歴史の大変革期には必要な場所に必要な人物が図ったように排出するのは実に不思議である。いや、当然の現象なのかもしれない。700 年ものあいだ、武家政権に抑えつけられ、狭い京都御所内での生活を強いられてきた天皇家の復権をめざして、「王政復古の大号令」にまでこぎつけた歴史の立役者は、朝廷においては百の堂上公家よりも、一の岩倉具視である。岩倉は明治維新の一大革命劇には必須の人物であり、公家のなかでは特異な存在だった。 だが、それまで彼は和宮降嫁を裏で積極的に画策したことで、尊攘・反幕派から「姦物」視され、それが原因で一時は失脚、洛外追放処分にまでなっている。尊攘激派から命を狙われ、身を転々と移す生活が5年間続いたのである。だが、地下生活を強いられた年月にも、彼の朝権回復への熱意はいささかも衰えることはなかった。慶応元年に二人の宮廷関係者(松尾相永、藤井九成)が岩倉村に蟄居する彼を訪れたことを契機に、さまざまな反幕派志士との接触がはじまるのである。かつては岩倉を敵視した志士が、彼を頼って足繁く通ってくるようになるのだから、この一事だけでも尋常な人物でないことがわかる。公家との文通もはじまって、宮廷内の情報も得られるようになり、この間に「叢裡鳴虫」、「全国合同策」など多くの意見書も著している。 やがて彼は幕府の衰亡を予感すると、公武合体策をあっさりと捨て、薩摩と接近するようになる。最初は条約勅許に公然と反対し、次には和宮の徳川家降嫁を推進して幕府との宥和を図り、幕府がだめとみると、討幕派に加担する。その変わり身の早さにも驚くが、彼の目的はただひとつ、朝廷の復権であり、その実現のために現実的な選択をしたということなのだろう。時代の変化を確実に捉えてその潮流に乗る優れた才覚と、合理的な頭脳を持ち合わせていたわけで、けっして「姦物」と言うにはあたらない。公家にはめずらしい肝の据わった活動家でもあったのは、王政復古直後の小御所会議や、「明治6年政変」の征韓派に対する活躍からもはっきりみてとれる。 吉田松陰も言うとおり、「非常な時代」には「非常な手段」をもってしか国難を乗り切ることができないのなら、それを果敢にやり抜く非常、もしくは非情な人物もまた必要になる。大久保利通と岩倉具視の接近と結合は時代が要求した必然的な結果だったのかもしれない。語るべきことはまだたくさんあるが、そろそろテーマどおり木戸孝允を登場させなければならない。 正直に言って、この二人を中心に語ることはかなり難しい。既述したように岩倉は薩摩藩との関係が深く、二人のあいだにはどうしても大久保利通が介在するからだ。したがって、岩倉・大久保対木戸孝允として話を進めざるを得ない。岩倉は政治的には大久保の意を酌むことが多かったので、木戸がそのことに内心不満を抱いていたことは当然であっただろう。地位は岩倉よりも上にあった三条実美は長州に縁が深く、木戸とより親しかったが、力関係は誰が見ても岩倉・大久保組が三条・木戸組を凌駕していた。だが、岩倉は新政府の基盤を固めるためには、大久保と木戸の協力が必須であることも十分に理解していた。まだ新政府が発足して間がなく不安定な時期だったから、大久保と木戸が代表する薩摩と長州の協力は不可欠であった。この二人が共に上に立たなければ、政権自体が麻痺状態になることも、岩倉は身をもって経験している。それは明治2年のことである。 明治2年7月8日、官制改革が発表された。その人事だが、三条が右大臣、岩倉と徳大寺が大納言、そして参議は副島種臣(佐賀)と前原一誠(長州)の二名だった。大久保、木戸、板垣は待詔院学士に任命され、後藤象二郎(土佐)は免官となり、東京に留在を命じられた。待詔院学士とは宮中顧問官で、別になにも権限はない、いわば閑職である。「積年、国事に休む暇なく一所懸命働いてくれたので、その功労を慰めて、このたびは劇職を免じ、散官に任ずる」という趣旨の宣下を3人は麝香の間で受けた。木戸はこの新制度も人事も気に入らなかった。裏になにか策謀を感じたのだろう。 当時、大久保は保守的傾向が強く、木戸らが推し進めている急激な洋化政策が気に入らなかった。後藤は木戸と親しく、薩摩嫌いの山内容堂直系だったので、大久保には目障りだったのかもしれない。後藤以外に薩摩出身の五代友厚も免官となった。五代は海外留学の経験があり、伊藤、井上、大隈とも親しく、西洋かぶれの商売人とみられ、薩摩の武断派から憎まれていた。大久保は五代も木戸派に属するとみたのだろう。 こうしてみると、どうやらこの改革は大久保と岩倉が話し合い、三条をうまく説いて賛成させ、実行に移されたようである。この時期、新政府に対する信頼はまだ薄く、民衆には不安があり、保守層の非難も止むことがなかった。現代にいう「勝ち組」、「負け組」ではないが、勝ち組の筆頭とみられる大久保、木戸に対する嫉妬も相当にあり、「負け組」は虎視眈々として乱を望み、新政府を倒そうとする勢力が策謀を逞しくするという不穏な情勢だった。そのため大久保、木戸を一時閑職に移して不満の沸騰を鎮静させようという意図が、岩倉などにはあったのだろう。一方では木戸派の台頭を抑え、一方では在野の攻撃をかわすということで、良策と信じていたようだ。 ところが、岩倉の期待はまったく裏切られた。薩長の実力者二人が要職を去るというのは明らかに不自然で、かえって物議をかもし、世論は沸騰、政府内でも相互に疑惑し、政務は混乱してほとんど機能停止状態に陥ってしまったのである。 「木戸の一派がどんなに不平を鳴らしても、けっして動揺してはならない。今さら確定した政体を動かしては天下の笑いを招くから、どんな議論が起こっても絶対に不動を貫きとおしましょう」と大久保は威勢よく岩倉を激励したが、事態は大久保の思惑どおりには進まなかった。木戸が、 「待詔院学士というご沙汰をいただきましたが、文盲の私、いかに鉄面皮でも天下にたいして学士の名目をもって安んじることなど、とてもできません。漢土はどうか知りませんが、有名無実は日本においては省きたいものです」 と皮肉たっぷりに大久保への手紙に書き、「ついては、このたびの恩命を幸いに帰耕したいと思っています」という、辞職して帰郷する意思をほのめかすと、大久保は慌てた。さっそく岩倉と相談して、待詔院学士をすぐに待詔院出仕と改めて、なんとか木戸を東京にとどめる手立てを講じたのである。ところが、参議に任命された前原はこの不自然な状況を恐れたのか、病と称してまったく出仕しようとしなかった(前原はその保守的姿勢もあって、木戸とそりが合わなかった)。ただ一人の参議、副島は当惑しきって、大久保を訪ね、いろいろ苦情を述べたようである。 大橋慎三(土佐出身)という岩倉と親しい人物がいた。彼は新政府の実力者岩倉にも歯に衣着せぬ物言いをした。その大橋が新制度を批判する手紙を岩倉に書いてきた。 「長藩の人心を失って、悪名悪評をうけても、朝廷のためによろしいと思っておいでか。(中略)至尊を武蔵野の中へつれ捨てて、兄弟互いに不和を生ぜしめ、おのおの散乱退避して、ついに至尊を虎狼の餌にするごときは忠義と申すべきことでしょうか」 五代はすでに大阪へ発ち、後藤、板垣は帰国を願い出、容堂公は7月9日付で学校官知事を辞職していた。島津、西郷が引きこもっている鹿児島の情勢も不気味であり、さらに政府内でも保守派と革新派の抜き差しならぬ対立がある。まさに四面楚歌であり、ここに至って岩倉はついに決断する。大久保と木戸をそろって参議に就任させなければ、この苦境を脱することはもはや不可能だった。 「このような容易ならぬ形勢に立ちいたり、上は至尊に対し恐懼、下は天下の有志に向け慙愧に堪えません。とかく今日は両氏(木戸、大久保)枢要の地に立ち、奮発勉励されなければ無事にいたり難きことは勿論です」 と岩倉は三条宛の手紙で後悔の気持ちを表して、「大久保、木戸の両人を再び責任ある地位に立たせることが、世論の趨勢に答えることです。朝令暮改の罪は自分にあり、天下に謝罪しなければなりませんが、両氏とも再勤を仰せ付けられますようご英断のほどひとえにお願いいたします」 この間、わずか10日あまりで、大久保はついに参議に復するが、木戸は容易に首を縦にふらず、結局、参議には広沢(長州)が就任することになった。この政変劇は木戸に大久保・岩倉への不信感を植え付けてしまったようである。それ以後、岩倉は大久保・木戸の協力体制をいっそう重視して、木戸が政府から離れないように配慮し、尽力することになる。大久保もまた同様であった。同郷の西郷とは袂を分かっても、木戸の手を本人が死ぬまで放すことはなかった。岩倉と大久保はそれぞれ独立した強い個性と性格を備えていたが、政治上においては「合せ鏡」のようでもあった。その鏡の向こうに映る木戸に対しては、けっして鏡の外に出さないように最大の配慮をもって接した。もし彼の姿を見失えば、八方から非難が集中し、「合せ鏡」そのものが粉々に砕けてしまうことを恐れるかのように――。木戸孝允は二人の「合せ鏡」の守り神であったのかもしれない。とはいえ、岩倉・大久保の強力な結束と敵を恐れぬ姿勢が、維新政府の安定に寄与したことは認めなければならないだろう。 |