幕末・維新の諸問題 No2



14. 台湾出兵 − 木戸の「王道」と大久保の「覇道」、どちらが正しかったのか?

明治六年、留守政府の「征韓論」に勝利したのもつかの間、台湾出兵問題で木戸と大久保の協力体制はもろくも崩れてしまう。岩倉使節団の副使として欧米視察後に、木戸と大久保の政治姿勢は微妙に変化する。それまで保守的だった大久保が積極的な改革派となり、木戸は逆に慎重になって、漸進論を主張しはじめたのだ。上辺だけの文明開化はかえって弊害を生む、根本からの開化が重要なのだと木戸は考える。そして、「征韓論」にも「征台論」にも反対するのである。
維新初期に唱えていた「征韓論」を木戸が放棄したのは、やはり西欧の戦争の歴史を知ったからだろう。とくにポーランドが三分割されて統治されていることに大きな衝撃を受け、日本のみならず、アジア諸国の危機として捕らえる契機となったようである。以後、彼は国の根本を定める憲法の制定に執念を燃やすようになる。

一方、大久保も「漸進的な憲法制定論」では木戸と大きく変わるところはない(両者の憲法論は長くなるので、別の機会に述べる)。しかし彼は現実主義者である。ドイツのビスマルクの講演に感銘を受けてもいた。すなわち、万国公法とは大国が覇権を争う手段として用いられ、小国の利益にはならないこと。小国がその渦中で独立を保つには赤裸々なパワーに頼る以外に道はないという。それはまさに覇道の論理である。
かくて大久保は台湾出兵の始末をつけるために、清国に乗り込んでゆく。交渉の行方しだいでは戦争も辞さない構えで――。一方、木戸はあくまでもこれに反対して辞表を提出し、東京政府を離れることになる。彼はどのような冒険主義にも反対であった。結果的に大久保は清国と和議を結び、十分とはいえないまでも償金をとることにも成功した。大久保の政治手腕は高く買われ、清国だけでなく、欧米諸国に対しても日本の立場をそれまでより有利にしたことは確かである。

だがこの台湾出兵という軍事力を背景にした強気の外交が、のちのアジア進出への野心を日本国内に醸成させはしなかったか。木戸の平和主義、非冒険主義は理想の外交姿勢ではある。なんらかの成果をあげるには長い時間がかかるかもしれない。はたして、どちらが正しかったのだろうか。
はっきり言えることは、軍事力の強弱によって国際的な発言力が決定されるのは、現在もなお変わっていないということだ。木戸の理想の外交こそ日本が目指すべきであろうが、今まさに危機に瀕しているような気もする。「王道」が「覇道」を凌駕するまでに、世界はあとどれだけの年月を必要とするのだろう。それまで人類ははたして無事でいられるだろうか?



13. 「逃げの小五郎」ではない!

この異名をそれほど嫌いではない。「逃げ」とは「退く」ことであって、目標達成への執念と志の高さを表すものだと筆者は思っている。だが一般的には、自分だけ危険から逃れる卑怯な行為という見方をされているようだ。大変な誤解であり、はっきり言えば、彼は逃げたことなど一度もない。 「禁門の変」で長州軍が敗れたあと、ひとりだけ京都に留まって、身の危険をも顧みず、なおも長州の冤罪をはらす工作を続けようとしたのは小五郎である。その不可能を悟ってから、彼は最後に京都を脱出しているのだ。同じ京都留守居役の乃美織江はすでに長州へ逃れているし、広沢をはじめ大勢の長州人が逃れているのに、小五郎だけ「逃げの」と呼ばれる謂れはない。
それより前に起こった「池田屋の変」だが、ここでも逃げてはいない。彼は最初から池田屋にはいなかったのであり、いたのに「いない」と言いはる理由もないし、彼はそんな無意味な嘘をつく質ではない。大体、あの状況で逃げるのは当たり前で、仮に小五郎が池田屋にいて、他の志士たちといっしょに逃げたとしても、彼だけ「逃げの」と批判がましく言われる筋合いはないのである。それどころか、小五郎は「池田屋の変」後に長州へもどっても、危険な京都で政治工作を続けることを望んで、人々の反対を押し切って京都に舞い戻っているのだ。すでに幕府のお尋ね者になっているにもかかわらず――。癸丑(きちゅう 嘉永六年)以来の行動を辿っていけば、桂小五郎がだれよりも勇気ある勤皇志士だったことがわかるだろう。それを理解したうえで、親しみをこめた善意の愛称として使われるなら、それはそれで、悪くはないと思う。



12. 西郷は馬鹿ではない
 − なぜ板垣の申し出を断ったのか?


明治6年10月、大久保利通と岩倉具視の巧みな政治工作によって、留守政府の「征韓論」は敗れ、西郷隆盛は朝鮮使節派遣の望みを絶って辞表を提出、以後二度と中央政府に復帰することはなかった。西郷が辞表を提出したのは10月23日、翌24日には板垣退助、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎の諸参議も西郷のあとを追って辞職した。
このときに板垣は西郷に今後の協力を申し出た。すなわち、善きことでも、悪しきことでも、行動を共にしたいと述べて、西郷の胸に政府転覆の意図あることを期待したのである。この板垣の申し出に対して西郷はきわめて冷静に、且つきっぱりと拒絶した。

「私は君に援けてもらいたいという希望はもっていない。さらにいえば、君が今後私に反対しても決して恨まない。願わくは君もこののち、私のことなど忘れてくれて、君のなすままにしてくれたほうがいい。今後どうするかということは、私の胸中にある」

板垣は西郷の返事を聞いて不快になったという。
坂本龍馬は「西郷は馬鹿である」と評したが、それは性格的な純朴さ、真摯さに対する印象を言ったのだろう。西郷はけっして馬鹿ではない。辞職した留守政府のメンバーが自分に期待する役割を彼は十分に悟っていたし、自分を利用しようという下心も感知していた。彼らの魂胆は現政府を攻撃して、崩壊せしめることである。薩長の結束を絶って中央から駆逐し、自分たちが政権を握ろうということなのだ。そうした反政府の旗頭に自分がなれば、それは再び長州を裏切ることになる。

幕末に起きた池田屋の変、禁門の変では、有為の長州人が数多く討たれ、あるいは自刃して果てた。かつては尊攘派の同志だった久坂玄瑞を死なせたのは薩摩であり、ひいてはその軍を指揮した西郷だともいえるのだ。薩長同盟の締結前に、薩摩の行動を痛烈に批判した木戸孝允の顔も浮んだだろう。その同盟の相手である長州を再び裏切って、土肥と手を組むことは信義にもとるのみならず、恥かしい行為だと西郷が考えたとしても不思議ではない。

西郷はけっして薩長政権の崩壊を望んではいなかった。でなければ、山城屋の汚職事件に関わって窮地に陥っていた山縣有朋を救出する手立てを講じたりはしなかっただろう。法の正義をもって汚職を追及する利と、長州閥の重要人物のひとりである山縣を失脚させることによって、揺籃期の明治政府に与える影響の大きさを推し量れば、西郷にとっては後者を避けることのほうが重要だったのだ。西郷もまたひとりの政治家であり、この事件に関してはすぐれて政治的な判断を下したのである。
西郷が鹿児島に帰ったのは、佐賀や土佐の不平士族らと結託して、大久保率いる東京政府に叛旗を翻すためではけっしてなかった。いつか自分を必要とするときが来るのを待っていたのではないだろうか。しかし自分の意思だけではどうにもならない、戦好きな野心家や保守派や征韓論者の巨大な圧力に押されて、彼は自らの運命を決せざるを得なかった。

西郷の不幸は、岩倉使節団の副使となった大久保や木戸孝允と、遠く離れてしまったときに始まったのではないかと、ふと思ったりする。



11. なぜ長州藩だけだったのか?

「薩長同盟」が文字どおり2藩だけの倒幕同盟だったことを知ったときは、意外に思った。もっと多くの藩がこの密約に関わっていたと思い込んでいたからだ。2世紀半以上も続いている徳川幕府をたった2藩だけで倒せるはずがない、と常識的には誰もがそう考えるはずである。結果的に多くの藩が味方についたとはいえ、それは緒戦に勝利したから、たまたまそうなっただけに過ぎない。

それまで幕府に公然と叛旗をひるがえしたのは長州1藩のみだったというのも意外である(幕末初期の水戸藩を除く)。それだけ徳川独裁・封建体制が完璧に機能していた証なのだろう。「家康、偉大なり」と言わざるを得ない。

毛利氏(のち長州藩主)は確かに関が原の戦い(1600年)で徳川氏に対して怨念を抱くことになった。倒幕は単なる復讐戦というような単純なものでないことは明らかだが、「関が原」の因縁がなければ、これほどはっきりと尊攘派の庇護者として、幕府と敵対する行動を取れただろうか。薩摩藩も長州藩がいなければ公武合体策を倒幕へと変更することはなかっただろう。

徳川幕府創業のときに、この2藩が潜在敵国として残ったことは、日本にとっては天の恩恵だったと言えるかもしれない。どこの国であれ、時の政府または権力者を国民が見かけ上100%支持していたとしたら、それはもう独裁国家以外のなにものでもない。反対者が一人もいなければ、あるいは反対できないほど国民が抑圧されているならば、国家危機の際に軌道修正がまったくできなくなる。

現代においても、政府の政策が国民にとってどれほど良いと思われても、10%前後の反対票はあってしかるべきで、そうでないと見込み違いのことがあったときに、臨機応変の対応ができなくなる。だから少数意見は採用されなくても、けっして忘却してはならないのだ。

まして諸外国との交渉に弱腰で、次々と不平等条約を締結して、植民地化の危機を招いていた幕府に対しては、吉田松陰のような命を惜しまず意見する者も出てこなければならない。土佐藩の山内容堂のように幕府に恩を感じる藩ばかりだったとしたら、徳川氏の天下は外敵の前で国の民をまきぞえにして滅びるか、外敵が現れなかったら、あと1000年続いて、樋口一葉も、松井須磨子も、美空ひばりも誕生することはなかっただろう(女性だけの例でご免なさい)。

国もまた、目に見えない守護神によって生かされているのかもしれない。たまたまその役割を長州藩と薩摩藩が担ったわけだが、それは会津藩であっても、仙台藩であってもよかったのだ。そして徳川幕府が滅びたことによって、徳川氏もまた救われたのである。


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