幕末・維新の諸問題 |
■ 特別小論より 征韓論政変はなぜ起きたのか その1 その2 その3 |
1.木戸が革命思想を大久保に教育した? 版籍奉還に続く廃藩置県の決行で、維新革命の半ばは達成されたと思う。 版籍奉還は木戸がまだ戊辰戦争が終わらないうちに早くから提唱していた政策で、当然、廃藩置県を目指した前段階の措置である。 士族階級からすれば、自分らが依って立つ藩が無くなってしまうのだから驚くべきことで、仲間を裏切ったと言われてもしかたがない。しかし、これをしなければ徳川幕府を倒した意味がないのである。日本を取り巻く情勢を考えても急ぐ必要があった。 この政策が漏れ伝わって、その首唱者が木戸だとわかると、反対者のあいだで「木戸を殺せ」という声が上がっていた。大久保は最初、岩倉とともに慎重な姿勢をとっていた。薩摩の島津久光が保守的だったことも影響していたのだろう。版籍奉還後には、藩主が藩知事になるのだが、この知事職を世襲制にするつもりだったのを、木戸が強硬に反対して、世襲制の廃止を決断するよう岩倉ら政府首脳に迫ったのである。結局、廃藩置県後には、藩主が各県の知事になることはなかった。 木戸が維新初期において果たした政治的な役割は実に大きかった。もっと評価されてもよいのではないかと思う。 2.木戸は無血革命を目指していた? 薩長政権は木戸の本意ではなかった。彼は志士活動の最初から雄藩連合を目指していた。力のある藩、志のある藩ができるだけ多く集まって盟約を結び、幕府に対抗しようとしたのである。その過程で、戦わずして徳川幕府が屈すれば、血を流さずに革命政権ができる。 それが木戸の理想だったのではないか。彼は神道無念流の師、斎藤弥九郎から「兵は凶器といえば、その身一生用ゆることなきは大幸というべし」と教えられ、自らも剣を抜いて人を斬ったことがなかった男である。 もちろん戦う覚悟はできていただろうが、平和裡に新時代を迎えられれば、これほど良いことはない。それが木戸の究極の目標であり、理想であったのかもしれない。 維新後も、木戸は薩長藩閥政府と言われることを苦にしていた。だから江藤新平や大隈重信など、薩長以外の有能な人物を支援したのである。 3.西郷は英雄か? 坂本龍馬の西郷評がある。 「西郷は馬鹿である。しかしその馬鹿の幅がどれほど大きいかわからない。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」 龍馬のこの言葉に西郷の長所と短所が如実にあらわれている。 西郷は確かに度量の大きな男であった。倒幕がなったのも彼の働きによるところが大きい。しかし、忘れてならないことがある。薩摩は「八・一八政変」で幕府方の会津藩と組んで、長州人を京都から追放した。その後、長州と和解して同盟を結び、「王政復古」を宣言すると、今度は昨日まで味方であった会津を裏切ったのである。 これは消し難い重要な史実である。西郷は「禁門の変」では、佐幕派の立場から長州をさんざんに苦しめた。久坂玄瑞はこの戦いで自刃している。桂小五郎は死線をさまよって芸妓幾松に救われ、辛うじて難を逃れた。 明治維新となって西郷と木戸が共に廟堂に立ったとき、二人の胸に去来するものはなんであっただろうか。人は認めても、西郷自身は自分を英雄と認め得ただろうか。 西郷にはどこか木戸に対する引け目があったような気がする。二人の心理を推し量ることは非常に興味深い。 4.前原一誠は明智光秀か? 木戸を最後まで悩ませた男が前原一誠であった。 前原はなぜ木戸を敵視したのだろうか。木戸は伊藤や井上ほどには、前原を評価していなかったようである。前原の保守性にも起因したのだろうが、前原にとってはおもしろくなかっただろう。大村益次郎没後に兵部大輔になるのだが、木戸が望んでいる兵制改革が前原の下では遅々として進まなかった。 前原は薩摩の黒田清隆との折合いも悪く、結局、明治3年9月に職を辞して萩へ帰る。その後、木戸は官職に復帰するように、人を介して前原を説得するのだが、前原はついに応ずることなく、明治9年に起こった「萩の乱」の首謀者となるのである。乱はあっけなく鎮圧されて前原は捕えられ、刑死する。 前原は、一時は参議にまでなった人物である。長州人であり、新政府に責任ある立場にあった。不満があるなら木戸に直接訴えることもできたはずである。あえてそれをしないで反乱を起こしたのは、怨恨ゆえと言われてもしかたがない。 鹿児島にいた西郷隆盛を巻き込んで、東京政府の転覆に成功したとしても、不満士族の群でいかなる「新・新政府」を樹立し得たただろうか。益々奢り高ぶった反動軍事政権が誕生したかもしれない。 一度は東京に戻って、木戸らに面会する機会もあったのに、じっくり話し合うこともしないで、不穏な動きに終始していた。 「敵は太政官にあり!」と腹を決めていたようだ。 5.岩倉使節団はだれの発案だったのか? なかなかにおもしろい問題である。使節団派遣については、最初に大隈重信が発案したという説がある。外交を担当していた大隈自身が使節になって、条約改正の交渉をすることになっていたらしい。それを大久保と岩倉が嫌って、自分たちが使節となって渡航することに強引に決めてしまったというのである。 もちろん長州閥の領袖たる木戸孝允を一緒に連れて行くことが必須条件だった。木戸を日本に残しておくことはできない。土佐(板垣)や佐賀(江藤)の連中と組んで、留守中に勝手なことをされたら困るということなのだろう。 幸い木戸は以前から洋行を希望していたので、本人の了解は簡単に得られたが、三条公や他の参議たちが随分と反対したらしい。すったもんだした挙句にようやく話がまとまった。明治4年11月12日に100人を超える使節団一行(留学生を含む)は無事米国に向けて出発した。 維新政権の事実上の最高首脳である二人(大久保と木戸)が揃って日本を留守にしたのだから、その影響はあまりにも大きかった。それについては小説・木戸孝允「明治六年秋の変」で詳しく触れる予定である。 6.大久保はなぜ伊藤を重用したのか? 木戸の側近だったからである。そのほかに理由はない。 大久保は木戸が政権から離れがちなのを常に憂慮していた。木戸を新政府に繋ぎとめるためには、伊藤の協力がぜひとも必要だった。伊藤を側に置いて、自分と木戸とのボンド役にしなければ安心できなかったのだ。 もちろん、伊藤を重用することによって、長州閥を引きつけておくという意図もあったであろう。それも伊藤が木戸の側近中の側近であったからこそ、彼を選択したのである。いかに伊藤が部下として有能であっても、木戸との繋がりがなければ、大久保にとってたいしてメリットはない。へたに小賢しいだけなら、江藤新平のように殺されてしまったかもしれない。 大久保のそうした意図に木戸は気付いていただろうか。いずれにしても、伊藤が自分から離れていくのを、木戸が哀しむのは人情である。哀しまないほうがおかしいのだ。伊藤としては、あらゆる状況を考慮して、大久保につくことがベストと判断したのであろう。木戸との一時的な軋轢はあったにしても、伊藤は親分との関係修復には自信があったのだ。 7.徳川慶喜は倒幕側にいるべき人物だった? 慶喜は水戸藩主、徳川斉昭の七男として生れた。水戸藩は幕末に尊王攘夷の思想を広めた水戸学の家元である。慶喜は11歳のときに徳川御三卿のひとつ一橋家を相続したが、反幕的姿勢を強める水戸藩は「安政の大獄」で井伊直弼から強い圧迫を受け、やがて水戸藩士らは「桜田門外の変」で直弼を襲撃、暗殺する。 皮肉なことに、最も早く徳川幕府を批判し、反抗した水戸藩主の子が徳川宗家を継ぐことになる。ここに慶喜の立場の矛盾が生じてくる。木戸孝允をして「家康の再来ではないか?」と言わしめたこの最後の将軍は、確かにリーダーにふさわしい智謀と野心を備えていたようだ。 慶喜の不幸は将軍職を継ぐ資格のある血筋に生れたことだったのかもしれない。彼は尊攘派の大将になってもおかしくない人物だった。しかし、実際は水戸の脱藩志士らが組織した「天狗党」を討伐せざるを得ず、次期将軍の第一候補としての立場を重視した。将軍としてこの国を統べること以外に、慶喜が進むべき道はもはやなかった。そして、第十五代将軍となる。 だが、大政奉還後に生じた「鳥羽伏見の戦い」に幕府側は敗北する。それ以後の朝廷に対する慶喜の弱腰姿勢は、とても万軍を擁する徳川将軍のそれとは思えない。上野寛永寺に蟄居謹慎、江戸城の無血開城、家督譲渡、駿府に隠退――それは、血筋の観念がなければ、尊攘倒幕派の大将でもあり得た水戸家出身の将軍だからこそできた歴史ドラマだったのだろうか。 8.西郷、大久保の死は木戸の怨念か? 木戸孝允が亡くなったのは明治10年5月26日、西南戦争のさなかだった。「西郷よ、もう大抵にせんか」と言って息を引きとったと伝えられている。 薩摩が会津と組んで謀った「8月18日の政変」で長州人が京を追われて以来、「池田屋の変」「禁門の変」と木戸の災難は続いた。そして但馬出石での苦しい亡命時代を経て長州に戻った後、薩長同盟の交渉時においては、木戸を招待しておきながら、薩摩は10日間も同盟の話を切り出さずに木戸を苦しめた。まるで長州藩の弱い立場を弄んでいるかのように――。 維新以降も大久保利通は政治的に木戸を圧迫し、征韓論で敗れた西郷隆盛は鹿児島に帰って私学校を設立するなど東京政府から独立したような状況を形成して、木戸の神経を苛立たせ続けた。 薩摩に裏切られ、薩摩に利用され、薩摩に振り回され、最後まで薩摩に苦しめられて木戸は逝った。同盟の相手ゆえ決別もならず、ついに薩摩の呪縛から解き放たれることのなかった木戸孝允の魂は、死後に西郷と大久保に取りついて二人を黄泉の国に誘ったのかもしれない(恐)。 つまるところ、この三人は、時代の創造者であると同時に、時代の犠牲者でもあったのだと思う。 9.坂本龍馬、八方美人外交の限界 最初の題は「龍馬がいなくても薩長同盟は成ったか?」だった。 ついでに答えれば「なった」と思う。なぜなら、それが木戸孝允(当時は木戸貫治)の意思であり、西郷隆盛の意思であったからだ。徳川幕府に滅ぼされないためには、どちらも相手が必要だった。そうした場合、仲介者は必ず出てくるもので、また、出てこなかったとしても、薩摩では黒田清隆、長州では伊藤か井上あたりが藩を代表して直接水面下で動いたに違いない。 歴史的にみれば、龍馬はわき役に過ぎない。わき役だからこそ八方美人外交ができたのだ。徳川幕府を倒すことを目的とする薩長同盟に加担した同じ人物が、徳川慶喜に「大政奉還」をさせるように画策する。現将軍も生かす道を考えるというのは、もちろん、土佐藩の立場も考慮してのことだろう。幕府側、倒幕側、両者が協力して新政府を樹立できると本気で考えていたとしたら、やはりわき役の立場の甘さと言わねばならない。 とくに長州藩は幕府を倒すか、幕府に倒され滅ぼされるかという、血みどろの戦いを繰り広げてきた(しかも日本中でたった1藩だけ! あとはみな佐幕派か、権力を恐れる日和見主義の藩ばかりだった)。 幕府側の勝海舟を師とあおぎ、そちらにも配慮しなければならなかった坂本龍馬の限界がここにあったわけで、龍馬の歴史的役割は薩長同盟の仲介で終わっていたのかもしれない。 龍馬には最後まで「倒幕」の姿勢を貫いて、木戸孝允を支えて欲しかった、と個人的には思う。それでも龍馬の自由な生き方は好きですが。 10.広沢参議暗殺事件について 明治4年1月9日、時の参議広沢真臣が麹町富士見町の私邸で刺客に襲われ、おびただしい流血のなかで絶命した。享年39歳。咽喉部を二か所えぐられ、全身には切り傷が十か所もあったという。 一緒に寝ていた愛妾の福井かねは無事だったが、のちに広沢家の家令起田正一郎とともに捕えられた。起田とかねが密通しており、主家の金を使い込んでいたことで嫌疑がかけられたらしい。だが、明治8年に再審が行われて、起田とかねは無罪となり釈放された。それ以後も広沢の暗殺者はついに発見されなかった。 広沢暗殺の黒幕は木戸孝允だという俗説がある。佐々木高行の日記に書かれていたらしいが、要するに長州閥の権力争い、ということなのだろう。 しかし、木戸はそんなに度量の小さな人物ではない。 第一、木戸には広沢を殺す理由がない。木戸は自分が望めばいつでも参議になれる立場にあった。大久保などは広沢が木戸の代りに参議になっているにもかかわらず、なんとか木戸を参議にしようと、いろいろと苦労しているほどである。木戸はむしろ広沢に自分の代わりを務めさせて、自由に行動したいと思っていたようなふしがある。 長州は幕末にたくさんの人材を失っており、広沢は木戸の貴重な助力者だった。広沢がいなくなって困るのは木戸自身なのである。剣を抜いて敵さえ殺さなかった男が、味方の長州人の暗殺を謀ったなどとは考え難い。こうした疑惑の説を支持して得意げに論ずる輩は、木戸についてたいして興味もなく、研究もしていないのだろうと思われる。 確かな裏付けもなく、亡くなった人の名誉を平気で傷つければ、自らの名誉と信用にも傷がつくことになるのではなかろうか。 |