<小五郎に学べ!>


桂小五郎 ・ リーダーの資質を探る


その3 ● キーワード ― 信義+情宜

桂小五郎は信義に厚く、木戸孝允となってから昔に恩を受けた人には必ず報いています。また非常に情の深い人で、旧敵にも困窮した者には救いの手を差し伸べています。本当はそうした話一切を紹介したいのですが、それは無理なので、ここではその一部だけでも少しずつ紹介しようと思います。


 (1) 旧恩に報いる
 (2) 同志の遺児たちへの温情
 (3) 会津人を恨まず、救済に尽力する



(1) 旧恩に報いる

小五郎の恩師を挙げてみますと、まず西洋兵術の師、江川太郎左衛門がいます。小五郎は嘉永6年(1853)、ペリー来航の年に剣術の師・斎藤弥九郎の紹介で江川塾に入り西洋兵術を学んでおり、海岸線の測量や品川の台場建設にも特別にお供をして、いろいろと世話になっています。維新がなると、明治元年には江川の部下であった柏木総蔵という者を京都の権判事に推薦し、天皇の江戸行幸の際には東海道の地理に詳しい彼の知識を活かすため、供奉員のひとりに加えました。そして三島駅では江川の子、英武(ひでたけ)を呼んで、彼に箱根湖上の水鴨を銃で射落させて天皇を楽しませており、見事に命中したことで英武も「那須与一のような気持ちを味わった」と言って感激しています。また(桂あらため)木戸は彼の妹清子(のち英子)を養女にして、明治4年に河瀬真孝(長州人で当時、侍従長)に嫁がせました。河瀬によると、彼女は木戸を「お父様」と呼んでいたそうです。さらに明治4年、岩倉使節団の米欧視察の際には、木戸が斡旋して英武を留学生として同行させています。
このように木戸は江川の子供たちに対して幾重にも旧恩に報いていますが、礼儀も正しかったのです。明治元年に木戸が江川宅を訪れたときには、16歳の英武に対して式台で手をついて挨拶をしたそうです。子の彼を亡師とみて、師弟の関係を示したことに、英武は非常な感銘を受けたようです。

次に木戸が師事した人物は中島三郎助でした。安政元年、洋式兵術に加えて、海軍の整備が重要であると思った小五郎は、下田奉行の与力中島三郎助に師事して造船術を学びました。明治元年、戊辰戦争が起こって、中島が幕軍に従って戦うことを木戸は憂慮し、帰順を説得するため彼の行方を捜しましたが、すでに函館に去ったあとでした。その後、木戸は中島が二子(常太郎、房太郎)と共に戦死したことを聞いて痛く悼惜したのです。彼は中島の妻女と対面して慰安し、人にその世話を托しました。のちには娘のお六(14歳)を養女にして引き取り、その成長を待ち、良縁を求めて嫁がせるつもりでした。しかし明治10年に木戸が永眠したので、その後榎本武揚の世話で、お六は田中乾三に嫁ぎました。

また、萩時代の剣術の師に内藤作兵衛(柳生心陰流)という人がいました。当時小五郎は14歳で、内藤は「桂、桂」といって大変可愛がったようです。維新後、明治9年に内藤が上京した際に、木戸を会主とし、深川の料理屋で旧門弟たちが恩師を饗応することになりました。当時、木戸は内閣顧問を務めていましたが、専用の馬車に自分は乗らないで内藤を乗せ、他の1名に陪乗させ、自らは徒歩でお供をしたのです。内藤は馬車に乗ることも意外で、木戸の厚意を大変喜んだそうです。
その後、内藤は萩の乱で兵隊に狙撃され亡くなってしまうのですが、木戸は自ら会主となり、牛込の寺で恩師を追悼し、他の門人たちと燈籠を寄付しました。内藤ばかりでなく、世話になった先輩の高弟が葬られた寺の墓にも「木戸孝允」と刻んだ燈籠を寄付しています。「このように木戸は人の生前のみならず、死後にも手厚くされていた」と彼の後輩は語っています。
その他の話になりますが、木戸は世田谷にある松陰神社の鳥居を建て、京都霊山にある久坂玄瑞、来島又兵衛ら4人の墓の題字、坂本龍馬、中岡慎太郎の墓の題字も木戸の筆跡で、天皇の東北巡幸の際には戊辰戦士の墓にも詣でて、岩倉具視と共に燈籠一基を寄付しています。

木戸が塾頭まで務めた練兵館の恩師斎藤弥九郎(篤信斎)とは嘉永5年〜安政5年までおよそ6年間、父子の情に違わぬ交わりをつづけ、固い信頼の絆で結ばれました。明治元年には上野の山にこもる彰義隊から弥九郎に使者がきて、指導を請われたのですが、彼はこれを固辞して受けず尊王の大義を貫いたのです。その後、弥九郎は木戸と再会し、木戸の推薦により会計官権判事に任ぜられました。明治4年に亡くなり、同40年に従四位を贈られています。

以上のように木戸は旧恩をけっして忘れず、その子にまでも師弟の礼を尽くす一方で、勤王の同志に対しても信義を重んじる人でした。

(2) 同志の遺児たちへの温情

明治8年5月、木戸の友人・笠原半九郎が川辺元定という若者を伴って訪ねてきました。元定の亡父は佐治右衛門(変名・内田万之助)という水戸浪士で、文久2年1月15日、老中安藤信正の襲撃(坂下門外の変)に遅れて同志との約束を果たせず、その後長州藩邸に桂小五郎を訪ねて有備館で自決した人物です(詳細は「木戸孝允への旅22 − ある水戸浪士の死」を参照)。彼が小五郎を訪ねたのは、「成破の盟」を結んだ相手であることを知っていたからで、事件との関与を疑われた小五郎は奉行所から呼び出されてしまいます。川辺は盟約により後事を託した小五郎を護らなければいけないのに、かえって窮地に陥れてしまったのです。幸い当時、幕閣と親しかった直目付・長井雅楽の尽力によって小五郎は虎口を脱することができましたが、川辺は安藤に対する斬奸趣意書を小五郎に托していました。自分の身の安全を考えれば、普通ならこの趣意書を手元で握りつぶすこともできたでしょう。でも小五郎はそうしませんでした。「木戸孝允への旅23」から引用しますと「自由の身となった小五郎は、川辺から受け取った斬奸状の写しを同志たちの間にばらまき、これが次々に書き写されて巷間に広まっていきました。一時は自分の身さえ危なかったのですが、小五郎は水戸尊攘派との『成破の盟約』をしっかりと守ったのです」
そして明治の世になって、木戸は川辺の遺児元定をも自宅にひきとり世話をしました。ところがこの人物は酒におぼれ、品行も良くなく、西南の役がはじまると、西郷隆盛の首級を獲りたいから九州へ行かせてくれという手紙をなん度も送って、京都にいる木戸を困らせました。半九郎と山尾庸三が元定を訓戒してなんとか思いとどまらせたのですが、そんな困った人物でも、「本人も落ち着いて、すこしでも君父に報いるよう心掛けたいと反省しているようですから」と庸三に手紙を書いて、実父のように両人の厚意を謝しています。木戸の人の良さ、温情の篤さはこれにもよく顕れているでしょう。

川辺の遺児ばかりでなく、維新前に亡くなった同郷の先輩、同志の遺児たちに対しても私費を投じて援助し、いろいろ面倒をみています。たとえば、自決した周布政之助の息子公平(金槌)は明治元年9月に木戸と面会しました。木戸は公平に50金を与えて神戸で勉強できるよう、当時兵庫県知事だった伊藤博文に手紙で彼の世話を頼んでいます。その後公平は東京に移って横浜に開校された陸軍幼年学校に入校、明治4年2月には木戸の周旋により馬屋原次郎、河野光太郎らとともに海外に留学、帰国してからも木戸の尽力によって司法省に勤務しています。
また高杉晋作、山田宇右衛門、大和国之助の遺児(それぞれ梅太郎、熊太郎、七之丞)らが郷里で婦人の手で育てられているのを、時勢に遅れてはいけないとして明治4年、帰郷した際に家族や藩政府の許可を得て子供たちを東京に連れて行き、あれこれと就学の世話をしています。また大村益次郎の子松次郎に対しても、亡父の遺志を継がせようと八方周旋して官費生での英国留学を実現させています。ほかにも捨て子を拾って育てたり、桂太郎、青木周蔵ら書生を自邸に寄宿させ、常に若い者たちの面倒をみていました。こうした世話好きもリーダーにふさわしい資質に数えられるでしょう。

(3) 会津人を恨まず、救済に尽力する

木戸は旧敵に対しても恨みをのこさず、戊辰戦争終了後はみな皇国の民だとして、困窮する会津人の救済に尽力しています。
会津人で旧斗南藩の日下義雄は明治4年1月26日に木戸の知人をとおして初めて木戸孝允に面会し、その身上を託しています。彼は岩倉使節団にも随行し2年間米国に留学しました。帰国後にも木戸邸を訪れて近況を報告しています。そんな日下の話を一部ですがここに紹介いたします。

「私は会津人の馬島瑞園の所有である木戸公の書簡を見て、公が明治初年の考慮の広大であったことに驚嘆したのである。その書簡の趣意は、旧会津藩は一旦朝敵になったに相違はない、それは維新草創の際であって、すでに大赦の恩典に浴したので、やはり一視同仁の国民である。もと28万石の大名が、わずかに3万石に減少されることは、誠に気の毒で、北海道に相当の土地を与えて、できる限りの便宜を尽くし、旧斗南藩の人士が生活に困難しないようにすべきとの意見である。政治の意見が齟齬したために、敵味方に分かれたのは詮方がないが、大敵になって一視同仁の大御心に浴すべきことは会津人士にもわかっている。しかし世間の人々には、反対に思うものがあるので、私は常にこれを甚だ残念としている。此の公の書簡は大切なものであって、世間の人々に広く知らしたいと思うのである」 (旧かな、旧字は直しています)

また、会津の武井完平や小出鉄之助も木戸を訪ねて、旧藩の窮状を訴えており、木戸も看過しがたく、同僚にも諮らずに、密かに議定正親町実愛や東久世通禧に事情を話して、金一千両を与えています。(当時の一千両はけっして小額ではありません)

木戸が明治7年に大久保と意見を異にして(台湾出兵問題)郷里の萩に帰ったときにも、会津人(石川安二郎)がはるばる訪ねてきて、木戸に窮状を訴え助力を請うています。しかし、木戸はすでに参議を辞し、引退を考えていたので相手の請いに応えることができません。個人的にも郷里で窮迫した士族や脱退兵の残党の救済に奔走するのが精一杯だったのです。木戸が帰郷したとなれば、誰しもが彼を頼ってきますから、その対応に追われていたのですが、石川はなおも歎願するので、木戸はその斡旋を伊藤に託す手紙を書き、金を添えて石川に渡してあげました。

木戸は会津人であろうと、誰であろうと、助力を請われれば断ることができず、いつも一所懸命に対処しようとするのですね。同情心が人一倍厚いためでもありましょうが、かつて自分を苦しめたり、敵対した者に対しても、相手が窮地に陥った際にはなんとか救おうとしています。江藤新平もそうでしたし、前原一誠に対してもけっして排斥せず、最後まで道を誤らないように気を配っていました。また、徳川慶喜についても最初から寛典を主張していましたし、明治4年には旧幕府と新政府と、隠然二派が国内に存するのは対外的にも良くないとして、慶喜の外務大輔または少輔への登用を岩倉具視に進言しています。
なんでも物事を平和的に解決しようとする木戸の姿勢は、彼の人生をとおして貫かれていたように思われます。幕末期も桂小五郎はけっして人を斬らない一流の剣客であり、常に暴力的な手段を回避しようとしていたことは知る人ぞ知る事実でありましょう。尊攘派のリーダーがそうした人物であったことは、実に不思議であり、驚嘆すべきことと言えるかもしれません。


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