[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(十五) 大逆転 ― 岩倉の啖呵

 その夜、木戸は明け方まで憂うつな想念に悩まされ、眠りにつくことができなかった。止めても、止めても、押し寄せる洪水のように、これまで築き上げてきたものすべてが自分もろともに流されてゆくような、おぞましい予感。どこにたどり着くとも知れない激流に呑み込まれ、再び悪い夢が甦る――あの日もそうだった。木戸は京都にいて、不安な想いを募らせていた。長州藩は追放処分の撤回を朝廷に直接訴えようと、出兵の準備をしていた。長州の藩論が沸騰したのは、池田屋で会合していた同志が新撰組に襲われて斬殺されたという一報がはいったときだった。

 木戸は出兵を懸命に止めようとした。いま暴発したら、幕府に対抗するため、各藩の連合をめざして奔走してきたこれまでの努力が水泡に帰する。なんとか自重してほしい、という自分の思いもむなしく、長州藩は京都近くまで出兵したのだ。しかし京都には入らず、朝廷から赦免を得ようと交渉した。だが、その交渉の先には戦闘しか残されていなかった。慶喜も、薩摩も、首を縦に振るはずもなかったのだ。あの当時、薩摩藩は八・一八政変以来の政敵だったのだから、もはや交戦は避けがたかった。そして、大勢の同志を失い、小五郎の運命も激変した。人生最大の危機を迎えたのだ。幕府方の追手が迫る京都からの逃避行、出石(兵庫県)での潜伏生活。長く、重く、苦しかった失意の日々……

 あれから何年経つのだろう。九年、十年か? あのとき、出兵を止められなかったことを、いまさら悔いてもしかたがない。しかし、久坂を、入江を、来島のじいさんを、死なせてしまった。大勢の同志たちを失ってしまった。それを思えば、木戸の悲憤は幾たびも再燃した。止めなくてはならない、と現実にかえって彼は心に叫んだ。西郷を止めなければ、また大変なことになるかもしれない。現状に不満を持つ士族たちは、かならずこの一件を奇貨として、征韓の論を煽るだろう。一度点いた火は容易に消しがたい。西郷一人の問題ではないのだ。
 鬱々とした想いを抱きながら、過去と現在が混濁するまどろみのうちに、木戸の意識は夜明けまでさまよいつづけた。

 岩倉が三条太政大臣の代摂として出席する閣議の開催は十月二十三日に決定された。いよいよ維新政府の将来を決する運命の時が迫ってきた。征韓派か、反征韓派か? どちらが勝利するかはひとえに岩倉の双肩にかかっていた。その前日に、大久保は岩倉に手紙を書いて送っている。別件について記した後、

 さて、明日の處、国家安危に係わる御大事、只々御一身に基する一挙と存じ奉り候。さり乍ら、不抜の御忠誠、必ず御貫徹あらせられ候ことと、毫も疑いを容れず候。

 この件(くだり)を読んだとき、岩倉ははっと顔色を変えた。疑われている、と彼は思った。自分は大久保に疑われている。大久保は釘を刺したのだ。これほど信頼しているのだから、まさか裏切ったりはしませんよね、と――。最後の一手をけっして控えたりはしない。勝敗が決する直前まで、ありとあらゆる手を尽くす。大久保とはそういう男なのだ。
 胸の動悸を感じながら、彼は天を仰いで一呼吸すると、気持ちを整えるように眼を閉じた。もはや逃げも、隠れもできはしない。大西郷を正面からしっかりと受け止めなければならない。なにが起ころうとも、明日という日は確実にやってくるのだから。そんな心の準備をし始めた矢先、その同じ日に岩倉にとっては思いがけないことが起こった。

 いま、岩倉邸の応接室には四人の客がいる。その客とは西郷、板垣、副島、江藤で、いずれも今回の朝鮮問題に重要なかかわりを持つ現職参議である。閣議が開かれる明日まで待てなかったのか、突然の来訪であった。岩倉の正面に対座したのはほかならぬ西郷であり、その大きな目玉で射抜くように相手を見据えていた。
「さて、四人おそろいで、今日はいかなる御用かな」
 落ち着いた口調で岩倉がたずねた。
「すでに察しはついておられようが――」と西郷が口を切った。
「三条卿がにわかにご病気になり、遣使についての上奏が遅れ申している。かような国家の大事をいつまでも放擲しておくわけには参りますまい。閣下においては明日にも三条卿に代わって宸裁を仰いでいただきたい。一同相談のうえで参った次第です」
 その眼力に加えて、西郷の風貌には威圧感があった。しかし、岩倉は西郷をしっかりと直視して、
「拙者の意見が三条卿と相違するのはご存じですな。今は勅命を奉じて太政大臣の職務を遂行するのだから、拙者の意見も併せて奏上せねばならぬ。それ故、卿らはしばらく勅答の下るのを待たれるがよい」
 なんら臆する様子もなく、きっぱりと言い放った。
「それはおかしい」 と、口を挟んだのは江藤新平だった。
「代任者は原任者の意見を遵奉するものではありませんか。両者の説を併せて奏聞するなどとは、はなはだおかしなこと。聖上は聡明といえどもようやく二十歳を出られたばかり。かくのごとき大事に対し、両説を具えて可否を陛下に委ねるは、国務の責任を負う大臣のなすべきことではございません」
 江藤の意見ももっともと思われたが、岩倉は屈しなかった。
「拙者は三条公に代わってこの職に就いたのではない。勅諚を奉じて太政大臣のことを摂行するのだ。拙者の意見を併せて具奏しても、なんの不都合があろうか」
 ここにおいて大久保の秘策は岩倉の言い分に理を与える役に立った。宮内省を動かし、天皇の岩倉邸臨幸を実現させたことが、からくも岩倉の今の立場を肯定する根拠になったのである。岩倉はさらに、
「大臣参議、各々みな意見が異なれば、宸断を仰ぐほか決定できぬではござらぬか」
 岩倉の言い分に、西郷がまた口を開いた。
「遣使のことはすでに三条卿からの内奏により、ご裁可が下ったことでありましょう。それを今さらご詮議なさるのは、かえって聖意に背くことになり申さぬか」
「なんといっても、拙者はご再議に附する」
 即座に岩倉が言葉をかえした。
「たとえそうした経緯があっても、不善と思えば諫奏してもお止め申すのが、輔弼の大任を受けるものの責任でござる」
 一同騒然となり、江藤に加えて、副島、板垣も交じってしばらく激論が戦わされたが、岩倉は頑として動じる気配もなかった。それどころか、ついに、
「拙者の眼睛の黒いあいだは、卿らの好きなようにはさせぬ」
 世に名高い啖呵を切った。これを聞いて西郷は、もはや岩倉を論駁することの不可能を悟った。
「すでに事は決した。これ以上、わしらにはいかんともし難い。もはやこれまででごわす」
 西郷が座を起ち、辞して立ち去ると、他の三人も急いであとにつづいた。門を出るとき、西郷は三人を振りかえって、
「右大臣、よくも踏ん張いもしたな」
 口元に笑みをこぼして、相手の勇気を称えた。敵ながらあっぱれ、という西郷なりの感慨だったのだろう。当時、傍観的立場にあった佐々木高行が残した日記には、「岩倉はにわかに今弁慶となりたり。これも畢竟、大久保・木戸の後ろ盾ある故なり、と西郷は語りたるよし」と記されている。

 四人の手強い参議が立ち去ったあと、岩倉はほーぅ、と息をついで、椅子に座りなおした。右手の指をそろえて瞼をおさえ、しばらくもむように動かしていたが、やがて両手をだらりと下げて天井をあおぐと、ひとり言のようにつぶやいた。
 大久保よ、どうだ、これでいいか? いや、上出来だと言ってほしいね。

 彼は大久保から手紙をもらったあと、すぐに返事を書いていたのだ。

――明日云々のこと敬承。不肖、実に恐怖の至りに存じ候えども、不抜の一心、必ず貫徹の覚悟、決してご懸念下されまじく候。

 岩倉の征韓派に対する重要な任務は、明日を待たずに果たされた。彼は手紙のとおり、大久保への信義を守ったのである。


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