術とともに学業にもいそしむことを強く求められた。小五郎が生涯をとおして一度も剣を抜いて人を殺したことがなかったのは、この教えを忠実に守った証といえよう。 |