なんという一途さ、愛しむべき純情、そして誠実――中岡慎太郎は男である。快男子である。「十で神童、十五で才子、二十過ぎてはただの人」とはよく言われる。 だが、土佐国東部、北川郷の大庄屋の家に生れたこの神童は、長じてただの人にはならなかった。彼は動乱の時代にその血肉と英才を惜しみなく捧げた勤王志士、革命の児となったのである。尊攘・倒幕路線を一途に、わき目もふらず突っ走り、不幸にも維新直前に坂本龍馬とともに暗殺され、その激しく燃える命を瞬時のうちに散らした。 一流の志士たちと同様、彼の攘夷はその全き意味での攘夷ではなかった。皇国の守護、民族の独立を死守するための攘夷である。 「攘夷と云うは、皇国の私言にあらず。そのやむを得ざるに至っては、宇内(世界)各国、みなこれを行うものなり。アメリカかつて英国の属国なり。時にイギリス王、利を貪(むさぼる)る日々に多く、米民ますます苦しむ。因ってワシントンなる者、民の疾苦をうったえ、税利を減ぜん等の数箇条を乞う、英王許さず。ここに於いてワシントン米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖国攘夷を行う。これより英米連戦七年(1775〜1781)英国ついに勝たざるを知りて和を乞い、アメリカここにおいて英属を免れ独立し、十三地同盟合衆国と号し、強国となる」(時勢論) 慎太郎が脱藩したのは文久3年9月5日で、長州三田尻に走り、三条実美らに面会後、10月初旬にいったん帰国するが、武市半平太ら勤王党の投獄を知って再度脱藩。以後二度と故郷の地を踏むことなく、倒幕直前には陸援隊を創設して、長州の尊攘派と死ぬまで行動をともにするのである。龍馬は薩長同盟の準備段階まで尊攘派とは一定の距離をおいており、一時は佐幕派を利するような言動もみられた。幕臣勝海舟の弟子になったこともあろうが、龍馬にはまた、彼自身の大きな夢があったのだろう。 だが、慎太郎の選んだ進路は生死にかかわる危険に満ちた道程だった。彼は三田尻招賢閣(註)に入り、忠勇隊に属し、会議員にも推された。彼は京都に行き、高杉晋作らと島津久光(薩摩)の襲撃を計画するが失敗。だが同時に薩摩人に接触して、西郷隆盛の真意をさぐろうともしている。池田屋の事件後には、父と義兄に宛て遺書をしたため死を覚悟して「禁門の変」を戦い、その後の四国艦隊の攻撃でも下関に出陣、さらに、遊撃隊に属し高杉とともに決起して、藩内の俗論(幕府恭順)派を一掃した。 彼は大義のためには、自らの手を血で染めることを厭わなかった。逆に一命を奪われ、来るべき新時代の捨石となる覚悟もできていた。今日、内戦の苦しみもなく、切迫した侵略の危機にさらされる事もなく安全に暮しているなにもしない平和主義者(筆者を含む)が、その暴力性を批判することはできるはずもないのだ。 残念ながら、慎太郎と小五郎の交遊関係を詳しく伝える資料はないようである。ただ、彼の「時勢論」中の人物論で、西郷を評したあとに、「これに次いで胆あり識あり、思慮周密、廟堂の論に耐ゆる者は長州の桂小五郎」と述べている。そして、薩長連合の是非をめぐって、藩内で小五郎が窮地に立たされたときには、慎太郎は諸隊の薩摩憎しの感情を和らげようと、その説得に大汗を流している。疑惑をもたれ、悪口を言われながらも説得工作をつづけ、小五郎にも、 「僕が心事は先生(桂)が疑うが、諸隊が疑うが、府(長府)人が疑うが、また天下の人みな疑うが、死余求め無きの一廃生、すこしも憂うるところ御座無く候」 と手紙で述べ、さらに相手の頑迷さを問題にせず、自らの周旋の未熟さを責めている。吉田松陰の「至誠」を慎太郎もまた受継いでいるのだ。その後の薩長同盟成立の詳細は、ここで改めて述べるまでもないだろう。坂本龍馬が立会い、彼の尽力で西郷と木戸は手を握った。当時、薩長の和解、連合を夢見たのは、慎太郎や龍馬ばかりではなかったのだが、この困難な夢を実現させようと実際に行動したのが二人だった。ただ、その先鞭の功は明らかに慎太郎にある。 禁門の変後に五卿を他藩へ移すという幕府側からの条件を実行するにあたって、慎太郎は五卿の安全保護を考えて、薩摩の意向を聞く必要があった。慎太郎は寺石貫夫の変名で元治元年(1864)12月に備前小倉(福岡県)にわたり、西郷と会談している。この時期から彼は薩長の和解について考え始めたらしい。翌慶応元年からはその実現にむけて東奔西走し、土方楠左衛門(土佐郷士)も同じ目標に向けて共に行動する。4月30日には潜伏先の但馬から帰国した桂小五郎に下関で面会し、薩長連合はいよいよ現実味を帯びてくるのである。 だが、その後の下関での西郷・木戸会談(ここでは龍馬も同席)が流れるなど紆余曲折があり、慎太郎の薩長連合に向けての忍耐辛苦は続いてゆく。 「中岡は一銭の利もない仕事、ただ人の心を変えるために飛び回る。西郷にはうるさがられ、木戸には怒られ、諸隊の同志からは白い目で見られ、陰口をたたかれ、それでも中岡はひたむきに駆け回る。あいも変わらず損な役回りだけを引き受けている。だが彼は別にそれを『損』とは思っていないのだ。ただひたすら倒幕・連合のために献身するのである。この中岡の惨憺たる辛苦なしには薩長連合はなかったろう」(「中岡慎太郎と坂本龍馬」寺尾五郎著) 誠実で生一本な慎太郎は裏舞台でこつこつと努力を続け、陽気で奔放な龍馬は表舞台で大見得を切る。主役は龍馬に譲っても、慎太郎の残した革命志士としての足跡はけっして消えるものではない。彼がもし維新後も生きていれば、木戸、西郷、大久保とともに新政府を代表する存在になっていただろう。木戸の負担も少しばかりは軽くなっていたかもしれない。 昨今の、みそもくそも一緒にしたような幕末史観に筆者は与しない。 徳川独裁体制の反逆児、近代国家樹立の功労者、土佐のいごっそう、中岡慎太郎もまた日本が誇る維新革命の英傑なのである。 (註) 招賢閣 − 脱藩浪士たちを集めて寄宿させた長州藩の機関で、厳しい統制が敷かれ、八・一八政変後には真木和泉、宮部鼎蔵などが京都からここに移って指導的地位についた。 |