[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(十九) 明治六年秋が過ぎて − 木戸、辞表を提出(最終章・前編)

 明治六年が明けて、明治七年一月十四日のこと、新政府が恐れていたことが現実に起こった。赤坂の仮皇居からの帰宅途上、岩倉が喰違の門外でなに者かによって襲撃されたのだ。夜八時ごろ、人気のない外濠の土堤を岩倉を乗せた馬車が通過しようとしたとき、闇の中で七、八人の人影がうごめき、「国賊!」という叫び声がした。すぐに馬のくつわに手を掛ける者がいたので、馭者がおどろいて「誰だ!」と叫んだ。すると別の者が馬車をよじ登って斬りかかり、もう一人が背後から白刃を幌に突き入れた。とっさに岩倉は身をかわして御者台にうつり、ころがるようにして地上に逃れた。馭者はすでに斬られて馬車から落ちていた。

 岩倉は眉間と左の腰を斬られて濠に転落したが、幸い浅手だったので、枯草の中に身をかくしてじっとしていた。刺客のひとりが左手に提灯を、右手に白刃を握って濠の斜面をかけくだり、岩倉を探し出そうとした。そのうち仮皇居の前で人声があがり始めると、賊は岩倉の探索をあきらめて逃走した。賊が立ち去った気配を感じて岩倉が濠から這い上がると、偶然通りかかった宮内省の役人に助けられ、ようやく仮皇居まで逃れることができた。

 事件はその夜のうちに全閣僚に報らされた。木戸はただちに見舞いの使者を岩倉のもとに送り、翌日には病身をおして四カ月ぶりに正院に出仕した。その夜から翌日にかけて、毛利元徳(旧藩主)はじめ杉孫七郎、山田顕義、山縣有朋など長州人の幹部たちが続々と木戸邸を訪ねてきた。彼らは木戸の身を案じて、万一の場合の警護について話に来たのだ。しかし、これは自分ひとりのことにとどまらない、国家の危機である、と木戸は思っていた。岩倉を襲った兇徒の背後には、征韓派、封建派、急進改革派など、どれほどの不平士族がいることか。事変の二日前には日本初の政党である「愛国公党」(創立メンバーは板垣退助、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平など)が結成されており、言論の力をもって改革を推進しようとする者たちもいたが、その賛同者であっても、いつ、だれが武断派に転じるかわかりはしなかった。

 木戸同様、大久保もこの事変を容易ならぬ国難ととらえ、ただちに大警視川路利良に命じて、犯人の探索にあたらせた。川路の指図を受けた大警部中川祐順が探偵を現場に派遣すると、兇徒の遺留品とみられる片方の足駄と手拭が落ちていた。調べてみると手拭は関西の品とわかり、周辺の聞き込みから、関西人士の多く居住する地域に昨秋の征韓論政変以来、辞職した者たちが集まっていることが判明した。さらに喰違付近の車夫間のうわさ話から手がかりを得て、犯人が土佐人であることを突き止めた。
 十七日には築地の宿に泊まっていた武市熊吉を捕縛、その後すぐに彼の弟喜久満ら四人を、二十一日までに計二十人(うち二人は放免)を収監した。そのうち九人については裁判を経て、五月二十九日に斬刑が確定し、七月九日には刑が執行された。

 盟友岩倉が傷の手当てで療養を余儀なくされ、大久保は外交、内政両面で多事多難なこの時期に孤軍奮闘していた。しかし、木戸が岩倉襲撃事件のあと、大久保邸を訪れて治安対策について話し合うなど、槇村裁判でギクシャクしていた両者の関係が修復のきざしを見せ始めていた。警察力の強化については双方の意見が一致して、再び二人の協力体制が復活しつつあった。大久保は邏卒(警察官)の増員で、山口県から二百人ばかりを要望し、木戸にその差配を頼むと、木戸は尽力を約したうえで、長州人ばかりでなく紀州人も採用してはどうか、と提案した。二千人の増員を予定していたので、その徴募は容易ではなかったのだ。

 木戸も、大久保も、今回の事件が各地に波及することを恐れていた。西郷の下野以来、反対勢力の動きは油断のならない様相を呈していたので、警察力の強化は喫緊の課題だった。とくに佐賀において不穏な動きがあることを、東京政府は察知しており、すでに江藤新平が様子を見に佐賀に帰っていた。しかし、大隈や板垣など周辺の者は、江藤が事件に巻き込まれるのではないかと危ぶんで、彼を引き止めた。にもかかわらず、彼は政府の許可を得ないまま一月十三日には東京を発っており、その後、二度と東京にもどってくることはなかった。大隈らが危惧したとおり、彼の帰郷で勢いづいた征韓党にかつがれて、江藤自身が叛乱軍のリーダーになってしまったのだ。
 
 佐賀で江藤が挙兵したのは二月十四日、大久保の動きははやかった。まさにその日に彼は軍事・司法の全権を握って、横浜から九州へむかう船上にあった。もちろん「佐賀の乱」鎮圧に全力を傾注するために、留守中のことをすべて整えてから出発したのだ。大久保は自分と同様、木戸も佐賀行きを希望していることを知ると、木戸邸を訪れて「佐賀のことは自分に任せてほしい」とたのんだ。ただ、三条や岩倉が自分の佐賀行きに反対しているので、両公を説得していただけないか、と木戸の協力を請うた。木戸、大久保ともに佐賀の乱が九州各地に飛び火することを危ぶんでいたので、みずから現地に赴いて征討軍の指揮を執ることを望んだのだ。同じ危機意識を共有したことから、今までがそうだったように、この時も「難事に結束する薩長の力学」が働いた。

 木戸は病がちな自分が行くよりも、ここは大久保に任せたほうがいいだろう、と思いなおし、
「わかりました、大久保さん。あなたが指揮されるなら、私としては異存ありません。両公の説得は私が引き受けましょう」
 と快諾した。大久保はほっと安堵の表情を浮かべたが、なにかまだ問いたげな様子で木戸を見つめていた。
「ええ、留守中のことはお任せください。私が内務省を引き受けますから、安心して佐賀の鎮圧に全力をそそいでください」
 木戸が相手の胸中を察して先に答えると、大久保はぱっと喜色をうかべ、
「ありがとうございます。これで後顧の憂いなく出発できます。木戸さんに内務卿を兼任していただければ、三条・岩倉両大臣も安心することでしょう。なあに、叛乱軍は必ず鎮圧してみせますよ。すでに新任の岩村県令が先鋒隊として佐賀に向かっており、熊本鎮台にも出兵を命じておりますから」

 ここに木戸と大久保の共闘がなり、両大臣もようやく承諾して、大久保みずから佐賀の叛乱軍鎮圧の陣頭指揮を執ることになった。しかし、先に戦地に着いた岩村率いる鎮台兵の半大隊(約三百三十人)は準備不足が災いして苦戦していた。敵の猛攻撃にあって、一度は占拠した佐賀城から脱出するも、多くの死傷者を出してしまった。その四日後に、大久保率いる増援軍が敵と交戦し、激戦の末に勝利する。その後、相手の反撃も撃ち破ると、佐賀兵は周囲に火を放って退却した。

 江藤は敗色濃厚な状況にもはや挽回不能を悟ると、全軍に解散を命じた。みずからは佐賀を脱出して鹿児島に向かい、再挙への協力を求めて西郷と面会した。だが、西郷は動かず、説得は失敗に終わる。江藤は鹿児島を去って高知に入るが、すでに手配書が各所に出まわっており、三月二十八日、ついに逮捕された。佐賀に護送された江藤の裁判は、本人が望んだ東京ではなく同地で開かれた。現地での裁判は最初から大久保が準備していたことであり、そのために検事や判事を同伴していた。四月十三日、大久保の冷ややかな眼が被告人を見据えるなか、江藤に対して判決が下された。除族のうえ梟首申し付ける、という極刑で、刑は即日執行された。

 大久保の留守中、東京では木戸が内務省と文部省の長官を兼務して、連日精勤していた。木戸の期待以上の働きぶりに、三条、岩倉も安堵し喜んだ一方で、木戸の心中には新たに不満の種が生じていた。政府内に「征台論」が生じていたのだ。大西郷の弟従道が積極的に出兵論を唱え、すでに二月には征台の基本方針が閣議で決定されていた。この問題は琉球民の船が難破して台湾に漂着した際に、大半の漂流民が原住民に殺害されるという、明治四年十二月に生じた事件が発端だった。
 この琉球民殺害事件について、外務卿の副島種臣が清国に赴いて交渉したが、清がわは、生蕃(原住民)については未だ清国に服せざる化外の民であるとして、日本の抗議には応じなかった。したがって、士族のあいだでは征韓論と同様、征台論も活発になっていたのだ。とくに征韓論が敗れて西郷らが政府を去ってからは、征台論者の勢いはいっそう激しくなっている状況だった。なかでも琉球とは歴史的に関わりが深かった薩摩の士族は、政府の対応は手ぬるい、と不満をあらわにしており、分裂後の東京政府には相当な圧力になっていた。

 そうした薩摩士族の暴発をもっとも恐れたのは同郷の大久保や従道らで、台湾出兵を決議したのが二月初旬だった。ちょうど佐賀の状況が危うい時期だったので、木戸は台湾への出兵について憂慮しながらも、表立った反対を控えていた。しかし、大久保が九州に出発したあと、木戸は外征反対の意見書を閣議に提出した。その後、江藤が捕縛されたことを知ると、江藤の刑罰にからめた征台に関する意見を手紙にして、改めて三条太政大臣にとどけた。すなわち、「江藤新平らが縛についたことを一度はよろこび、一度は嘆いております。もともと同人も征韓論の巨魁につき、裁判の申し渡しに復罪したならば、政府が台湾の御征伐を決したのですから、その先鋒を仰せ付けられてはいかがでしょうか。今日、国論の唱えるところは、すなわち昨年、江藤新平らが唱えたことであります」

 木戸は江藤が極刑に処されるとは想像もしなかったようだ。しかも、その刑は判決が下された当日に執行されたのだから、もはや木戸の意見はむなしいばかりで、皮肉にさえならなかった。江藤刑死の報せを受けて、木戸は驚愕した。
「大久保さん、あなたという人は……そして、次は台湾出兵なのですか」
 呻くようにつぶやくと、木戸の心のなかで何かが音を立ててくずれ落ちていった。これ以上、大久保と共闘することなんてできない、できるはずがない。

 四月十八日、木戸は三条宛に長文の辞表を提出した。四月二十四日には大久保が佐賀から東京にもどってきた。木戸と大久保が会談したのはその翌日のことだった。木戸邸を訪ねてきた大久保から佐賀の顛末について、ひととおりの報告を聞いたあと、木戸はまずその労をねぎらった。
「大変ご苦労をおかけしました。暴徒の首領らも捕まって、はやくに乱がおさまったのは、ひとえに大久保さんの迅速な対応のおかげです」
「いえ、あなたの協力がなければ、思いどおりに行動することはできなかったでしょう。まだ体調も万全でないのに、内務卿の兼任を引き受けてくださり、本当に助かりました」
 大久保も丁寧に感謝の言葉をかえした。
「ところで、大久保さん」
 木戸はやや声を張って、すぐに話を変えた。江藤の処刑については、すこし早まったのではないか。司法卿の大木喬任の裁可を受け、さらに内務卿である自分に同意を求めるべきだったと思うが、どうしてそうしなかったのか、と冷静な口調でたずねた。
「たしかに手続き上はそうするべきだったと思います」
 大久保はあっさり自らの独断をみとめた。
「しかし、たとえはやく執行されたとしても、死罪は江藤の運命だったわけで、他の問題が山積みしている以上、政府にとって即日の執行が不都合だったとは思えません」
「不都合だったか、否か、ではなく、規則は守らなければならない、ということですよ」
 すこしのあいだ、大久保は沈黙して木戸を凝視していたが、やがてまた話しはじめた。
「おかしいですねえ。あなたはもっと喜んでくださると思ったのですが――山縣、井上、槇村など、長州のお仲間がさんざん攻撃されて、あなたを最後まで苦しめた相手は、他ならぬあの男ではなかったですか。私にとっても、あなたにとっても、あの男は葬りさるべき、いや、そう言って語弊があるなら、排除すべき政敵であったはずですがねえ」
 木戸はこみ上げる感情の嵐をなんとか押さえつけ、反論にてんじた。
「江藤が征韓党の首領なら、今の政府は征台派の首領ではないですか。昨秋、内治優先策をかかげて征韓論者を追い出したわが政府が、いったいいつ、外征の推進者に転じたのでしょうか。今日の政策論は、昨年、江藤らが唱えた論といかなる違いがあるのか、おしえてください。もし台湾への出兵を強行するおつもりなら、江藤は無駄死にということになる。我々に江藤らを裁く権利があったのか、私は今、自問自答しております」
 ここまで一気に言い終えると、木戸は相手から顔をそむけて、悔しそうに唇を噛みしめた。
「なるほど、それであなたは辞表をお出しになった、というわけですか。そのことは聞いておりますよ。あの男に対して、あなたは少々感傷的になっておられる。幕末に脱藩して、京都であなたを頼ってきた無名の志士江藤新平を、あなたが懐深く庇護したことは知っております。彼の秀でた才能をみとめて、新政府に推挙したのも木戸さん、あなただった。ですから、江藤はあなたに対して相当な恩があるはずですが、いとも簡単にあなたを裏切った。つまり、人とはそういうものです。あなたは甘いのですよ。甘くて穏健なあなたが、薩摩に対しては一番手きびしい。まあ、幕末の薩長両藩の葛藤を思い起こせば、わからなくもありませんがね。でも、私は江藤よりもはるかに信頼のおける相手です。あなたにとっては、ですよ。それにお気づきになりさえすれば、今、辞表など出せるはずもないのですが――」
「無駄です、大久保さん。あなたが何を言っても、辞表を撤回するつもりはありません。あなたの留守中、ほぼ毎日出勤して内務卿の務めは果たしました。あなたが無事東京にもどられて、もはやお役御免ですから、これ以上のことを私に期待しないでいただきたい。台湾政策で、わたしがあなたと意見を同じにすることはけっしてありませんので、協力もできかねます」

 これ以後は、もはや話がかみ合うことはなかった。木戸と大久保のつかの間の協力体制は、佐賀の乱が収拾され、大久保が帰京すると同時に解消されたのだ。一方、台湾への出兵は止めようがないところまできていた。すでに、薩摩士族を主力とする三千を超える将兵が長崎に集結していた。指揮官は西郷従道で、一時は英米の干渉により出征延期の命令が出されたが、彼には強行する選択しかなかった。外征は士族の不満のはけ口でもあり、これ以上同郷の士族のはやる気持ちを抑えることは不可能だったのだ。

 木戸と会談後、大久保は従道を援助するため、「兵隊進退等」に関する全権委任状をもって、二十九日にあわただしく東京を発って長崎に向かった。政府内では、辞意の決意がかたい木戸の慰留は不可能とあきらめ、参議兼文部卿を免ずる代わりに「宮内省出仕を仰せ付ける」という辞令を発した。木戸をなんとか政府内にとどめておくための「苦肉の策」だったのかもしれない。(最終章・後編「もう一枚の肖像画」につづく)


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