[小説・木戸孝允]

明治六年秋

プロローグ

 明治六年九月十三日朝、アメリカ郵船「ゴルテンエン」号が晴天の横浜港に着船した。この船には上海から岩倉使節団一行が乗り込んでおり、一年十ヶ月もの長期にわたる米欧視察の旅を終えて、ようやく出発地にもどってきた。だが、船を降りる岩倉具視大使や副使の伊藤博文に晴れやかな笑顔はみられない。およそ二年前、留学生を含め百名を超える使節団に十九発の祝砲がうたれ、おびただしい見物人の歓声に送られて、三本マストの大型船アメリカ号がもうもうと黒煙を吐きながら同じ横浜港を華々しく出航したときと今日の状況は明らかに違っていた。

 外遊中、また、これより先に長崎、神戸に寄港した際にも、頻々と入ってきたさまざまな筋からの情報によると、どうやら留守政府は想像以上に手が付けられない状態になっているようだった。幕末以来の懸案であった条約改正交渉がまったく失敗に終わったことや、帰国が一年近くも延びたことに加えて、詐欺まがいの外国銀行の倒産で大勢の使節団メンバーは預金を失い、大金を費やした割には目にみえる成果を挙げられなかったという事情が、使節団首脳の国内における政治基盤を弱体化させたことは否めない。
 国内外に山積みする問題を抱えながら、先に帰国した大蔵卿大久保利通も参議木戸孝允も、岩倉が帰国するこの日まで、なにひとつ政治的な活動をしていなかった。木戸は帰国後に健康を害したこともあって、憲法制定の意見書を提出した以外には、閣議にも出席せず、ほとんど自宅に閉じこもったままであった。大久保もまたこの時期、東京にはいなかった。

「大久保はまだ東京に戻っとらんのか」
 出迎えの者が小声で説明しようとする前に、岩倉は眉根を寄せてせわしげにたずねた。
「はい。八月中旬に休暇をとって現在、近畿方面に行っておられるようです」
「休暇か。で、木戸はどうだ」
「ご病気とかで、帰朝時を除いて正院には一度も姿をお見せになっておりません」
「うーむ」 岩倉は渋い顔をして、傍らの男に話しかけた。
「伊藤君、木戸とはどうなのだね」
「ええ、明日、木戸さんのところに帰国の挨拶に伺おうと思っています」
 岩倉のたずねた言外の意味を、伊藤は察している。
「それがよかろう。なんとか機嫌を直してもらわねば困るからな」

 最初の訪問国アメリカに向けて出航した際には、ひとりだけちょん髷を結い羽織袴の和装だった岩倉も、帰国した今は断髪して洋装になっている。姿ばかりでなく、気持ちのあり様も変わった。それは使節団のメンバー全員にいえることでもあった。西洋文明の圧倒的優位には、文明開化の先駆的役割を担ってきたここ横浜でさえも、到底たちうちできる水準には達していない。かつて横浜は半農半漁の寒村であったが、安政六年(1859)の開港以来、港と町を整備し、各地から商人を集め、外国人居留地を建設し、欧米人とともに雑役や通訳をする清国人が多数移り住むようになった。鉄道や電信はいうまでもなく、ガス灯、ビール、アイスクリーム、石鹸、洋式水道、下水道、日刊新聞にいたるまで、すべて横浜が発祥地となった。 明治五年には新橋−横浜間に鉄道が開通しており、岩倉らはこの鉄道を利用して東京に戻ることになった。
「それにしても長すぎたな」

 久しぶりに日本の景色を車窓からぼんやり眺めながら、岩倉はひとり言のようにつぶやいた。伊藤はなにかばつが悪そうにうつむき、いつになく黙りがちであった。帰国が大幅に遅れた主因が自分にあることを、改めて意識したのだろう。木戸との仲がおかしくなったのも半ばは彼の軽挙が原因だったのだから、伊藤自身がなんとかしなければならなかった。すべては明日だ――伊藤は自らを励ますように心で言い、唇をきゅっとかみ締めた。

(一) 木戸孝允の肖像

 いつものように杉村修一はアトリエ代わりにしている木戸邸の七畳ほどの板の間でキャンバスに向っていた。すこしはなれた壁ぎわには洋装の木戸孝允がゆったりとした様子で肘掛椅子にすわっている。杉村が描いているのは日本画ではなく、まだこの時代にはめずらしい油絵だった。みたところ、木戸をモデルにしているようである。ワイシャツにズボン姿のこの画家はつい最近まで南画を描いていたが、パレットにチューブ入りの西洋絵の具を押しだす手つきや、画布に筆を走らせる仕草などをみると、どうみても新進の洋画家である。だが、しばらくするとほっとため息をひとつ吐いて、筆を動かす手をとめた。

「だめだな。今日はもうこれでおしまいにしよう」
 なにかしら夢から醒めたような表情をして、モデルの男は目の前の画家に視線をむけた。
「どうした。無意識に動いていたかね」
「いいや、動かない。モデルとしては完璧だよ。しかし――」
 言葉を切った相手に木戸は、
「しかし、なんだ?」
 と先をうながした。画家は探るような目つきで質問者を凝視した。
「心がどこかへとんでいる。表情が死んでいるのだ。魂をうしなったぬけ殻みたいに」
 返事はなかった。いや、図星を指されて声が出てこない、というような様子だった。
「君は、どこにいても政治のことが頭からはなれないようだな」
 杉村の微苦笑は、ある種の同情を含んでいた。
「そんなふうに見えるのか」
「ああ、見える。もろに見える。そんなに心配なら西郷と直接話し合ったらどうだい」
 木戸の心配ごとがなんであるのか、杉村は十分に察していた。
「――無駄だよ。もう誰もあの人を止めることなんて、できやしない」
「そうかな。でも、岩倉公はまもなく帰国されるだろう。これからが踏ん張りどころじゃないのか」
「さあ。とにかく、僕はもう隠退するつもりだから」
「また、隠退か。君の隠退病はそうとう重いようだが、みな認めはしないだろう。とくに岩倉公、それに大蔵卿――」
「それより、杉村。君もそろそろ官職に就いたらどうだ。いつまでも僕の秘書兼雑用係をしていても仕方がないだろう。絵は趣味でつづけてもよいのだし」

 話題を変えたかったのか、木戸は突然、相手にしかるべき仕事に就くことをすすめはじめた。
「官職? いいや僕にその気はないよ。君とは若いころから競い合い、成功した者が負けた者の面倒をみるという約束だったじゃないか。木戸邸に寄食して、好きな絵が描けるなら何もいうことはない。新政府に勤めるよりよほど気楽だね。もっとも松菊が迷惑だというなら出て行くよりほかないが」
「とんでもない。君がいろいろ家や僕個人の用事を足してくれて、こちらは大いに助かっているよ。今のままで満足だというなら、僕は正直いってありがたいのだ。実際、君がいなかったら文人たちとの連絡や書画・骨董品集めにも支障をきたすだろう。いや、それ以上に、遠慮なく話せる相手をうしないたくはないよ」
「それじゃあ、僕もすこしは役立っているわけだな。それはよかった。君の大事な骨董品と同じぐらいの価値はあるかな」
「なんだい、変な比較をして。もちろん、それ以上さ。僕たちは練兵館で剣術修業をしていたころからの親友ではないか」
 杉村はすこしのあいだ返事をひかえて、じっと相手をみた。
「どうした」
 怪訝な表情で木戸がたずねた。
「いや。この絵だがね。もうだいぶ完成に近づいている。ちょっと見てみるかい」
「見てもいいのか。完成までは、見ないでくれと言っていたのに」
 意外な面持ちでモデル本人が確認するようにきいた。
「ああ、構わないよ。あとは細かい陰影を出すだけだから。洋画はね、そこが特徴なんだ。もっとも君はむこうの絵画をさんざん見てきただろうが」
 木戸は椅子から立ち上がった。だが、すぐにバランスをくずして倒れそうになった。
「おっと、あぶない」
 杉村が走りよって、両腕で木戸を支えた。
「ほら、ここに杖。怪我をしてからまだ間がないから、気をつけなくては」
「ありがとう」

 木戸は杉村が差しだした杖にすがった。八月下旬に馬車に乗っていた彼は、馬が突然なにかにおどろいて棒立ちになり、そのはずみで馬車から放り出され、肩と頭を強打するという事故にあっていた。それ以来、左足が麻痺しており、今も完治していなかった。さらに、体調が悪いときには頭痛の症状をともなった。まったく不運としかいいようがないが、そのことが彼の隠退志向を強めてしまったようでもあった。
 杖にすがって数歩あるいて近づいたキャンバスを木戸はのぞきこんだ。はっと顔色が変わるのを、杉村は見逃さなかった。しばらく絵をみつめたまま、モデルは言葉を発しなかった。
「どうした。気に入らないのか」
 画家の問いかけにすぐには答えず、木戸はキャンバスからはなれて窓のほうにむかうと、室内に背をむけて立った。
「気に入らないね」
「どこが気に入らないのだ」
 相手のことばに気を悪くした様子もなく、画家は好奇心を表情ににじませてたずねた。
「若すぎる。まるで書生だ。これは僕ではない」
「いいや、君だよ。僕は自信をもっていえる。昔から君を知るものなら、すぐにいうだろう。たしかにこれは木戸孝允、いや桂小五郎である、と」
「だから、違うのだ」
 木戸はやや語気をあらげて反駁した。
「どうして? 木戸孝允と桂小五郎は同一人物ではないか」
「杉村」相手を睨みつけながら、
「なんのために僕をモデルにした。そんな絵ならモデルなどいらん。頭のなかの想像だけで描けるじゃないか」
「そうはいかない。絵に魂を入れるには、生きた君の表情をうつさなくてはならないからね。それにしても――」
 杉村は首をかしげた。
「そんなに気に入らないのか。ちょっと意外だったな。だって、もう一度よく見てくれよ」
 言いながら、杉村は絵の正面にまわった。たしかに若い。どうみても絵のなかの男は二十歳そこそこにしか見えない。象牙色のなめらかな額、まっすぐに伸びた覇気ある眉、高い鼻梁、紅みをおびた形のよい唇、長い睫毛が影をおとす涼しい目元、瑞々しい桜色を刷いた肌――まさに理想的な西洋風の美青年がそこにはいた。幕末の若き剣士が、明治の現代に断髪の洋装姿でよみがえったかのような初々しい雰囲気の肖像画だった。ただ、眉間のあたりに翳があり、かすかな憂いをよみとれるのは、現在、四十過ぎの生きたモデルの雰囲気をうつしているようでもあった。

「自分で言うのもなんだが、悪くない出来だと思う。前から考えていたのだ。あのころの君をぜひ絵に描いておきたい、と」
「なんの目的だ。たいして意味もないことではないか」
「意味はあるさ」
 画家はふっと唇をゆるめたが、すぐに真顔になって、
「君に思い出してほしいのだ。むかしの勤皇志士の情熱を、理想を追いもとめる青年剣士の覇気を――なにか悲観ばかりしているこの頃の君に活を入れたいと思ってね。病気がちの君には負担になるかもしれないが、まだ仙人の心境になるような歳ではないだろう」
「……」
「小五郎と呼ぶといやがるから、もう小五郎とは呼ばないよ。だが、君がどう変わろうと、あの頃だれもがあこがれた斎藤道場の若き塾頭は、ここにいる木戸孝允のむかしの姿にほかならない。おもえば、僕はあのときすでに負けていたのだ。江戸に出てわずか一年かそこらで、君は練兵館の筆頭剣士に駆けあがり塾頭にまで抜擢された。斎藤先生は師範代などおかない主義だったのにな。まさに『わが弟子来たり』と思ったのか、よほど桂が気に入ったのだろう。君にはそんなふうに昔から人を惹きつける魅力があったし、いまも朝野を問わず大勢の者たちが君に期待している――」
「むかしの話は聞きたくないね」
 相手の話をさえぎるように、木戸は少々いらだった声をあげた。
「それにかこつけて、説教じみた話もごめんだよ。はっきりいって、もう薩摩の連中とはつき合いたくないというのが本音なのだ」

 幕末以来、長州藩は薩摩の動向に振りまわされてきたという思いが木戸にはあった。味方かと思ったら敵になり、長州藩士が薩摩への憎悪をつのらせれば、薩長連合の話がもちあがり、木戸はその実現にむけて藩内で非常に苦労したのだ。
 戊辰戦争の際にも、江戸に跋扈する幕府がわの彰義隊が官軍の兵士を次々と殺害しているときに、薩摩の大将西郷隆盛の思惑がどうもはっきりしなかった。あのとき、大村益次郎を江戸に派遣して軍事を任せていなかったらどうなっていたか。木戸が頼みとしたその大村も、明治二年に出張先の京都でなに者かにおそわれ、そのときうけた傷が致命傷となって亡くなっている。それも大村を逆恨みした薩摩の者が関与していたらしいのだ。

 そして今度の留守政府の征韓論である。朝鮮は幕末の日本と同じように鎖国政策をつづけており、再三にわたって日本が求めてきた国交樹立の交渉を拒否していた。朝鮮は日本が開国して洋化政策をすすめていることが気にいらず、昔にもどらないと外交は正常化できないと主張していた。こうした朝鮮の態度をけしからん、無礼だ、という声が留守政府首脳のあいだに高まってくると、西郷がこの問題を自分で解決したいと主張して遣韓使節の任命を望んだのだ。
 そして彼の希望どおり八月十七日には閣議で西郷を朝鮮に派遣することが内定し、最終的には岩倉大使の帰国を待って正式に決定されることになった。したがって、木戸や大久保ら反征韓派ばかりでなく、平和交渉を建前とする西郷(陸軍大将)や最初から兵を動かすべきだとする板垣退助(参議)、副島種臣(外務卿)、江藤新平(参議・司法卿)ら留守政府の征韓派も岩倉の帰国を待っていた。

 木戸は西郷の行動を不安視していた。西郷の背後には大勢の不平士族がひかえている。それに外遊前は西郷、木戸、板垣、大隈という薩長土肥各一名ずつの四名が参議メンバーだったが、木戸らが留守中に江藤(肥前)、大木喬任(肥前)、後藤象二郎(土佐)があらたに参議にくわわり、肥前三名、土佐二名となって、各藩のバランス人事が完全にくずれていた。留守政府の参議に長州人はひとりもいなかったのだ。自分が閣議に出席して、ひとりで征韓に反対したところでどうにもならないという諦めもあって、木戸は「征韓反対」の意見書だけは提出したが、積極的な反対運動は起こしていなかった。

 外遊前は木戸自身、征韓論を唱えていた時期もあったが、これは亡くなった吉田松陰や幕末から木戸としたしい対馬藩の大島友之允の意見による影響が大きかった。だが、欧米を視察してその文明、技術力の高さに圧倒されて、征韓どころではなくなってしまった。彼はみずから学んでその間違いを悟れば、それまでの論理にこだわらず軌道修正できる政治家だった。しかし大抵の士族は征韓論に走っており、武力行使も辞さない勢いをみせていた。しかも遣韓使節になったのは士族に人気のたかい西郷である。このままいくと武官が政治に介入してくるおそれがある、と木戸は警戒していた。

 木戸の悩みはそれだけではなかった。二、三の長州人が不始末をして、裁判沙汰にまで発展している事件をかかえていた。しかもそれが薩長の分裂、長州閥の打倒を企図する者たちに利用されて、泥沼化の様相を呈していたのである。
 征韓論もまた政権奪取をもくろむ薩長出身者以外の留守政府メンバーに利用されているようなところがあった。長州人は木戸を筆頭に、山県有朋など武官もふくめてみな征韓には反対していた。
 いったい西郷はそれに気づいているのだろうか? 土肥出身の参議の策謀に気づいていて、また長州を裏切るつもりなのか――。木戸の薩摩人への疑心暗鬼は今にはじまったことではなかった。
「君の気持ちはわからないでもない。幕末以来の経緯を考えれば、薩人への警戒心が解けないのも無理はないとおもう。ちょっと人ごとのような言い方で申し訳ないがね。だが――」
 杉村は窓辺による木戸にちかづいて、言葉をつづけた。
「いまは、確実に味方である大久保と早急に手を結ぶべきではないのか。彼も留守政府のやり方には相当憤っているはずだろう」
 木戸は戸惑ったような、共感したような複雑な表情をして相手をみた。
「どうして積極的に大久保と接触しようとしない。今は休暇中で東京を留守にしているだろうが、もどったら彼を呼んで、今後の対策を二人で話し合うべきではないのか」
「……」
「外遊中に大久保となにがあったのか知らないが、いや、おおよその察しはつくがね。今は仲たがいしているときではなかろう。西郷を相手に互角の勝負ができるのは、あの男以外にいないことは君にもわかっているはずだ」
「……」
「どうしてそんなに薩摩を毛ぎらいする。そりゃあ文久年以来のことを思い起こせば、長州はひどい目にあった。滅亡の一歩手前まで追い込まれたからね。たしかに彼らに信義はなかったが、薩摩には薩摩の事情があったのだろうよ」
「杉村!」
 木戸の声はあきらかに怒気を含んでいた。
「君はいつから薩摩の弁護人になった。僕はべつに薩人を憎んでいるわけではない。憎んでいるなら、こうして同じ政府になどいないよ。ただ――」
「ただ?」
「ただ――胸がいたいだけだ」
 そう言って木戸は黙りこんだ。彼の眼にかすかに涙がにじんでいるのに気づいて、杉村もまた沈黙した。木戸は窓辺からはなれると、コツコツと杖の音をひびかせてまたもとの椅子に近づき、そのまますわりこんだ。もう言葉をかわす気配もみせず、眼を閉じて、ふたたび自分だけの世界にもどってしまったようだった。その面はまだ十分に秀麗ではあったが、額や目尻にしわが目だちはじめており、肖像画にみるような瑕ひとつない透明な肌や凛とした美貌のおとろえを感じるのは、二十数年の時の流れを考えれば無理のないことだった。
 ましてこの長州のトップリーダーは、かつては幕府のお尋ね者として追われつづけ、どん底の生活を味わい、数多の仲間の死に遭遇し、みずからも生死の境に身をおき、奇跡的に絶望のふちから這い上がってきた男だった。そして目的の実現のためには、あえて昨日の敵と手をにぎることさえ厭わなかった。

 だが、それによって彼は長州藩の代表として、あきらかに自分とは気質のちがう薩摩人、とくに大久保利通とのさまざまな軋轢に堪えなければならなかった。彼は封建・反動勢力の巻き返しをおそれ、新政府を守るためにじっと堪えつづけた。堪えに堪えることが彼の重要な使命であるかのように。そして今、堪えることに疲れてきたとしても、だれが彼を責めることができただろう。杉村も木戸孝允の「堪える人生」の生き証人ではあったのだ。
 杉村は堪え疲れた志士にちかづいて、その前に跪くと、相手の左手に自分の右手をかさねた。
「わかっている。君がだれよりも薩摩を受け入れてきたことは。そして亡くなった同志たちのことを想って、つねに心を痛めていることも。君の繊細な神経が君の肉体をむしばんでいるのは実に痛ましいことだ。そう、このしがらみから解放されれば、君も健康を取りもどせるかもしれないね。僕はもうなにも言わない。君の望むとおりにしたらいい。ただ、この肖像画だけは完成させてくれないか。君がアメリカから送ってくれた画材一式、だれのためでもない、君のために使いたいのだ。そして、いつかきっと君もこの絵が気に入ってくれる日がくることを、僕は祈っているよ」
 木戸はうっすらと眼をあけ、友をみた。九月にはいったとはいえ、まだ残暑の熱気が部屋をつつみ込んでいた。額ににじむ汗にぬれた前髪を、彼の肖像画家は腕をのばして払ってやった。
「――熱がある」
 そのまま手を相手の額に当ててみた杉村は低い声でいった。
「なに、微熱だよ。いつものことだ。たいしたことはない」
 弱々しい微笑を口元にうかべて木戸はこたえると、友の腕をつかんで自分の額から押しやった。彼は眼をそらして天井をあおぐと、ふたたび今の混乱した政情に思いを馳せるかのように眉根をよせた。窓辺にはいつのまにか西日が差しこんで、部屋に赤い影を落としていた。

 政府のこの危機を乗り切るためには――木戸はひとりの男の冷厳な横顔を思いうかべた。やはり大久保に頼るしかないか。彼を参議にして西郷と対決させなければ、どうにもなるまい。
 だが、大久保が親友の西郷と本気で対決してくれるのか、木戸には確信がもてなかった。


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