松菊日記から転載 



木戸考(1〜5)

2010.05.23 長州を "ドンキホーテ” にしなかった男(木戸考1)
歴史から学ぶことは実に多いけれど、我々はその知識を十分に生かしきっていないとも思う。表層の史実だけを追っても、その裏に隠された真実にはなかなか気づきがたい。それぞれの時代の出来事や事変に関わった人物に関する知識なくして、裏面の真実を正しく把握するのは困難です。人物の性格や思考性を知れば、ひとつの史料を的確に読み取る能力は高まるでしょう。

歴史学者の中には知識は豊富でも、人物理解がお粗末なために、特定の人物の行動などに関してとんちんかんな解釈をしてしまう者たちもいます。

人物でも非常にわかりやすい人物と、わかりにくい人物がいます。吉田松陰や高杉晋作など、直情径行的な人物は比較的わかりやすい。反対に桂小五郎は、よほどその性格や人間性を研究しないと、その行動を理解することが難しい場合があります。しかし、人物の性格などは歴史的史料から理解されることも多いのです。

たとえば、木戸が書いた薩長同盟の内容をみれば、彼の性格の一端がうかがえます。幕府と長州が戦争になった場合、長州が勝った場合、長州が負けた場合、幕府軍が兵を引いた場合、引かなかった場合、その後の対応をどうするか、など彼の緻密な性格と予見能力がよく顕れています。もっとも木戸は、ひとつの局面から起こり得る結果について、32とおり(か、それ以上?)考える人だったというから、薩長の盟約はまだ足りないのですね。薩摩の西郷相手では、さすがに遠慮したのかもしれません。

物事を冷静に判断し、結果を予見し、成功の可能性が最大限になる時期を焦らずじっと待つ。そんな大将の度量を木戸が持っていたことを、大方の長州人は認めていたのでしょう。そんな人物は彼しかいない、と。小五郎が潜伏先の出石から、乞われて長州に戻ったとき、

「小五郎の帰国は長州藩にとって、大旱に雲霓(うんげい)を望むがごとき有様だった」(大ひでりのときに、雨の前兆である雲と虹を待ち焦がれるような)

というのですから、彼は「禁門の変」以前から、その指導者としての才覚を十分に発揮していたことが、それ以前の知識があまりない人でも察せられるでしょう。木戸孝允は「長州藩をドンキホーテにしなかった男」だったのです。

2009.05.25 意外と一匹狼だった − 複雑なる気質(木戸考2)
前回につづいて、これまで書いてきたことの要点も含めて、木戸孝允についてざっとまとめてみました。副題は「そばに置いておきたい男」――

小五郎は意外と単独行動を好んでいましたね。満19才(1852)で江戸に遊学してから第2次長州征伐前に潜伏先から帰国する慶応元年(1865)まで、「8.18政変」後のやむを得ない帰国を除けば、長州にはたった2度しか帰っておらず、あまり人と群れず、藩内に留まりたがらず、単独で行動することが多かったようです。

尊攘激派の久坂や高杉は、攘夷決行のため仲間と「英国公使館焼討ち」をしたり、光明寺党や奇兵隊などを組織しましたが、小五郎は専らひとりで朝廷や各藩に政治的な働きかけをしていました。いつも藩外で働いていたので、危険な目に合うこともあり、なぜか政敵に助けられたりもしていました。

その間、小五郎は集団を指導する経験もしていたのですね。まず、剣術道場「練兵館」の師匠・斎藤弥九郎が小五郎の人格と剣才、指導者としての素質を見抜いて塾頭に抜擢。それから周布政之助など藩の上司に認められ、江戸桜田藩邸の有備館用掛り、次いで舎長に任ぜられ、風紀が乱れていた館の改革を断行しました(「木戸・桂徹底研究」参照)。その後、対馬藩士に慕われ、対馬藩(長州藩とは縁戚)のお家騒動を解決するなど、指導者としての実績を積んでいくのです。

いつの間にか小五郎は、周囲の目上の者たちに “そばに置いておきたい男” として頼られ、その能力、魅力を発揮していきます。大雑把ですが、斎藤弥九郎 → 周布政之助 → 対馬藩 → 長州藩 → 維新政府と、相談役や指導者として彼らの要望にみごと応えていくのです。維新政府にあれば、長州藩から「問題が山積みしているから」と帰藩を請われ、対馬藩や大村藩でも「藩内のごたごたを何とかしてほしい」と招へいを受け、長州に帰ると東京政府から「はやく戻って来い」と帰京を迫られ、使節団として海外へ行けば、急用ができたからすぐに帰国せよ、と命ぜられる……

とくに大久保は、多分に政略的な意図があるにせよ、木戸が東京政府から離れることを嫌っていました。明治4年には薩摩藩の動きを疑惑して、「天の岩戸」のごとく山口から動かなくなった木戸を、大久保は西郷(弟)と共にわざわざ山口を訪れ、東京に連れ戻しています。明治7年にも台湾出兵に反対して、木戸が山口に引きこもったことがありますが、そのときも大久保は山口まで木戸を迎えに行こうとしました。でも、伊藤博文が世間体を気にして大久保を引きとめたので、中間点の大阪でふたりが逢うことになったのです(「大阪会議」)。

このように木戸はいつも求められるままに、集団の指導者としての務めを果していましたが、若いころの一匹狼的というか、自由を好む気質はずーっと持っていたようです。大久保と並んで新政府の事実上のトップリーダーでありながら、木戸が常に政府の外に出るような試みを続けたのは、彼の遠心的志向のせいでしょうか。海外渡航を望んだことも、その顕れのひとつでしょう。

これだけでは木戸孝允という人物の複雑性を言い表せませんが、性格の異なる者たちとも結構うまがあったのは、彼に備わる包容力と共に、彼自身にそうした別の気質が内在していたからなのかもしれません。

2010.05.27  新たな発見 − 「禁門の変」後の行動について
もうすでに頭に入っていることでも、復習しなおすと、あっと新たなひらめきが起きたり、そうだったのか! と今まで気づかなかったことに気づくことがあります。今回、あらためて木戸孝允の足跡を辿ってみると、新たな発見がけっこうあるのですね。まだまだワキが甘いし、勉強がたりない。初心にかえって学びなおすことが大切なんだって、しみじみ思いました。

たとえば、「禁門の変」後に小五郎は長州には帰らないで、しばらく京都に潜伏後、但馬に逃れましたよね。それはこの敗戦によって尊攘派の勢力が衰え、俗論派が台頭し責任を問われることが予想できたから、だと思っていました。でも、そうでもない。それ以前に、小五郎には最初から長州へ帰る選択肢はなかったのではないか。

もともと彼の生活基盤は京都にあったのだし、出兵にはぎりぎりまで反対していました。他藩を味方につけ、朝廷にも働きかけようと奔走していたわけです。戦いに敗れても、京都の情報を入手して政治活動をつづけるためには、やはり藩外に身を置くことがベスト、と小五郎は思った!

そんな小五郎の性格や行動癖を見抜いていたのか、長州の野村が「外で(国のために)尽くすなどのご論はやめて、ぜひお帰りになってください」と、一日も早い帰藩を請う手紙を書いていることも思い出されます。まして、俗論派を倒して、晋作らが政権を握ったことを知れば、ますます自分の役割は京都にもどって、朝廷や各藩に働きかけることだと思ったことでしょう。

もし、周布政之助が自刃しないで生きていたら、小五郎は長州には帰っていなかったかもしれませんね。周布亡きあと、長州藩をひとつにまとめる者がいなかったから、小五郎は請われるままに長州にもどる決意をしたのでしょう。

意外と一匹狼、と思ったときに、19歳以降の小五郎の生活基盤が江戸と京都にあったことを考えあわせて、上記のような結論に達しました。それにしても、長州藩の運命を決するもっとも重要な時期に、単独行動を断念して、藩という集団を主導するリーダーとなったのは、桂小五郎の宿命だったとも思えてきます。

2010.05.29  おぼっちゃま気質 - わがままも作戦のうち?(木戸考3)
今日も、これまでの人物の学びを振り返ってみることにします。

「木戸がまたスネた」
とは、前回言及した木戸の「山口引きこもり」事件(?)があった際に、佐々木高行が日記に記した言葉です。「実に困りたり」 と佐々木に呆れられていますが、まさか大久保自身が迎えに来るとは思わなかったので、本人はびっくりして、ずいぶん恐縮したようです。
それでも、薩摩を代表して大久保が詫びを入れたのですから、木戸の「引き戦術」はけっこう効果があったのですね。

木戸は、幕末の桂時代にも似たようなことをやっています。薩長提携の話が起きたときに、藩内の反対者に非難されて、辞表を提出したことがありました。藩要路がこぞって小五郎の説得に努め、しまいには藩主父子が直接彼を慰撫して辞表の撤回を求めたので、小五郎も思いとどまりました。

その後も、薩摩を介した武器の調達に不満をもった海軍局が妨害行為に出たことから、小五郎は再び辞意を表明。萩に帰ろうとする小五郎を世子広封が慌てて引きとめました。結局、高杉の協力を得て、軍政を改革しやすい体制に改められたのです。

維新以降は、木戸のこの「引き戦術」に、伊藤博文が大久保との間に入って相当に苦労しています。木戸が参議を辞すれば、復職させるのに伊藤以下、周囲の者が大汗かいて説得しなければならない。でも、明治9年3月に辞職してからは、誰がどう説得しようと、二度と参議の職に復することはありませんでした。

こうした木戸の頑固な面を、既述したように、佐々木は「木戸はすぐにスネるから困ったものだ」と評しましたが、悪く言えば「わがままな奴」と視ていたのかもしれません。経済的には裕福な家庭に育った「おぼっちゃま気質」の表れだったのでしょうか。大久保は表面上は木戸の「引き戦術」に屈したようでも、下級武士の苦労をしていますから、どこか計算ずくのところがあって、ちゃんと自分が有利な立場になるようにもっていく。要するに、ずるいのですね。こんなはずじゃない、と怒っても、もう遅い。

やはり、ころっと騙されるのは、おぼっちゃまのほう、ということなのでしょうか。わがままといっても、木戸の場合は道理のある「わがまま」なのですが、大久保相手だと、けっこう感情的になることもあったようです。気質の違いもありますが、小五郎時代とは違う面がみられるのは、破壊よりも創業の苦労のほうが、はるかに精神的な負荷が大きかったからなのかもしれません。

昨日の味方が今日は次々と敵になっていく状況の中、互いに見えない火花を散らし合いながらも固く結束した薩長ふたりのリーダー。彼らが日本史上最大の危機に、日本の独立と近代化のために命を賭して働いた偉大な政治家であったことは、人物の人気はともかくとして、しっかりと胸に刻んでおきたいものです。

2010.06.11 龍馬の失敗に学び、小五郎の成功への秘訣を探る(木戸考4)
現代の経済人でも、坂本龍馬を模範とする者はけっこういるでしょう。自由闊達、気宇壮大、豪放磊落… 確かに見習うべき資質があり、人生を楽観し明るく生きるという点では恰好の人物モデルかもしれません。

「でも、待てよ」と、ちょっと立ち止まって考えてください。既述したことは人生の生き様であって、結果を問題にしてはいません。残念ながら、龍馬は最後に暗殺されているのですね。つまり、成功しなかった、志半ばにして人生に失敗してしまった。なぜ、失敗したのか? そこから、教訓を学び取ることが大事ではないでしょうか。

一方、桂小五郎はその生き様をみれば、龍馬よりはるかに危険な人生を歩んでおり、何度も危機に遭遇しながら結果的に生きのびて、明治維新という大成功を遂げています。これを単に「逃げの小五郎」という表面的な言葉で済ませれば、その成功の極意を知ることはできません。けっして偶然ではなく、「生き延びて成功した」はっきりした理由があるのです。今回の再考にあたって、それを突き詰めてみました。ここでは字数が限られるので、ひとつだけキーワードを提示します。
それは、「志操の固さ」です。つまり、

目的を達成するまで、けっしてぶれないこと。

反対者がいて敵を作っても怖れずに、目的の達成に向かって突き進む。そうした姿勢は周囲の者たちに安心と信頼の念を沸き起こし、結果的に敵の刃から守ってくれる味方を数多く生むことにもなります。それは「信義」という第二のキーワードにも繋がっていきます。実際、小五郎が危機一髪のときには、必ず彼を救済する者たちが出てきます。

「坂下門外の変」後の危機(水戸浪士がもたらした)
 ―― 小五郎が舎長を務める「有備館」生らの結束と、幕閣と親しい長井雅楽の弁明で幕府からの追求を逃れる。

「池田屋の変」後の危機
 ―― 対馬藩邸に居た小五郎が事変を聞いて池田屋に走ろうとしたところを、対馬藩士・大島友之允が必死で引き止める。

「禁門の変」後の危機
 ―― 幾松による保護と出石の商人・広戸甚助の手引きにより京都を脱出。

等など、必ず小五郎の救援者が現れています。目的が概ね正しくあれば、天も味方するのか、偶然の幸運にもついているようです。たとえば、水戸天狗党の決起を聞いて、小五郎は潜伏先の出石から天狗党への合流を考えますが、結局断念しています。もし合流していたら、小五郎も大勢の水戸浪士たちと共に、幕府によって処刑されていたでしょう。

こうしてみると、桂小五郎はひたすら「明治維新」という目標に向けて走り続けていたことがわかります。一念一心何事かならざらん、ということでしょうか。

残念ながら、坂本龍馬はその人間的魅力はともかくとして、その時々において自らの姿勢を左右したようなところがあります。結果的に天運に見放され、非業の死を遂げることになってしまいました。

ごく最近の例では鳩山前首相のことが思い出されます。発したことばに一貫性がなく、いずれの側にも好かれようと八方美人になれば、その場は凌げても、最後には誰にも信用されなくなり、追いつめられて失脚してしまった。一方、小泉元首相は、目的達成に向けて非情なまでに反対者と対峙して、大勢の敵を作りましたが、結果的に目標を達成しています。

小五郎の場合は志操の固さに加えて、予測の正確さ、勝負時の嗅覚、慌てず騒がず準備怠りなくその時を待ったことが成功への途に繋がった、といえるでしょう。(弊館の参考記事「木戸孝允への旅」、「桂小五郎・徹底研究」など)

2010.07.07 現代人が求めるのは『連帯』か?(木戸考5)
このタイトル、実は先のサッカーW杯の熱狂から思いつきました。報道各社を含め、あの日本中の熱狂振りに、私はちょっと引いてしまったのですよ。ですからパラグアイ戦で負けたときは、惜しかったという思いとともに、正直ほっとした気持ちもありました。これで朝から晩まで同じ試合の場面を何度も見せつけられなくて済むのだ、あの大騒ぎから解放されるのだ、と。公共放送+民放各局とも、これでもか、これでもか、と報道合戦の観を呈していましたからね。

なぜこんなにも大騒ぎするのか、考えてみたのです。愛国心というよりは、人々は連帯を求めているのではないか? 言い換えれば、人と人との『きずな』でしょうか。あるひとつの(自発的な)目的に向かって、みんなが連帯意識をもって繋がっていく。共通の強固な目標があれば、見知らぬもの同士でもたちまち心を一つにして、そこに向かって突き進むことができる。

過去にそんな時代があったことを、我々は知っています。戦後の高度成長期を別とすれば、間違いなく大変革期の幕末でしょう。この時代が戦国時代とともに人気があるのは、大いなる目標を持てたからではないでしょうか。外国勢力への危機意識から生じた尊皇攘夷思想を中心に、各藩に多くの組織が生れました。長州の奇兵隊、土佐の勤王党、薩摩の精忠組等など。

佐幕派の代表はもちろん新選組です。主に百姓の子が武士になりたいという一心で結集する。その夢が可能になる時代でもありました。勤王派でも大勢の脱藩浪士が出現しました。封建時代の象徴たる階級制度、縦社会の因習を打破して、自らの意志で行動することに将来の希望を見出したのでしょうか。それが立身出世のためであっても、高い志のためであっても、狭い郷里や藩内から飛び出すことで、無上の開放感を味わったに違いありません。たとえ生命の危険を冒した行動であったとしても。

現代は、大勢の日本人が確かな目標を失っている時代ではないでしょうか。将来への漠然とした不安が思い切った行動を抑制している。原始的(?)な共生社会が崩れて、一人ひとりがばらばらになって生活していかざるをえない状況に追い込まれている――。幕末は大変な時代であっても、人々が連帯できる目標があったことに羨ましさを覚えながら、各々が自分のヒーローを追い求めるのです。それは坂本龍馬であったり、高杉晋作、桂小五郎であったり、あるいは近藤勇、土方歳三であったりする……。

なにか本論に入る前に、前置きが長くなってしまったので、このつづきは次回に持ち越すことにいたします。

2010.07.09 現代人が求めるのは『連帯』か?(木戸考5) つづき
あの新選組のだんだら模様の制服は視覚的にも『連帯』意識を高める効果がありそうです。もっとも目立ちすぎて、わずか1年余りで廃止されたようですが。 反幕側では桂小五郎も潜伏先から帰藩して、単独の政治活動から長州一藩をまとめて時の権力と正面から対峙する指導者になってゆきます。余談ですが、新選組の土方、長州の大村益次郎など、トップを支える副官は異質の才能を備える変わり者が多いようです。

さて、立場上とはいえ、幕末・維新をとおして小五郎の人的交流の広さは筆者が注目する一面です。社交好きは政治家の必須条件のひとつかもしれませんが、町人から芸術家、武道家、旧藩主、公卿、学者、宗教家に至るまで、その広範囲な交遊には一つひとつドラマがありそうで、大いに興味をそそられます。

吉田松陰、高杉晋作、斎藤弥九郎、村田蔵六、幾松、坂本龍馬、大久保利通……運命の出遭いのなんと多いことでしょうか。

現代人は私も含め、運命の人物と出遭う機会がどれほどあるでしょう。「引きこもり」などという現代病に罹っている者さえいます。インターネットが発達し、人と人との交流はもはや仮想空間でしかなされなくなってきたのでしょうか。家にいながらにしてあらゆる情報が手に入る便利さの代償に、私たちが失ってしまったもの――それさえも思い至らずに、当たり前のように現状を受け入れてきました。歴史を振りかえって今、そのことに気がつくと、あの時代の豊かな人物交流に憧憬さえも感じるのです。

小五郎を含め、当時の人はよく動きまわり、気軽に友人宅を泊まり歩き、自らも当然のように人の世話をし、共に詩を詠み、酒を酌み交わし、議論に熱くなり… これらは相手がいて、「ひと対ひと」の関係性の中で成り立つ事ですが、現代は「ひと対機械(主にコンピュータ)」の関係が日常生活に相当なウエイトを占めるようになり、相対的に人との直接的なふれあいが減少してきたようです。

幕末・維新を生きた人たちの圧倒的な活動量とあちこちで交錯する人間関係のドラマは、現代人の関心を強く惹きつける魅力があるのでしょうか。そんな代表のひとりたる木戸孝允の人生を、筆者が一途に辿ってみたいと思うのは、彼個人の人間的魅力に加えて、現代の日本人が失ってしまったものを探し、見出し、蘇らせたいと願う気持ちが、どこかにあるからなのかもしれません。


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