序 文
本ページでは小五郎の人物像について、さらに詳しい分析を試みようと思います。長州藩士・桂小五郎のリーダーシップについての研究はほとんどされていない、というよりも、ひとつの興味深い問題として注目されたことがないのですね。人物自体が地味ですから。
しかし長州藩は、吉田松陰をはじめ高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)など、自己主張の強い「お山の大将」的な人物がそろっています。悪く言えばわがまま勝手で、なかなか一筋縄ではいかない。そんな中で、桂小五郎という人物はどうでしょう。実におだやかで、冷静で、やさしげで、人を圧倒するような強い印象は受けません。しかし、現実は、この人物こそ過激派志士たちのリーダーだったのです。最初から最後まで彼は尊攘志士のリーダーであり続けました。しかも、長州藩の高級官僚でもあったのです。上役からも若い藩士からも認められ、常に一目置かれていたわけです。
吉田松陰も高杉晋作もなんどか脱藩の罪を犯しています。他藩でも、幕末に活躍した人物は脱藩した者が少なくありません。もちろんその藩の事情にもよりましたが、小五郎が最後まで藩にとどまって、維新回天の事業を成し遂げたのは、「組織の力」なくしては、目標の完遂は無理だとわかっていたからでしょう。長州藩をわが手に掌握し、その組織全体を動かした木戸孝允こと桂小五郎の手腕は見事というよりほかありません。そうした意味では、桂小五郎は「サラリーマンの鏡」であると同時に「指導者の鏡」でもあります。筆者が「小五郎に学べ」という所以がわかっていただけたでしょうか。
では、小五郎の指導力のどこが優れていたのでしょう。次回はいよいよ、その核心に触れていこうと思います。
桂小五郎 ・ リーダーの資質を探る
その1 ● キーワード ― 感受性+行動力
日本にとって、また小五郎の人生にとって大きな岐路は、やはり嘉永6年(1853)のペリー来航でしょう。4隻の不気味な黒い影が日本を威圧するように浦賀沖にうかぶ――鎖国か、開国か、誰もが考えはじめたときでした。小五郎自身もどうしたらよいのか、結論を出せずにいました。明らかに日本よりはるかに高度な文明を持っているらしい西欧の国は、いったいなぜ日本にやってきたのか。日本をどうしようというつもりなのか。
さて、こんな時、あなたならどう反応しますか。
@ 自分にはなんの力もないから、すべてを幕府に任せる。
A 自藩から命令があるのを待ち、それに従って行動する。
B なにか自分にできることを直ちに行う。
小五郎が取った態度はBでした。彼は日本人としての意識に目覚め、外敵にたいする防衛を自ら考えはじめたのです。品川の砲台建設の責任者となった幕府の代官江川太郎左衛門に頼み込んで、海岸線の測量についてまわり、のちには、江川に弟子入りして砲術を学ぶことになります。江川が江戸での剣術の師匠斎藤弥九郎の知人だったという幸運もありましたが、かなり大胆な行動だったと言わねばなりません。勤王の志士、桂小五郎の軌跡はこの時からはじまったとみることもできましょう。小五郎の敏感な感性が、一外様藩の遊学生の身にもかかわらず、かかる行動に走らしめ、のちには外国に対する幕府の姿勢を批判するまでに発展していくのです。桂小五郎は明らかに鋭い感受性を備えた「行動の人」とみることができましょう。
では、この時期に他藩の主な藩士たちはなにをしていたのでしょうか。
まず、薩摩の西郷隆盛(吉之助)は、嘉永4年(1851)に藩主となった島津斉彬に認められて、江戸屋敷庭方役になっています。斉彬に随って江戸に入ったのはペリーの浦賀来航の翌年、安政元年3月のことでした。日米和親条約はこの3日前に調印されています。
大久保利通(一蔵)はこの江戸行きの供の列には加わっていません。彼の父次右衛門が、いわゆる高崎崩れ(島津家の家督をめぐる騒動で、お由良騒動ともいう)に連座して沖永良部島に流されたまま、赦免されていなかったのです。利通自身の謹慎が解かれたのはこの9箇月前でしたが、まだ表立って活動できるような境遇ではありませんでした。次右衛門が赦免されたのは安政元年7月になってからです。この時期は大久保の雌伏の時代といえましょう。彼が中央の政界に登場するのは8年後の文久2年(1862)のことです。
土佐の坂本龍馬は嘉永6年3月に、剣術修業のため江戸に向けて故郷を発っています。この年、藩主の山内豊信(容堂)は吉田東洋を登用して、藩政改革に着手しようとしていました。龍馬は北辰一刀流の千葉道場に入門し、ペリー来航時には江戸にいたことになります。でも1年余り経った翌年6月には再び高知にもどっています。
嘉永6年における各人物の年齢は、桂が20歳、西郷が26歳、大久保が23歳、坂本が18歳でした(いずれも満年齢)。この中で小五郎だけが自分の意思で行動を起こせる立場にあり、実際、行動を起こしたわけです。西郷は藩主斉彬の命によって働いている状況であり、大久保は薩摩藩内にとどまっており、坂本は一時、佐久間象山の砲術塾に通っていましたが、この塾は翌安政元年4月に閉鎖されてしまいました(吉田松陰の密航未遂事件に連座して、象山が逮捕されたため)。
天保11年(1840)に中国で起きたアヘン戦争の情報が日本に伝わっていたにもかかわらず、徳川幕府はその後10年以上経っても大船建造の禁を解いておらず、洋式兵制の採用をも忌避していました。この後手、後手にまわった幕府の外国船への無策ぶりが、ペリー艦隊来航時の大混乱を招いてしまったともいえるでしょう。一般民衆に情報をまったく開示しないので、人々の不安をいっそう煽ることにもなりました。佐久間象山や吉田松陰が憤慨するのも無理はなかったのです。「幕府に任せていたら日本はたいへんなことになる」という危機意識が日本中に広がって、やがて水戸藩を中心に尊皇攘夷運動が燃え上がっていきます。
しかし、まだ当時は、松陰にも小五郎にも倒幕の意思はなく、幕府を改革して日本の防衛を固めることを必死に考えていたのです。小五郎の砲術、その後の造船術(中島三郎助に師事)の学習期間は、勤皇志士として成長する準備期間だったともいえます。黒船来航に小五郎はだれよりも敏感に反応し、いち早く行動を起こした希少な長州藩士でした。
その2 ● キーワード ― 果断
小五郎が江戸桜田邸の有備館用掛り(塾長)を命じられたのは安政6年(1859) 11月のことでした。有備館は江戸在府の藩士たちの文武修養の場で、天保12年に村田清風の建議によって桜田邸に設置されました。学科には経学、国学、兵学などがあり、講堂のほかに射圃、馬場、剣槍試合の場を設けていました。総奉行は一万石以上の毛利一門の者が就き、小五郎は万延元年(1860)4月には有備館舎長に任じられています。
当時、有備館には50〜60名が入塾しており、塾長は彼らと起臥飲食をともにして、その節義才気を練磨しましたが、小五郎が塾長になる以前から館則が乱れ、士風の退廃も生じていました。仮病を使って講義を欠席したり、吉原へ遊びにいって夜半まで帰ってこない者もいて、風紀が著しく乱れていたのです。外国船の往来や井伊大老の暗殺など、時勢が大変なときにこんなことでいいのか? 小五郎はこうした現状を深く憂慮し、入館生に固く訓示しました。
近来、塾中の規則が緩んで懈怠に流され、志ある者も惰弱になって無為に時を過ごしている。これでは初志も貫徹しがたく、誠に嘆かわしく遺憾なことである。ついては今春よりいっそう文武に励み、士道を心がけ、報国の志を立てるようにしたい。ましてや事件、問題の多い時節であり、一日も空しく過ごす理はない。よくよく考えてわきまえてほしい。もし違反すれば、即日退塾させることもある。稽古料が不足して難渋していると申し出る者もいるが、修業中の者が多少の不自由を我慢するのは当然のことであり、飲食衣服など十分に行き届かないことにも我慢が肝要である。
しかし、遊惰に流れる風潮はいっこうに改まりそうもありません。小五郎は意を決して規則違反者には断固たる措置を講じます。たとえ年長の者であろうと外出を禁じ、従わない者には大声をあげて叱りとばし、悪質な違反者には退塾を命じたのです。
藩政府もこうした紀律の弛緩を知りながら、厳しい措置をとり得ずにいたのを、新舎長がひとりでやったのですから、これに反発する塾生たちも出てきました。林秀二郎ら30人が結託して小五郎を排斥する運動を起こし、その訴状を藩政府に送って小五郎の罷免を請うたのです。小五郎もまた「弊害を是正し、厳粛な空気を道場に蘇らせなければ、士気はいよいよ衰微するのみです。英断の処置をお願いいたします」と自分の首をかけて、一歩も譲らない書を送りました。
当時、藩の要路にあった宍戸九郎兵衛は有備館の監督者である小五郎を罷免すれば、藩主の威厳を損ねることにもなると考えて、小五郎の排斥運動をしている者たち全員を帰国させて、新しい藩士を入塾させるべきであるという意見書を藩庁に提出しました。藩政府も捨て置きがたい問題として、これを当役の益田弾正から藩主に具申して、裁断を仰ぐことにしました。
小五郎はその返書を周布政之助をとおして受け取り、「時勢に鑑み、さらに節義才気の鍛錬に努めるように」という指図を受けました。小五郎の意見が支持されたのです。自らの進退をかけて毅然とした態度で臨んだことで、藩中枢部の信頼を克ち得たのでしょう。それ以降、有備館の柔弱な空気が刷新され、修学の士気が高まったことは言うまでもありません。こうして小五郎は苦境を脱し、有備館の改革に成功したのです。事に当たって果断であること――他者を心服させる特質を、一見温厚に見える小五郎は備えていたといえましょう。(<その3>につづく)
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