2. 江川太郎左衛門と桂小五郎 − 国防への目覚め

嘉永六年(1853)はいわゆる「癸丑」(きちゅう)の年で、幕末史の大きな分岐点であったと言われている。6月3日、米国特命大使ペリー率いる四隻の黒船が浦賀沖に現れた。日本に内乱を引き起こす前触れであった。幕府がペリーから開国を迫られると、老中阿部正弘は朝廷に報告し、諸藩や幕吏に対しても意見の提出を求めた。外国からの開国要求はもはや幕府だけで対応できる問題ではなかったのだ。この事変が幕末の日本人を国家や国防意識に目覚めさせ、一部の下級藩士たちが尊攘志士に成長してゆくきっかけとなるのである。

幕府は諸藩に江戸湾の警備を命じ、桂小五郎も藩命によって大森海岸に出張した。その後、品川砲台の築造にあたったのが韮山代官の江川太郎左衛門(英龍)だった。江川は武蔵、相模、伊豆、駿河など海岸を多く含む土地の代官だったので、早くから海防に関心を寄せており、洋式軍艦の製造、海軍の創設、農兵の採用を海防策の骨子として構想していた。斎藤弥九郎はこの江川と旧知の間柄であった。この年、斎藤道場の塾頭に抜擢された小五郎は、弥九郎の紹介によって江川の従者となり、海岸線の測量について行った。台場建設の現場では、弥九郎の弁当持ちに化けて、人足姿で二人の師匠に従った。両師匠が茶店の座敷に入り、小五郎が土間にすわって待っていると、店の婆さんに、
「おまえさん、そんななりをしていなさるが、ただのお人じゃあないね」
と言われてあやしまれた。この婆さんはさらに小五郎に言う。
「お前さんは奴僕の群にあるべき人じゃあないよ。はやく相応しい仕事をみつけて、大いに青雲の志をたてしっかり励みなされたがいい」

もしかしたら江川も「この若者はどこか見どころがある」と、婆さんと同じ思いを勉強熱心な小五郎に抱いていたのかもしれない。やがて小五郎は江川の塾に通って洋式兵術を学ぶのである。長州藩士が幕府の代官に弟子入りして砲術を学ぶのは、ひとつの藩から日本という国全体の防衛に目覚めたからなのだろう。江川は1801年に生まれ1855年に亡くなるが、国防意識と洋式兵術の知識を小五郎に植えつけた最初の人物だった。その弟子がやがて勤皇志士となって幕府を倒すことになろうとは、そこまでは江川も予想し得なかったに違いない。


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