[小説・木戸孝允]

明治六年秋

(七) 征韓論 (その1)

 西郷はいったいなぜ一命を賭してまで遣韓使節に固執したのだろうか。その背景には留守政府が発布した徴兵令に対する士族の不平、不満の高まりとともに、既述したように朝野に起こった征韓論の沸騰があった。
 維新政府の朝鮮外交は明治元年(1868)、対馬藩の宗氏を仲介に徳川幕府の終焉と王政復古を通告し、旧来どおりの交際を望む趣意の書簡を送ったときにはじまる。だが、その文中に「皇祖」「皇室」「奉勅」などの文字があるのを見て、朝鮮がわは受取りを拒否した。旧例に相違し、押印も異なることを理由にしたのだが、中国を宗主国とする朝鮮は「皇」という文字を日本が使用するのを認めることはできなかったのだろう。この形式上の問題に関する日本と朝鮮間の論争は明治2年末になっても決着しなかった。

 朝鮮と日本は古くから密接な関係にあったが、その交流は室町時代にかなり活発になり、鎖国下の江戸時代も対馬藩を介して絶えることなく続いていた。維新当時の朝鮮は国王高宗の父大院君が摂政となって鎖国排外政策をとっていたので、日本が開国し洋化策を進めようとしていることに強い警戒心を抱いていた。旧来の形式にこだわったのは、半ばは拒絶するための方便だったのかもしれない。
 そこで、朝鮮との交渉は対馬藩の手をはなれて東京政府が直接行うことになった。明治三年正月に外務省の佐田白茅と森山茂が朝鮮に派遣された。ふたりは同行の斎藤榮とともに二月下旬に釜山の和館に到着した。日本人が租借地から出ることは許されなかったので、訪れた朝鮮がわの使者と会見したが、文字に不遜があると論難されたことから佐田らは朝鮮が皇国を蔑視しているとみて、恥辱を受けたと感じた。佐田は帰国してから誰よりも先に建白書を提出した。これが初期の征韓論である。ついで、森山と斎藤も征韓論を捧呈した。佐田の上書の一部を引用すると、

 朝鮮守るを知りて攻めるを知らず。己を知りて彼を知らず。其人深沈、狡獰(こうどう)、固陋、傲頑、之を覚して覚らず、之を激して激せず。故に断然兵力を以てのぞまざれば、我用を為さざる也。況んや朝鮮皇国を蔑視して、文字不遜ありと謂(い)う。以て恥辱を皇国に興ふ。君辱(はずかしめ)らるれば、臣死す。実に天を戴かざるのあだ也。必ず之を伐たざる可らず。之を伐たざれば、即ち皇威立たざる也。臣子に非(あらざ)る也〜

 かなり激烈で、佐田はこの征韓論を廟堂大官の間に遊説してまわったのである。彼は、ロシア、米国も朝鮮に野心があるとし、我国が朝鮮を取らなければ必ず他国のものになるから、三十大隊を派遣して国王を捕虜にしろと主張している。使者を遣っても埒が明かず、武力解決あるのみと断言しているのだ。森山の意見は佐田よりは穏当だが、やはり「口で説いても朝鮮は動かない。兵力で威して、聴かなければ征伐するよりほかない」と結論づけている。その論の一部を記す。

 嗚呼、朝鮮の頑堅なる、自尊自大以て文国と称し、徒らに百世の古籍を敲(たた)き、宇宙の時体を解せず、厚生の道を務めず〜

 斎藤も、朝鮮の無礼を看過してはならないとし、順序は踏むが、兵権を以て国威を示すべしと、大同小異の意見を述べている。佐田は久留米藩士で真木和泉の門下だったので、もともとが激派である。すでに明治元年、二年とつづけて征韓論の意見書を出しており、今回が実に三度目だったのである。三人はその論を朝野の間に遊説し、特に佐田は自論を鼓吹するのに熱心だった。彼は板垣と会談し、沢外務卿、寺島外務大輔などにも説き、大久保にも面会して、征韓のことを速やかに決議するように促した。大久保は「いずれご評議になるであろう」と答えたが、あまり乗り気ではなかったようだ。

 そもそも朝鮮問題は明治維新になってから突然に起こったのではなく、幕末から問題が生じていて、徳川幕府が特使を送ろうとしていた。なぜかというと、欧米列強は日本と同様、朝鮮にも当然ながら開国を迫っていた。十八世紀末にすでに天主教(キリスト教)の宣教師が朝鮮に潜入して伝道活動を行っていた。1866年に、大院君はこれを嫌って数千人の天主教徒を逮捕し、フランス人宣教師九人とともに処刑してしまった。当然、フランスは黙っているはずがなく、軍艦三隻でやってきて朝鮮がわと戦闘におよんだ。同年には朝鮮侵入を図ったアメリカ船「ゼネラル・シャーマン」号が焼討ちされ、船員全員が虐殺されるという事件が起きている。こうした状況下で米仏の報復を恐れた朝鮮は、釜山に滞在する日本人を通して対馬藩主に救援を求める書を送った。

 ちょうど徳川慶喜が将軍職を継いだ時期で、彼は米仏両国から朝鮮を征伐する意図あることを聞いて、朝鮮に開国を促す特使を派遣することにした。外国奉行の平山健二郎を正使とし、副使には目付古賀謹一郎が任命された。したがって、朝鮮への使節派遣は朝鮮がわの外船攻撃と日本に対する救援要請が発端であった。だが開国を勧める使節だから、朝鮮の鎖国政策と救援要請にはそぐわないわけで、日本がわにも覚悟が必要だった。米仏の前例もあるので、軍艦一隻と二大隊の陸兵を率いて朝鮮がわに談判を求めることにし、米国がわも日本の仲介については了解した。だが、米国公使ファンケンブルグは「もし朝鮮が合衆国政府に十分な謝罪をしなかった場合には、その報償を得、威信を回復する方法については我が政府が独自に考えることになるだろう」という返答を日本がわに伝えた。

 ところが日本が朝鮮へ使節を派遣することについて、ある日本人が上海の新聞で誇大に報じることがあった。清国政府はこの記事を読んで、「日本の幕府は朝鮮征伐のために、八十四隻の船を艤装してまさに襲撃しようとしている。防禦を厳重にしてこれに備えよ」と朝鮮に警告を発したのである。驚いた朝鮮政府は使節派遣の申入れをした日本に、その野心を指摘して使節の受入れを拒否する返書を送った。三百年前の「壬申の役」を思い出して、日本に対する警戒心が強烈に沸き起こったのだろう。幕府は朝鮮の誤解を解くために、宗義達より事実無根である旨を知らせたのだが、朝鮮がわはただ使節派遣の中止を強く主張するのみだった。

 当時(慶応三年)、徳川慶喜は大政を奉還し将軍職を辞めるなど大変な時期にあって、なお二条城で政務を執っていた。彼はさらに朝鮮に次のような要旨の書を送った。「仏国、米国は世界の強国で、なにやら報復を企てているようです。貴国は旧来の隣誼、心配なので若年寄兼外国奉行平山図書頭、目付古賀筑後守を使節として派遣いたしますから面会を許してやっていただきたい。ただ今の世界の情勢をよく理解して、我が深意をお汲み取りくださり、隣国相互の末永い親交を祈り、併せて貴国の安寧、景祉をお祈りいたします」

 しかし、その後「鳥羽・伏見の戦い」が起こり、慶喜が江戸に帰ったために、使節派遣の問題は解決されないまま明治維新を迎えたのである。したがって、朝鮮問題はこの時点で明治新政府に引き継がれたことになる。朝鮮の誤解が解けないまま引き継がれたので、その解決は容易ではなかった。しかも、朝鮮の鎖国主義は幕末の日本よりも徹底していた。もちろん欧米列強の朝鮮侵略の野心を朝鮮政府が疑惑し警戒したのは当然であったし、日本も戊辰戦争後の兵力余剰が征韓論を誘発している状況もあった。だが、このまま朝鮮が日本からの使節派遣を受け入れなければ、事態がいっそう悪化するのは明らかだった。


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