■ 幕末・維新関連記事2 ■
2007年3月21日 ○ 武田耕雲斎夫人と子供たちの悲劇 |
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最近は佐幕派の悲劇ばかりが強調されて、維新前に散っていった尊攘派の悲惨な最期についてはほとんど語られないし、歴史ドラマで取り上げられることもないように思います。有名作家の小説や、人気コミック、アニメの影響はつくづくすごいと思うけれど、新選組や会津白虎隊の陰に、忘れられた尊攘志士や浪士たち、彼らの家族をおそったたくさんの悲劇があったことを、テレビ界、出版界も時々は思い出してやれないでしょうか。今では同情も称賛もされることもなく、天誅など負の面をことさら強調される志士たちがあまりに可哀そうで、せめて筆者だけでもそうした話を伝えようという気持ちで、このテーマ「斬首された水戸の尊攘派武田耕雲斎の夫人とその家族」の話を選びました。 尊皇攘夷思想の本家ともいうべき水戸藩は、親藩でありながら徳川幕府と対立して天狗党の悲劇を生み、その後水戸藩主の子であった慶喜(一橋家養子)が最後の将軍となり、藩内の佐幕派と尊攘派が明治維新まで熾烈な抗争をくり広げるという数奇な運命に翻弄されました。元治元年(1864)3月に藤田小四郎をリーダーとする天狗党による筑波山挙兵が水戸尊攘派とその家族の悲劇のドラマの始まりとなりました。しかし詳しい話はすでに弊館で紹介していますので、ここでは省略させていただきます(「木戸孝允への旅」、「人物紹介」などを参考にしてください)。 武田耕雲斎は藤田小四郎と行動をともにし、一橋慶喜を頼って朝廷に尊皇攘夷の大義を訴えるべく京都を目ざしますが、その途上で慶喜が天狗党の追討を命じたことを知って絶望し、加賀藩に投降します。幕府側の投降者への処罰は過酷をきわめ、耕雲斎をふくめ約400人が斬罪に処せられました。武田家は屋敷を没収され、家族は捕われて赤沼の獄に入れられました。耕雲斎の夫人はとき(人見氏の娘で、もとの名はのぶ)と言い後妻でしたが、大変夫婦仲がよかったのはときが残した「うたたねの 夢ともわかず契りしを さめてぞしたふ 夜半の手枕」という歌からもうかがい知ることができます。 ときは獄舎のなかでも子供たちの教育を熱心にしていました。娘のとしには裁縫を教えたのですが、針がないので代わりに松葉を使用したようです。耕雲斎が敦賀で斬殺されたのが元治2年2月4日。同年3月24日には家族が処刑され、ときは塩漬けにされた夫の首を無理やり抱かせられて斬首されました。享年40歳。辞世の歌は、 かねて身は なきと思へど山吹の 花に匂うて散るぞ悲しき 夫人の無念の想いが伝わってくるようです。耕雲斎には七男四女がありましたが、四男は夭逝し、敦賀から救出された五男以外の男子は全員死罪となり、長男の妻と子も斬首されました。六男で10歳の桃丸は「痛くないように斬れ」と太刀取りの役人を一喝して、立派に死んだといいます。でも末っ子の金吾はまだ3歳で、母親にとりすがって泣きました。さすがに首切り役がとまどっていると、「俺が料理してやる」と立合いの町与力が金吾をひったくり、膝に組しいて短刀で刺し殺してしまいました。その後、ときと子供らの首は吉田の原にさらし首にされました。 なお、四女のよし子は永牢に処せられ、明治元年に赦免となり出獄しましたが、すでに下肢はなえて歩けなくなっていたそうです。 天狗党とその家族の処刑に対する幕府や佐幕派への激しい批判はちまたに満ちました。尊攘志士たちの憤激はすさまじく、この大量虐殺が倒幕運動を激化させる結果となったのです。 |
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2005年12月 ○ 船中八策と横井小楠、そして小五郎 |
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幕末の歴史ドラマで横井小楠が大きく取り上げられることはない。他の志士たちに比べて歳をとっており、風采があがらず、女性との華やかなロマンスもないからか。福井藩主松平春嶽(慶永)から賓師の礼をもって招かれ、熊本から福井に移った時にはすでに50歳だった。それ以前から横井の思想家としての名声は高く、他藩から門人となる者もいたのだが、藩政を批判する横井は肥後藩では冷遇されていた。 坂本龍馬が初めて横井と逢ったのは、脱藩後まもない文久2年初夏であったらしい。紹介者は高杉晋作とも、松平春嶽とも言われているが、はっきりしない。また、勝海舟の紹介者は横井、春嶽、千葉重太郎、あるいは土佐勤王党の藩士など諸説ある。いずれにしても龍馬は勝と逢って、心服し、弟子となる。小楠もまた同じころ、政事総裁職となった春嶽の政治顧問として中央政界で活躍しはじめる。小楠は幕府の側御用取次(将軍の首席秘書官)大久保一翁(忠寛)と対面して、「幕府の私を廃す」という論で次の三策を提案する。 一、参勤交代の廃止 二、大名の妻子を江戸に住まわせる人質制度の廃止 三、大名の固場を免じる 小楠の説得が効を奏して、この提案はやがて実現する。この時から小楠を思想的な軸として海舟、春嶽、一翁の4人の連携がなり、脱藩浪士として自由に動きまわれる龍馬が彼ら(直接的には海舟)の手足となって働くのである。 前置きが長くなったが、龍馬が慶応三年に後藤象二郎に示した有名な船中八策の内容をここに記してみる。 一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべきこと。 二、上下議政所を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべきこと。 三、有材の公卿、諸侯、及び天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべきこと。 四、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべきこと。 五、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を選定すべきこと。 六、海軍宜しく拡張すべきこと。 七、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべきこと。 八、金銀物資宜しく外国と平均の法を設くべきこと。 一の大政奉還については、文久二年に大久保一翁が主張し、春嶽も「開国を主張するなら、内戦の誘発を避けるため、大政を奉還する必要がある」とすでに慶喜に述べている。小楠も同意見であることは明らかで、龍馬はこの3人の思想を忠実に引き継いでいるのである。あとの政策についても、一介の土佐郷士にすぎず、勤王党の仲間から「人物なれども書物を読まぬ」と評された龍馬の着想というよりは、ほとんどが上記の四人組と小楠を師とあおぐ福井藩の三岡八郎(由利公正)が論議していた政策をまとめたものといえる。そして、それらは小楠がやはり文久二年に幕府に提出した「国是七条」を基本としている。この七条に基づいて小楠が春嶽に建言したことに 「議事院建てられ候筋は尤も至当なり。上院は公武御一席、下院は広く天下の人材ご挙用、云々」とあり、八策の二と三に反映された意見とわかる。また、七条に「海軍を興し、兵威を強くせよ」とあるが、八策の六とほぼ同一である。こうしてみてくると、龍馬の船中八策に明示される思想の源流が小楠にあることがわかる。 しかし、だからといって小楠の思想のみが幕末の志士たちの座標軸だったとは筆者は思わない。桂小五郎にしても小楠に逢う以前から、斎藤道場に出入する西洋の事情に明るい江川太郎左衛門(伊豆韮山代官)、高島秋帆、それに師匠の斎藤弥九郎などから様々な知識を得ていただろう。また、松平春嶽の言うことがすべて小楠の受売りだったとも思わない。 村松剛氏が「醒めた炎」のなかで興味深いことを指摘している。以下、同書から引用する。 このころの春嶽は国内結束のために上院下院の設置を、ひそかに考えていた。(略)『天下公共の論を議してこれを用いるには、巴力門(パーラメント)、高門士(コモンズ)すなわち上院下院の擧なくてはあるべからず』 議会制度の存在は比較的はやくから、一部の識者には知られていた。たとえば文政十年に幕府がオランダ語から翻訳、刊行させた『興地誌畧』では、イギリスの上下院はそれぞれ「把爾列孟多」「昆蒙斯」として紹介されている。春嶽の場合は上下両院に関する知識を、長州藩を通じて得たと判断していいように思う。長州藩はイギリスの宣教師ミュアヘッドが書いた『英国志』八巻の漢訳本を、青木周弼、山縣半蔵、手塚律蔵に命じて訓点をほどこさせたうえで、文久元年に刊行した。 パーラメントとコモンズを春嶽のように「巴力門」、「高門士」と表記している著作は、右の長門温知社版「英国志」以外は見当たらない。(略)春嶽が謹慎を解かれた直後から福井藩邸にもっとも足繁く通っていた長州藩士は小五郎であって、『英国志』とその議会制度についての情報も、彼がもって行った公算が大きい。 春嶽も徳川親藩の変り者である。だからこそ肥後藩の変り者横井小楠を招くと共に、自ら西洋事情について学んでもいたのだ。そして小五郎も翻訳書から西洋に関する知識をそうとう得ていたものと想像できる。長州藩の攘夷思想が文字どおり単純なものではなく、春嶽らの開国論とも相通ずるものがあることを、小五郎との対話を通じて春嶽自身は気づいただろう。小楠の唱える「共和政治」「私を廃して公共の政をなす」という思想は、天皇を中心に天下の政治を行うという小五郎らの尊王攘夷論と最終的には一致する。ただ小楠は学識があり、その思想を具体的な言葉や文字で表すことに長けていたのに比べて、長州藩は行動が先立っていたということなのだろう。あとは私的な機関である徳川幕府を大政奉還によって消滅させるか、武力倒幕によって破壊するかの問題である。だが大政奉還で幕府が必ず消滅するという保証はない。西郷や大久保、小五郎ら倒幕派はそれをよく知っていた。まして「家康の再来ではないか?」と小五郎がおそれた慶喜が相手では。 龍馬ははたしてどうだったのか。幕府の消滅を望んだのか、それとも幕府の一部組織の温存を考えていたのか――暗殺された後ではもはや知るすべもない。 |
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