[小説・木戸孝允]
明治三年九月に、政府は外務出仕吉岡弘毅を使節とし、森山茂、広津弘信を随行員として朝鮮に派遣することを決定した。それより前に外務権大丞柳原前光が対韓政策の意見書を提出していた。彼は他国が朝鮮を虎視眈々と窺っていることについて注意を促した。 「露、仏、英、米がかの地を狙っていることは明白である。とくにロシアはヨーロッパの動乱(プロシャとフランスの交戦)に乗じて、必ずアジアに進出してくるだろう。米国もまた兵力をもって朝鮮に報復するとの説がある。日本もぐずぐずしている場合であろうか」 同じころ、柳原は清国を訪れて条約の予備交渉を行っていた。清国が朝鮮の宗主国だったことから、対等の条約を結んで朝鮮に対して清国と同格の立場にたつことを目指したのだ。 吉岡らは同年十一月三日に釜山の倭館「草梁館」に到着した。しかし、彼らは一歩もそこから出られず、朝鮮の情勢を偵察することもできなかった。使節は外務卿沢宣嘉から託された書状をわたして交渉しようとしたが、朝鮮がわはこれを拒否し、あくまでも旧例どおり宗氏を介しての交渉に固執した。困り果てた三人は相談のうえ、だれか一人が対馬の厳原(いずはら)に帰り、宗氏を説得して渡韓させようということになった。 結局、広津がその任をひき受け、明治四年二月初めに釜山を発して十五日に厳原に着くと、宗重正に面会して渡韓のことを承諾させた。だが、宗氏は経済的な理由から中央政府の命による渡韓を望んだので、広津はこれを了承して上京することになった。この間、米軍艦の朝鮮進航の情報が入ったので、広津は沢外務卿の要請でいったん釜山にもどり、再度帰国するなどして時間をとられ、宗氏とともに上京したときには七月も半ばを過ぎていた。 ところが直前に廃藩置県の令が出され、宗氏は藩知事を免ぜられ、沢公も外務卿を免ぜられたので、広津のこれまでの尽力が無駄になってしまった。だが彼は諦めず、その後も宗氏を外務大丞にして渡韓させるように岩倉外務卿に建言した。その結果、宗氏は外務大丞に任ぜられたが、対馬藩の負債の問題が持ち上がったために宗氏の渡韓はついに実現せず、明治四年はなんら事態が進展することなく過ぎていった。 明治五年一月、対馬出身の相良正樹を代表とする新たな使節団が釜山に入った。外務大丞宗重正の書簡と来意の口述書を朝鮮官吏・訓導の代理人に渡したのは三月で、訓導(正確な字は「道」の下に「口」)に面会できたのは、ようやく五月に入ってからだった。広津らの渡韓以来、一年半を超える月日が経過していた。だが訓導は、この件については十分に討議したうえで回答すると言うにとどめた。日本がわが「どれくらい時間がかかるのか」と聞くと、「幾年月になるかは言えない」という答えが返ってきた。訓導の口上はあいまいで、いたずらに回答を引き延ばしているとしか思えず、使節一行はむなしく日本に立ち戻ってきた。 九月には花房義質外務大丞が渡韓したが、国交問題についてはまったく進展がみられなかった。花房の任務は副島外務卿の処分案を実行することだった。すなわち、倭館は日本の出先機関としてそのまま残すが、 1.在留の士官雑人らを帰国させること。(商人は随意とする) 2.朝鮮に対する対馬藩の負債を清算すること。 3.対馬に滞留する朝鮮の漂流民を送り返すこと。 だが、朝鮮がわは倭館が対馬藩から新政府(朝廷)の管理下におかれたことを問題視し、負債の清算も新政府の支出によることを理由に認めなかった。どこまでも旧来の形式にこだわり、外交関係の樹立も拒否したのである。 その後、倭館では日用品や肉、魚などの食料品も入手できなくなり、不運にも対馬の商人以外の日本人が倭館に出入りしていることが発覚すると、館門に過去三百年の慣例を破る日本がわの違法行為を非難する掲示文が掲げられた。そこに、 「その形を変じ、俗を易(か)ゆ、これ即ち日本の人と謂うべからず。わが境に來往するを許すべからず」 とあるのは、西洋風に断髪し、洋服を着た日本人に対する嫌悪の情を表しているのだろう。また、 「近ごろ彼人の所為を見るに、無法の国と謂うべし。而して亦、これをもって恥と為さず」 とも書かれてあった。これは倭館に出入りする朝鮮人に対する訓令書だったが、在館の日本人は、明らかに日本人に対する侮辱であると受けとめた。 明治元年末から六年五月に至るまで、朝鮮に対する日本の国交回復の長い働きかけはついに報われず、兵糧攻めにあい、いまや荷物をまとめて釜山から日本に引き揚げるほかなくなってしまった。日本がこれほど時間をかけたのは、内政、その他の諸事に忙殺されて朝鮮問題に本格的に取り組む余裕がなかったからだが、それによって朝鮮が日本をくみし易しとみて侮ることになったのかもしれない。対馬藩が経済的に朝鮮に依存してきたことにも問題があった。 以上のような経緯から日本がわは憤激し、朝鮮出兵の声が征韓論者の間でうねり高まってきたのである。このうえは在韓日本人全員を引き揚げて国交を断絶するか、武力をもってこれを討伐するか、二者択一しかないと外務省の官吏は報告した。 明治六年六月十二日、閣議が招集され、朝鮮問題は切迫した議案として討議されることになった。出席者は三条、西郷、板垣、大隈のほか、四月に新参議になった後藤、大木、江藤の七名である。三条実美がこれまでの経緯を説明した。朝鮮になん度使節を送っても、まともに応接されなかった。使節は二十回にわたって訓導に書簡の斡旋を頼んだが、彼は病と称して拒み続けた。ようやく腰を上げて漢城(ソウル)に赴き、帰ってくると「日本側の要求は国内の衆議を尽くしてからでないと返答できない」と言われた。「では、その決定にどれくらい時間がかかるのか」と聞くと、「六、七年ないし十年はかかる」と放言してはばからなかった。また、倭館の門に日本人に対する侮辱の言葉を連ねた掲示文を掲げた、等など。 三条は朝鮮居留の日本人保護のため、軍艦数隻と陸海軍の小部隊を派遣することを閣議に提案した。板垣が直ちにこれに賛成したが、西郷は反対した。まずは公然と使節(全権使節か)を派遣して、平和的に談判するべきである。使者に危害を加えたときにはじめて出兵して討伐すればよい。その使者には自分がなると西郷は申し出た。だが当時、副島外務卿が台湾(琉球民殺害事件)・朝鮮問題などの交渉で清国に出張しており、副島の帰朝を待って決定を下すことになった(副島は日清修好条規の批准書を交換して、七月二十六日に帰国した)。 木戸孝允が七月二十三日に帰国するまで、国内の征韓論はこのように沸騰していった。木戸は早い時期から朝鮮問題の重要性に気づいていた。彼は対馬藩の跡目をめぐる紛争を調停し解決したことがあり、藩士らの信頼もあつく、対馬藩の顧問のような存在になっていた。同藩の大島友之允とはもっとも親しい関係にあり、幕末から朝鮮問題についてしばしば話し合っていた。大島の上申書によると、「朝鮮は元来偏固の風習や古い規則を固く守っているので、非礼傲岸の態度を示す可能性がある。だから皇国としては討伐の兵を出す覚悟をかためねばならない」という。 対馬藩は飯米の大部分を朝鮮に依存してきた。財政は窮乏しており、朝鮮からの米の輸入が滞れば死活問題になる。そのために立場が弱く、朝鮮に対してはほとんど臣従の礼をとってきた。したがって、朝鮮も明治新政府と交渉したがらず、対州に米を送らなければ困って泣きついてくるだろう。そうすれば朝鮮の望む条件を呑むしかないと対馬藩は考えるようになり、そのうえで言うことをきかそうとする策略なのだ、と大島は考え、対馬藩士として悔しい思いもしてきた。また、対馬藩(宗氏)と長州藩(毛利氏)は縁戚関係にあり、朝鮮との距離も近い。木戸が維新当初から朝鮮問題を重大視してきたのは、こうした背景を無視しては語れない。当時の彼の日記に曰く、 朝鮮へ使いを出す。余の建言する所にして、実に戊辰一新の春也。当時朝廷の規模、一定の上は、遠く西洋の各国とも好親の約あり。各国の公使等も親しく天顔を拝するに至る。然るときは旧好の国と交を親しくするは言を待たずなり。況や朝鮮如きは近隣の国にして、且旧好の国なり。故に別に一介の使節を遣わし、一新の旨趣を告げ、互いに将来往来せんことを望む。 のちには、使節を朝鮮に遣わし、その無礼を問い、不服のときには征伐するしかないと、木戸も征韓を否定してはいない。朝鮮の頑迷さに対する失望もあったのだろうが、基本的には上記を理想としており、そのためにこそ彼は自ら使節になることを切に望み、明治二年末には支那朝鮮使節に任命された。その頃、佐田と森山は木戸邸を訪れて木戸と会談している。佐田の懐旧談に曰く、 「木戸が作ったという朝鮮論の二枚半ばかりの文章を読んでみたが、主意は、征伐はせねばならぬけれども、我が兵備を充分整頓してから征伐すると云う論であった。(中略)要するに、諸君と同論ではあるけれども、ただ今これを急に伐つというのではない。諸君の考えとは緩急の差があると」 また、森山は言う。「征韓論の主唱者は、実に木戸孝允なりしなり。(中略)然るに一朝大村(益次郎)の斃るるや、木戸はにわかにその持論を放擲し、これを包むに船越(船越衛)を以て大村の後に擬せるあり。予は実に木戸よりこれを聞て、木戸の真に持論を放擲せるを看守したりしが、予の見は果して違わざりき」(西南記伝) 武力は準備しなければならないが、いま直ちにこれを用いるためではない、という木戸の意見に、両者は木戸の対韓政策は生ぬるい因循論に堕ちたと失望している。たしかに、朝鮮問題も含め、自分の右腕と恃んでいた大村の死は木戸には打撃だったに違いない。だが彼は、佐田、森山の征韓論になにか危険な匂いを嗅ぎ取り、彼らの論とは一線を画したかったのかもしれない。木戸の渡韓は実現しなかった。支那に異変があったために、明治三年六月に使節の派遣が中止になってしまったからだ。米欧視察から帰国後に、木戸の対韓政策がさらに大きく変化したのは、欧米諸国との国力の差を実感したことに加えて、当時、他国に分割統治されていたポーランドの国情が少なからぬ影響を与えたからなのだろう。被侵略国の悲惨さを眼に焼き付けながら、木戸は憲法制定の意見書を書いた。 |