10. 維新後、なぜ多病になったのか?
維新以降、木戸はさまざまな病気に悩まされている。 生家の和田家は父親を除いて早世する人が多いようだ。長女の異母姉捨子は木戸が9歳の時に亡くなり、実母清子と二女の異母姉八重子は彼が16歳の時に亡くなっている。「松菊木戸公伝」の和田氏略系には女性の享年は書かれていないが、おそらく皆、40歳前後だっただろう。妹治子も明治8年に木戸より早く他界している。 木戸も少年時代は虚弱体質で、母と姉八重子が相次いで亡くなった時には、悲嘆のあまり自ら病気になって、快癒するまでに半年近くを費やしている。成人してから体質がやや改善されたのは、斎藤弥九郎道場の塾頭になるまで厳しい剣術の稽古で鍛えられたからだろうか。勤王倒幕の大目標を達成するという精神的な緊張感も、病気を跳ね除けるのに役立ったに違いない。 だが倒幕を果したことによる安堵感や維新政府への失望感は、それまでの過酷な体験の影響もあって、木戸を少年時代の腺病質に戻らせてしまったようである。彼は沈着冷静にみえて、実際はきわめて感情家で神経質なところがあったから、多病の原因は勤王志士としての活動中にも、木戸の体内ですこしずつ育っていたのだろう。 木戸の病歴について以下にあげてみよう。 脳病 − 維新以降、たびたび頭痛に悩まされている。 歯痛 − 明治3年に歯を9本抜く。このとき、木戸はまったく健康に自信を失い、「自分の余命はあと10年ともたないだろう」と岩倉宛の手紙に書いている。 左足の麻痺 − 明治6年に馬車の事故で肩と頭部を強打した。10数日後に、左足が麻痺し、頭痛で眠れない日が続いた。 痔疾 − 外遊中に、環境と食べ物が変ったせいか、痔に苦しむ。米国では温泉に入ったり、トルコ風呂に通ったりする。ロシアでも蒸気風呂に入っている。 胸痛 − これも持病だったようだ。亡くなる前には激痛に苦しむ。木戸の死因は胃がんだったらしい。 木戸の脳痛治療について、小説「桂小五郎」(古川薫著)に興味深い話が載っている。明治2年5月に木戸は岩倉具視に奨められて、オランダ人医師ボードインの治療を受けた。木戸が岩倉に書いた手紙によると、治療にはヒールが使われた。「ヒール」とは蛭(ひる)のことで、魚介類や人畜の皮膚に吸着して血を吸う。医用蛭に使われるのはチスイヒル(血吸蛭)という。注射器のない時代は、この医用蛭を患者の皮膚に吸いつかせる方法をとった。今でも医用蛭を使う療法があるらしい。蛭は人間の皮膚に吸いつくと同時に、ヒルジンという血液凝固を妨げる物質と、血管の拡張作用をするヒスタミン様の物質を唾腺から出し、吸血と共にこれを人間の体内に注入する。木戸の治療に使われた蛭はなんと、156 匹だったという。 「自分の白い肌に取りついたおびただしい蛭が、吸い込んだ血にふくれあがっていくのを、表情をゆがめて凝視している木戸の哀れな姿を想像して……」(小説中の記述) なんだか想像するのも痛々しい。こんな身体で木戸が明治10年までなんとか生き延びたのは、目に見えない力が働いたとしかおもえない。西南戦争で西郷軍に包囲されていた熊本城に官軍が入城して、勝敗の行方がみえてきてから木戸は亡くなっているのだ。 生国・鹿児島を敵にしなければならないという、苦しい立場にあった大久保利通も、木戸が病床に臥しながらも、そこまで生きてくれたことは心強かったに違いない。大久保が最後まで木戸を放したがらなかったゆえんであろう。 |