[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(二十) 明治六年秋が過ぎて − もう一枚の肖像画(最終章・後編)

 木戸、政府を去る
 
 木戸に発せられた、宮内省出仕を仰せ付ける、という辞令には、「ただし一等官給を賜り、席順の儀は旧のごとくたるべき事」という但し書きがしてあった。要職をはなれても待遇は変わらないわけで、宮内省出仕では辞退もしづらかった。皇居に出かけてみれば、日々出勤し補佐するように命ぜられ、帰宅すれば来客が山のようにやってくる。これでは辞表をだした意味もなく、どうしたものか悩んでいる間にも、山田やら、三浦やらが軍事上のさまざまな情報を伝えにくる。要するに、役職が変わっても、周囲の環境はなんら変わることはなかったのだ。

 すでに三千を超える軍兵が台湾に渡っている状況下にあって、このまま政府内にとどまっても自分の意見が通ることはなく、むしろ新たに協力を求められるおそれがあった。木戸と同様、大方の長州人は台湾出兵には反対の立場をとっていた。清国との関係が悪化して、開戦になる危険性があったからだ。陸軍では未だ兵員の訓練が十分でなく、武器も整っていないという理由で山縣が反対し、木戸直系の山田、三浦、鳥尾(みな、陸軍少将)は、のちに木戸のあとを追って辞表まで提出している。

 こうした日本軍の行動にはアメリカ、イギリスも神経を尖らせていた。本国は中立の立場でも、日本軍に協力するアメリカ人もいたからで、イギリスは日清開戦となった場合に、清との貿易におよぼす影響を憂慮していた。そして、紛争の当事国にあって、木戸は、もし清国と戦争になれば、多大な戦費をどうするのか、人民の困窮や内政の混乱なども予感して、悶々とした日々を過ごしていた。毎日、来客が絶えなかったので、骨董店や文人画家たちとの会合に足をはこび、趣味に興じて気を紛らすこともできなかったのだ。夜になって、ようやく客たちも去って解放されると、木戸は松子が淹れてくれた一杯のコーヒーでひと息ついた。

「お疲れでしょう。参議や文部卿をお辞めになっても、忙しさはそれほど変わらないのですから」
 木戸の外遊時のみやげ品である襟元にレースをあしらった西洋のドレス姿の妻・松子が夫の健康を気遣っていう。幾松と呼ばれた芸妓時代の美しさは今も変わらない。むしろ木戸夫人としての落ち着きと気品が加わって、毎日の接客もてきぱきとこなしていた。
「そうそう、先ほど杉村さんがお帰りになって、アトリエに入られましたよ」
「杉村が?」
「ええ、あなたにお話があるようでしたが、来客中だったので、お控えになられたようです」
「そうか、なんだろう」
 木戸は残っていたコーヒーを飲み干すと、起ち上がって居間からアトリエに通じる廊下に出た。ドアをノックすると、中から「どうぞ」という声がきこえたので、彼はドアをあけて、
「やあ、帰っていたのか。西洋画家たちの会合はもう終わったのかね」
 今朝、今日の会合について杉村が話していたことを思い出して、たずねた。
「ああ、終わったよ。実に有意義な会合だった。みな最新作を持ち寄ってね。品評会というか、鑑賞会というか――」
「ほう、それで君はなにを出したの」
「もちろん君の絵、つまり、若き桂小五郎の肖像画だよ」
 聞いたとたんに、木戸の顔色がさっと変わった。
「僕の肖像画だって?」
 ああ、そうだよ、と杉村がこたえると、
「あの絵をどうして品評会なんかに持ち出すのだ」
 憮然とした表情で、肖像画のモデルは文句を言った。
「どうして、だって? おいおい、あれはもう君のものでも、僕のものでもないだろう。交換したんだから」
「交換?」
「このあいだ君が、あの絵は交換しても、売却してもいい、と承諾したじゃないか。もう、忘れてしまったのか」
「僕が承諾した? そう、そうだったかな」
 思い出せないのか、木戸は首をかしげた。
「ほら、君が欲しがっていた藤田東湖先生の掛軸と交換条件だったから。君の肖像画を会合で披露したのは、骨董店の新しい持ち主さ。もっともあの絵は売却しない、と言っていたがね」
 木戸はなにもこたえずに、沈黙していた。
「いやあ、みんな、見ぼれていてね。手前みそになるが、なかなかの評判だったよ。最初はモデルが君だと気がつかなくて、誰かに似ている、どこかで見たことがある、とか言っていたな。それで、桂小五郎だよ、って教えてあげたら、あっ、と声をあげて、そうだ、木戸さんだぁ、って納得していた」
 笑いながら杉村が言うと、話題の絵のモデルは渋面をつくった。

 どうやら木戸は、自分がいつ肖像画と掛軸の交換を承諾したのか覚えていないようだった。佐賀の乱が結着したあと、彼は過去を葬り去りたいという思いにかられ、突然、肖像画のことを思い出したのだろうか。なかなか思い通りにいかない現在の状況では、昔の夢や理想を想起させるものすべてが重荷になり、衝動的に手放す気持ちになったのか。彼の潜在意識が微妙に働いて、問題の絵を排除しようとしたのかもしれなかった。
 だが、もうあの絵はここにない、という現実に直面して、多少の戸惑いも覚えていた。もはや二度と昔にかえることはできないとわかっていても、懐かしい想いが完全に消え去るものではない。愛しさと、厭わしさと、矛盾した感情が木戸の心を駆けめぐっていた。

「それで藤田先生の掛軸、もらってきたから君に渡そうと思ってさ」
 画家が踵をかえして、机上に置かれていた掛軸を取ろうとすると、いや、いい、とモデルは制した。
「今はいいよ。あとで見るから、そのまま置いておいてくれ」
 杉村はじっと相手を観察して、
「あはあ、やっぱり後悔しているんだな、あの絵を手放したこと」
「いや、後悔なんかしていない。ただ、今はなにかを鑑賞するような気分じゃないだけだよ」
「本当に?」
 杉村が上目遣いに相手を見て、問いかけた。
「ああ、本当だよ。あの絵を気に入った人がもらってくれたのだから、むしろ喜んでいる。後悔なんてするはずないじゃないか」
 木戸は顔をそむけて、暗くてなにも見えるはずのない窓の外に視線を向けていた。

 画家のほうは、机とは反対側に置かれた画架に近寄って、そこにかけられた白い布を見ていた。四角い形状から中には画布が置かれていることがわかる。まだなにも描かれていない白い画布なのか、それともすでに新しい絵が描かれているのかはわからない。
「ねえ、松菊。ここに、もう一枚の絵がある」
「なに、なんの絵だい。新しく描いた作品?」
 振りかえって木戸が聞く。
「ああ、そうだよ。つい先日、完成させたばかりの絵だけど、見たい? それとも見たくない?」
「なんだよ、もったいぶって。その布とってみろよ。見てやるからさ」
 笑いながら、木戸は友をうながした。
「よーし、決まった。それじゃあ、君の鋭い批評を聞かせてもらおうか」
 杉村も笑顔で応じると、画布をおおっている白い布に手をかけた。彼の手によって一気に布が払われると、ふたりの目前に真新しい絵が顕われた。沈黙があった。意外な、というよりはむしろ、凍りついた表情が木戸の言葉をうばっていた。それは人物画で、非常に若い、いや、十二、三歳の少年にみえた。その少年が誰であるのか、木戸は一瞬にして悟ったようだった。今は手元にない最初の肖像画に顔は酷似していたが、表情はさらにあどけなく、やわらかかった。しかし、両眼に宿る光は凛として、きりっと締まった唇には意志の強さが感じとられた。小袖に袴を着け、両手でつかんだ剣を身体の右横に掲げて、まさに凛々しい少年剣士といった印象だった。時代が現代でないのは明らかで、まだ幕末の動乱期を迎える以前であろうことは、その画全体にただよう無垢な雰囲気が語っていた。

 杉村がこの時代の木戸を見ているはずはないし、知ってさえもいないだろう。最初に自分が描いた洋装の青年・桂小五郎から、さらに若い少年をイメージして、まさに想像だけで描いたに違いなかった。練兵館時代の記憶をたどれば、それは画家にとって、それほど難しい作業ではなかったことは、作品の出来栄えをみれば想像できた。
「君があの肖像画を他者の手にわたす決意をしたとき、僕はこの絵を描くことを思いついたのだ。自分で描いたあの絵が手元にあるあいだに、どうしても少年時代の小五郎を描いてみたくなってね。もしかしたら、あの肖像画を手放したことを、君は後悔するかもしれない。それで、この絵を描いて、君のために残しておこうと思ったのさ。いや、もちろん、画家としての意欲もあったよ。自分のためでもあったのだけれど――」
 モデルの顔を見て、画家は口を閉じた。木戸の眼に涙がにじんでいるのを、杉村は気づいたのだ。木戸は昔を思い出していた。ふる里萩での生活、やさしかった母、厳しくも精いっぱいの愛を注いでくれた父、姉たちや幼い妹、今は亡き人たちを。

 乗馬や川あそび、友人たちとの様々な競争でけんかもし、ずいぶんやんちゃもしたけれど、今では何もかもが懐かしかった。木戸にとってはもはや、遠い、遠い、昔のことだったが、実際以上に年月の経過を感じるのは、幕末と、明治と、世の中があまりにも大きな変貌を遂げたからなのだろう。萩城をいただく指月山も、菊ヶ浜の白砂も、美しい日本海の景色も、城下の町並みも、みな幼い小五郎をはぐくみ、たくさんの思い出を与えてくれた。苦しいことよりも、楽しいことばかりが思い出されて、頬にひとすじ涙が流れてくるのを、木戸は止めることができなかった。
「父上、母上!」
 おもわず叫びながら、彼は幼い自分の姿が描かれたキャンバスに飛び込んで、自らの画像を抱きしめた。抱きしめながら泣いている男の姿を、これを描いた画家は感に打たれたように、ただ無言で見つめていた。やや経って、ようやくこの絵のモデルは涙をはらい、顔を挙げると、
「帰ろう。僕は帰るよ、杉村。萩に帰る」
「……」
「いろいろあったけれど、人生の原点にもどろうと思う。原点にもどって、自分を見つめなおしたい」
「――そうだね。それもいいかもしれない」
 静かな口調で杉村は友の言葉に同意した。
「そしてもう、二度と東京にはもどらない。もどりたくもない」
「君の思いどおりにしたらいい。僕はいつもそう思っているよ。もっと自分を大切にすればいい、ってね」
 言いながら、杉村は不安をおぼえていた。政府が彼を放っておくだろうか。なによりも、あの大久保が黙ってはいないのではないか。いずれ木戸を東京に連れもどそうと、あらゆる手段を講じるかもしれない。だが、それでも今は、彼の自由を祝福してあげよう。
「留守のことは心配しなくていい。僕がしっかり守るから」
「ありがとう、うれしいよ。君がもっとも信頼できる友で、いつも僕のそばにいてくれたこと、心から感謝している」
「なんだよ、改まって。照れくさいじゃないか。それより君の健康を祈っている。身体を大事にしてくれ。萩に帰っても、周囲が君をひとりにはしないだろうからね」
「まあ、うまく逃げる方法を考えるよ」
 木戸は微笑み、すこし間をおくと、
「この絵、描いてくれてありがとう。もう誰の手にもわたさないで、君が大切に保管してくれるね?」
「もちろんさ。君がいつでも見られるように。なんなら、いっしょに萩に持っていくかい」
「いや、君が持っていてくれたほうが安心するから。いずれ君も萩に来てほしいな。すべての始末がついたらね」
「ああ、いいよ。君が望むなら、どこへでも飛んでいくよ」
 そう言って、杉村は笑った。

 5月下旬、木戸は宮内省に休暇願を出して、松子夫人とともに山口にむけて東京を発った。昨秋は征韓論をめぐって政争が起こり、政府は大分裂した。木戸、大久保などの内治優先派が勝利したが、東京政府を揺るがす大嵐が完全に止んだわけではない。一見、穏やかにみえる海のむこうに新たな嵐が起こりそうな雲行きであり、国内でもまだ紛争の火種はくすぶっている。瓦解か、再建か、『日本丸』のかじ取りは、まさに綱わたりの状態であり、どちらに転ぶのか予断を許さない。この国の未来に希望はあるのか、いったい自分にできることがあるのか、木戸は国の現状を憂いながらも、いまは一歩身をひいて静観することを選択した。

 やがてまた、大きな内紛が訪れることを、彼はまだ知らない。明日のことは考えずにいよう。いまは懐かしい思い出の故郷(ふるさと)が自分を待っているから――。横浜から人力車に乗り込んだ木戸の憂いの眼は、無二の友・杉村が最後に描いた少年剣士・桂小五郎の澄んだ双眸にかえっていた。(「明治六年秋」 完)


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