■ 幕末・維新関連記事 ■

No.2
  1. 長州人の山の神 2005  
  2. 幕末のとんでる女 2005
  3. 岡田以蔵のこと 05.8.28
  4. ちょっとおかしな話 04.3.15


2005年後期

 長州人の山の神

吉田松陰が好んで交わった長州人に白井小助という人物がいた。 松陰より五歳年上だったが、陪臣の出で身分は低かった。しかし松陰と同じ時期に江戸に遊学しており、ともに烏山新三郎の営む塾に通っていたので、他藩の共通の友人もでき、二人の交誼は深まった。白井は好奇心が強く勉強熱心だったが、移り気なところがあってどの学問も究めるには至らなかったようだ。 明治維新になって、この白井小助を長州出身の大官たちはずいぶんとおそれたらしい。おそれたというよりも、難渋した、というべきか――戊辰戦争でもかなり活躍したようだが、指揮能力に欠け、十二歳も年下の山縣有朋に指揮権を握られてしまった。小助はだんだんとすね者の体を示しはじめ、口舌はつねに毒をふくみ、人の意表をつく行動をとるので軍人や行政官にはとてもむかなかった。自分より後輩の者がどんどん高位高官に昇っていくので、小助はますます「すね者」になってしまった。
明治になってからの小助の楽しみは、東京で大邸宅を構え、侍者に御前と呼ばせ、爵位をもっておのれの身分を飾っている要人どもをからかいにゆくことであった。この小助の襲撃に難渋したのは、伊藤博文、山縣有朋、井上馨、品川弥二郎らである。
「何某、酒を飲ませい」といって、いきなり入ってゆく。女中や書生が玄関に走り出ると、主人はどうした、とどなる。主人が奥から飛んで出てくると、小助は手をとって上にあげないかぎりあがらず、放っておくと何を喋りだすかわからない。座敷ではもちろん上座にすわる。
明治二十年代のある夜、小助は山縣の屋敷へ行った。彼は山縣の威厳に満ちたしかつめらしい面構えが大嫌いで、これをひっぺがすことに無上の快をおぼえていた。門前で「伯爵閣下はいるか」と連呼する酔漢を最初、警備の警官は取り押さえようとしたが、どうもただ者ではないと感じてこの酔漢を玄関まで案内した。「狂介、在宅か」というどなり声に、奥から山縣があわてて出てきた。山縣が抱えるようにして書院へ通すと、小助はそのまま崩れ、大いびきをかいて眠ってしまった。1時間ばかり眠ったあと、「狂介、狂介来い」と叫んだ。山縣は礼を失せぬように袴をつけて、小助の前に手をつき、
「なんなりとお言いつけください」といった。
「寅次郎(松陰)に恥かしくないか、こんな宮殿のような屋敷に住んで」
と小助は山縣を罵倒し、酒をもって出てきた山縣の妻おともに
「台所に樽はあるか」というと、夫婦をいっしょに台所まで連れていき、四斗樽を開けさせると、いきなりおともを抱き上げて樽の中に沈めてしまった。伯爵夫人を漬ければどういう味がするか、と小助はヒシャクをあげて酒を汲んだ。おともは驚いて逃げてしまったのだが、山縣は「衣装を変えて出てくるように」と命じたのである。
この山縣の従順さはどうだろう。たしかに小助は松陰と旧知の仲であり、松陰が江戸で獄中にあったとき、自分の着物も大小も売って金品をこしらえ、松陰のために差し入れしているほどで、そのために彼は藩から謹慎の刑に処せられている。松陰を師匠と仰ぐ山縣だが、小助には別に個人的な恩義を受けたか、なにか弱みを握られていたのかもしれない。さすがの山縣も妻に対する仕打ちにはまいってしまい、小助にすこし性格が似ている三浦梧郎に「白井先生になんとかお手柔らかに願えるよう頼んで貰えまいか」と頼んだ。しかし、この三浦も逆に小助にやり込められている。
小助の襲来は一種の神事だと長州人は思っているようだった。年に一度山から降りて荒れ狂うのを、里の人々が酒や犠牲(にえ)をそなえ、機嫌をとってなだめようとするのに似ていた。その神が暴風雨のように吹き荒れるのを、ひたすら堪えて、過ぎ去るのをじっと待つのである。小助は出世した長州人たちが共同で背負い込んでいる山の神であった。
明治三十三年、故郷の自宅で私塾を開いていた小助に「従五位ニ叙セラル」という宮内省からの知らせが届いた。「馬鹿者どもが、わしをそうまでしてなだめようとしておる」とすでに老いた小助は、ただ苦笑するばかりだった。その二年後に彼は七十七歳で没した。山縣や伊藤はおそらく安堵したに違いない。
(司馬遼太郎著「長州人の山の神」より)




2005年後期

 幕末のとんでる女

名前は只野真葛(ただのまくず)、本名は綾子。宝暦十三年(1763)、仙台藩医工藤平助の長女として生れた。木戸孝允が生れる70年前である。二男五女の兄弟を秋の七草にたとえて自ら真葛と称した。母が亡くなり、幼い兄弟の世話している間に婚期がおくれ、36歳で同藩の只野伊賀の後妻となった。先妻の子が家督を継いだときに隠居して文筆活動に入ったのだが、その前から歌集や文集を著していた。彼女が55歳で書き上げた「独考」が当時としては、驚くほど批判精神に溢れている。 女性を蔑視する儒教を堂々と批判しており、孔子もかたなしである。
「女子と小人は養いがたしと儒教で説く。だが、これは孔子の指導力、感化力の不足をみずから暴露したものに外ならない。儒学の徒は孔子大先生の恥を大声に宣伝しているわけだ。まことに珍妙なことである」
また、ロシアの結婚制度について、本人同士の合意に基づくものとみて「うらやましい」とも書いている。その他、
「万物はすべて、生存競争のはげしさのなかにある。人間とてその例に洩れるものではない。したがって勝ち負けに目の色変えるのは、決して卑しいことではないはずだ。勝とうとする意欲こそが、人間を励ます原動力である」とか、
「外国では庶民階級のなかから、どしどし重臣といわれる指導者が選ばれるし、国王・宰相という最高の身分の人でも、ごく少ない供廻りで平気で町なかへ出たりするそうだ。わが国の貴顕方が権威第一と身辺を飾り護るのとはまったく違う」

幕政、藩政にもかかわらない一女子が、これだけ外国の情報に通じていたというのは意外である。まだペリー来航の30年以上も前なのである。彼女は儒教の「べからず主義」が大嫌いだったようで、批判は経済、食生活、風俗、自然科学にまでおよんでいる。がちがちの封建思想に固められていたあの時代に、こんな勇敢な社会批判をする女がいたとは、驚いてしまうではないか(幕末志士も裸足で逃げ出す?)。




2005年8月28日

 岡田以蔵のこと

岡田以蔵と聞けば、幕末ファンならすぐにあの「人斬り」とぴんとくるだろう。
土佐の郷士で武市半平太(瑞山)に師事し、坂本龍馬にも信頼を寄せていた。九条家の島田左近を斬殺した薩摩の田中新兵衛や、中村半次郎(のち桐野利秋)も「天誅」の人斬りで名高い。三者とも身分は低く、田中は商人あるいは船頭の子といわれ、士族ですらない。
私は最初、暗殺者というのが倒幕派、佐幕派、個人、集団を問わず、どうも好きにはなれず、読書の対象からも外して忌避していた。でも、幕末の歴史を勉強していくうちに、武市瑞山の心情も理解しはじめ、あの異常な時代には異常な手段が必要な場合もあったのだ、と考えるようになり、その人物評価にも変化が生じてきた。大老井伊直弼の暗殺が歴史の流れを大きく変えたことを考えれば、命を賭した暗殺者の人生に、いささかの同情を覚えるようにもなった。ただ、岡田以蔵の末路を考えると、どうしてもネガティブな同情になってしまうのだが、なにかの本で、坂本龍馬が岡田を勝海舟の用心棒に変えたことで、海舟の命を救った岡田も最後には良いことをしたのだ、歴史の役に立ったのだ、と書かれてあるのを読んで、「そうか、良かったね、以蔵さん。龍馬に感謝しなくちゃね」などと一人つぶやいて、納得していた。

だが、のちにそんな見方とは180度違う見方に遭遇して、衝撃を受けることになる。「木戸孝允をめぐる人々」の更新で、中岡慎太郎に関する本を何冊か読んだのだが、その中で最も中岡贔屓の色合いが濃く、龍馬に対してかなり批判的に書かれていたのが「中岡慎太郎と坂本龍馬 − 薩長連合の演出者」(寺尾五郎著)だった。私はどちらの側にも立たず、一定の距離をおいて読んでいたつもりだが、もっとも強い印象を受けたのは、中岡に関する記述ではなく、岡田以蔵に触れた部分だった。著者は龍馬が以蔵を説得して、勝海舟の身辺警護をさせたことを批判しているのである。以下、その文章を引用させていただく。

「坂本が以蔵に、勝の用心棒をさせたことが以蔵の運命を狂わせた。以蔵は党内で武市の次に信頼している坂本の指示のままに、幕臣勝に従って人を斬った。
それ以前にあっては、彼が人を一人斬るたびに尊攘運動は一歩ずつ前進したのだが、今は、彼が一人斬るたびに尊攘派は一首づつ減っていくことになった。以蔵はなんのために人を斬っているのかがわからなくなり、この世で何が正しいのかわからなくなっていく。坂本が彼なりの高さで行った尊攘派からの離脱と転進を、以蔵は低く惨めな逸脱と転向の形でやらされたことになる。しかも逆方向の "人斬り" というのっぴきならぬ拡大した形で、つまり完全な裏切りの形でやらされたことになる」
と著者は述べ、さらに続けて言う。「今は誰も以蔵を賞揚も激励もしてくれない。以蔵には、信念と自負の崩壊だけが残った。酒と女以外に彼を慰めてくれるものはいない。こうして彼は、志士の戦列から堕ち、無宿者鉄蔵となり、ただの兇悪な市井無頼の徒になっていった。武市は以蔵を活用したが、坂本は彼を利用しただけである」

私を含む龍馬ファンにはとうてい考え付かない見解だろう。それだけに、こんな見方もあるのかという衝撃をうけた。冷静に考えれば、あるいは一面の真実をついているのではないかと思われもするが、さて、他の方々はどうみるだろうか。この著者の岡田以蔵にかんする見解をさらに付記してみる。

「学問や政治力で奉仕する能力をもたない彼は、"人斬り" の度胸と技量で献身した。だから以蔵がどんなに思想的に低い水準にあったにせよ、その"人斬り" は信念にもとづいた斬姦(ざんかん)であった。彼が一人斬るたびに武市の顔がほころび、新しい日本が確実に一歩近づくと実感された。その"人斬り" はわからぬながらも、『尊攘』の二字に徹した世界観的な行動であった。その以蔵の世界観を坂本は崩したのである。崩しておいてそれに替る世界観を与えなかった」

龍馬もけっして悪気があってやったわけではないと思う。おそらく以蔵に良かれと思って彼を勝の用心棒にしたのだろう。ただ、以蔵の身分や目線で考えてやれず、自分の立場と行動規範のなかに以蔵を引き込んでしまった。その結果がどうなるかということまで思い及ばなかった。岡田以蔵の悲惨な末路もまた、変革期の歴史が生んだひとつの悲劇であり、あまり顧みられないだけに、前述の見解を読むたびに筆者の心はずきずきと痛むのである。




2004年3月15日

 ちょっとおかしな話

村松氏は「醒めた炎」で、司馬氏も「翔ぶが如く」で触れているのだが、読むたびに妙で、ちょっと笑ってしまう話がある。
三浦梧楼(長州、1846年生)の自著「観樹将軍回顧録」が原典だと思うが、明治二年に長州藩で諸隊反乱が起っている。 諸隊から2000の兵を精選して常備軍四個大隊を編制し、親兵として朝廷に差し出すことになったのだ。占領地の返納などで財政が逼迫していた藩としては負担が軽くなるが、選抜から漏れた者たちは生活の基盤を失うことになる。とくに遊撃隊が選抜の対象 から外されたことに憤激して、他隊の除隊兵などと合流して反乱を起こしたのである。たまたま、この時期に木戸が山口に帰っていて、この反乱を鎮圧することになった。
ところが、東京にいた兵部大輔前原一誠が、自分も帰国して乱の鎮圧にあたろう とした。しかし、前原の配下にある干城隊が脱退兵に加わりそうな形勢だったので、前原が帰国すれば反乱軍に担ぎ上げられる恐れがあった。井上もこれを心配していたので、三浦が三条公に会って、事情を説明し、前原の引きとめを頼んだのである。
結局、前原が引き止められている間に、木戸が反乱軍を鎮圧してしまった。前原はこれをずっと根に持っていたらしい。
明治三年に、洋行していた山縣有朋が西郷従道とともに帰国した。三浦が前原に知らせてやるとすぐに会いにきた。久しぶりなので 晩に両国の中村楼で一緒に食事をしようということになり、山縣は前原も誘った。前原はあとから佐々木男也と一緒にやってきた。ところが、三浦にはまったく口をきかないのである。山縣が妙に思って、久しぶりなんだから、打ち解けて話そうじゃないか、 と言うと、
「いったいこの三浦という奴は生意気なことをする」と前原が言う。山縣が事情を聞くと、前原は、脱退兵の始末をつけに帰ろうとすると、こやつが条公に話しておれを止めたのだ、と怒気を込めて答えた。山縣が、
「止めたってよいじゃないか」と言ったから、前原はかっとなって山縣を罵った。すると山縣が盃洗をつかんでなかの水を前原の顔にぶっ掛けた。なにをする、といって前原が飛びかかったから、三浦も佐々木と組打ちをはじめた。 四人が二組に分かれてドタバタやるものだから、燭台は倒れるわ、膳腕はひっくり返るわで大変な騒ぎになった。しかし料亭のなかでもあるので、いったん喧嘩を止めて店を出た。ところが、余憤なお収まらなかったのか、またも路上で格闘がはじまった。 提灯が落ちてぱっと燃え、あたりの木片に燃え移って、これを見た人たちが「火事だ!」と叫び、「水だ、水だ」と騒ぎたてたものだから四人は狼狽して、ようやく喧嘩も鎮まったという。

これって、やっぱりおかしいと思いませんか?
大の男四人が、喧嘩を料亭から路上にまで持ち込んで、取っ組み合いをやっているんですから。彼らって政府の高官でしょうが! 
あきれるというよりも、なにか笑ってしまうような話ではありました。




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