[れんぺいかんのはな]  

練兵館の華

第四章  熱き漢をしずめよ

(14)

 宮田陣営で小五郎ら有志が集めたお金は土屋矢之助に託され、獄中の松陰に届けられた。土屋は来原と同年で、烏丸の蒼龍塾に通い松陰とも親しかった。その金は名主の手にわたり、松陰の待遇はようやく改善された。金銭によるばかりでなく、松陰の罪状が特異だったことに加えて、国を憂えて熱っぽく語る松陰の話が囚人たちの心を打ったのである。
 やがて松陰は名主のお客から若隠居、仮坐隠居、二番役へとすすみ、最後には名主の次席にあたる添役にまで昇進する。それがなくても、松陰はみなに尊敬され、囚人たちは松陰の話を好んで傾聴した。松陰自身も獄中の生活をひとつの体験として楽しむまでになっていた。
 土屋からそうした松陰に関する情報が宮田の陣所にも伝わり、小五郎たちもひとまず安堵の息をついだ。
「このぶんでいくと、寅次郎に科される処分もそれほど重いものにはなるまいよ」
 来原の言葉に小五郎も期待を抱いてうなずいた。

 明け方近くになって、小五郎は夢にうなされた。昼間に聞いた松陰の情報が希望のもてる内容だったのにもかかわらず、彼の見た夢はまるで正反対だったのだ。
「おい、桂、桂!」
 呼びかけながら、同室の来原が眠っている者の肩をゆさぶると、わっ、と声を上げて、小五郎が眼を覚ました。眼前の来原をまだ認識できないのか、表情が固まったままで、額には汗がにじみ出ていた。
「どうしたんだ、桂。嫌な夢でも見たのか? ずっとうなされていたぞ」
 小五郎の焦点がようやく合ってきた。
「松陰先生が……」
「松陰先生がどうした?」
 怯えたような表情で言う小五郎に、来原が問いかける。
「首を斬られて」
「なにっ」
「いえ、斬られようとしているところで、眼が覚めたのです」
 来原は小五郎をしばらくじっと見つめたあとで、
「どうしてそう心配性なんだ、おまえは。だいじょうぶだよ。松陰はみんなに慕われているし、看守までも彼を敬っているというぞ」
 安心させるような来原の言葉にも、小五郎の表情は和らがない。彼は上半身を起こし、
「でも、だからといって先生の罪状が軽減されるでしょうか」
 思いつめたようにしばらく間をおいてから、彼はまた話しはじめた。
「ふつうなら密航は死罪です。未遂に終ったとしても、やはり重罪には変りありません。いくら獄中で良い待遇を受けているといっても、それと刑の執行とは別問題でしょう」
「まあ、そう悪い結果ばかり考えるな。しばらくは見守るよりほか仕方がなかろう。それに、寅次郎はそんなやわな漢じゃないぞ。俺たちがじたばたしてどうする」
 小五郎の憂いをややもてあましながら来原が言うが、相手の返事はない。
「おまえはすこし疲れているのだ。他の者たちに剣術指南もしているし。もうすこし眠ったらどうだ」
「いえ、私はもう起きます。夜も明けそうですから」
 小五郎は起き上がって、身支度をはじめた。「ちょっと朝の空気にあたってきます」と言って、彼はひとりで仮屋を出て行った。しょうがない奴だなと思いながら、来原はまだ眠気がとれず、そのまま一刻ほどまどろんでしまった。

 来原が再び眠りから覚めたとき、小五郎はまだ戻っていなかった。その後、さらに一刻経っても、小五郎の姿はどこにも見えなかった。
「おい、井上、桂見なかったか」
「いいや、見ていない。どうしたんだ」
 怪訝な面持ちで井上が聞き返す。
「あいつ、飯も食わないで、いったいどこに……」
 その日、夕方になっても小五郎は陣屋に戻ってこなかった。来原と井上は、ようやく確信するに至った。小五郎は失踪したのである。

 その日の夜、陣屋内の一室で、来原と井上、それに総奉行の益田弾正が声をひそめて密談していた。
「まずい、まずい。これはまずいぞ」
 益田は腕組みをし、顔面蒼白になりながらつぶやいた。
「いったいどこにいったのだ、桂は?」
 ふたりのどちらにともなく不安げに訊く。
「江戸でしょう。彼は江戸に戻ったのです。そうとしか考えられません」
 来原が重い口調で答えた。
「なにしに江戸に戻ったのだ。無断で、いったいなぜ――」
「そ、それは……」 来原が言いよどむと、
「寅次郎を助けにいったんじゃないでしょうか」
 井上が代わりに声を低めて答えた。
「ば、ばかな。いったいどうやって助けるのだ。牢やぶりなどしたら、咎は吉田だけではすまされぬぞ」
「あっ、はあ」
「第一、桂が宮田陣地から脱走したとわかったら、あいつはへたすると切腹ものだぞ。おれだって責任をとらねばならぬ」
 総奉行といっても、益田はまだ二十代で、齢も来原らとそれほど違わなかった。増田家は代々萩藩の家老職を務める家柄で、家禄は一万二千石と小大名ほどもあった。自分が指揮する陣地から脱走者が出たなどとは、他には知られたくないという思いがあっても不思議ではない。できれば内密にしておきたい。誰にも知られぬうちに桂が戻ってくればよいが、その保証はない。
「桂が江戸に戻ったのだとしたら、どの道を通ったのか。海岸沿いの道か?」
「いえ、おそらく山中の道をとったのではないかと思います。そのほうが目立ちませんから」
 井上が答えると、益田はうーむ、と低いうなり声をあげ、
「どうもよくわからぬ。ふだんは冷静な奴なのに、こんな奇行にはしるとは。いったい何をひとりで熱くなっているのか。何を考えているのだ、あいつは」
「いえ、桂は一見おとなしそうな面をしていますが、猫かぶりなところがあるのですよ。けっこう大胆なことをする奴ですから」
 人ごとのように答える来原を、益田はじろっと睨むようにみた。
「おい、来原。おまえは桂と一番親しいだろう」
「えっ、はい。まあ……」
「明朝、夜が明けしだい、桂を探しに江戸に戻ってくれ」
「私が、ひとりでですか」
「そうだ。みなには桂といっしょに浦賀方面へ偵察にやらせたとでも言っておく。あいつを見つけ次第、連れ戻すのだ。首に縄をつけてでも連れ戻してこい」
「わかりました」
 来原は神妙に答えた。
「そう、藩邸に寄ってな、周布に相談するがよい。なにか知恵を出してくれるかもしれぬ」
「では、そういたします」
「――それにしても」
 益田はまだ信じられぬ、という面持ちで、
「あの慎重な漢が吉田を助け出すなどという荒業ができるのか。まだ、死罪と決まったわけでもないのに」
「いえ、おそらく役人を買収でもするつもりなのでしょう。桂はなにか夢をみたようです」
「夢? なんの夢だ」
「松陰先生が、首を斬られた夢のようです」
「松陰先生が、首を斬られた?」
 増田は一瞬、その意味を呑みこめなかったかのように、来原のいった言葉を漠然とくりかえした。しばらく黙り込んだあと、ふいに、はっとした表情で来原の顔を見た。
「まさか……」
 益田の顔には、かすかな怖れの表情が浮かんでいた。

 江戸の獄舎は今の小伝馬町にあった。そこから北に上るとお玉ヶ池があって、千葉周作の道場「玄武館」もその付近にある。伝馬町獄舎の総面積は二千六百余坪で、四年後、安政の大獄が起こる時期には囚人が増えて、さらに拡大された。四方には溝が掘られ、南に表門、北に裏門があって、俗に地獄門とも言われていた。獄舎は最初、三方が土蔵造りの壁で、前方だけを格子にしていたが、のちに四方すべて格子に改造された。建物は揚(あがり)座敷、揚屋(あがりや)、大牢、二間牢、百姓牢、女牢に分かれていた。揚座敷には畳が敷かれ、五百石以下の旗本、お目見え以上、高僧、神官が入り、揚屋はお目見え以下の士分と僧侶、大牢は町人、二間牢はふたつに分れ、ひとつは無宿牢(火付盗賊など)、百姓牢は文字どおり百姓専用の牢で、それぞれ未決囚を収容していた。
 牢屋奉行は石出帯刀(いしでたてわき)といい、代々務める世襲制で、彼の下に六十人ばかりの牢役人(同心)がいた。ほかに下男、非人が張番を勤め、囚人を拷問するときの補助役にもなった。囚人は金(蔓(ツル)といわれた)を所持していなければひどい待遇をうけ、まさに「地獄の沙汰も金次第」の世界、その代わり、役人や張番にワイロをやれば、酒、肴から菓子、煙草までなんでも好きな買物ができた。それ以外でも、親族などが差入物をするときに二百文までの銭なら受け取れたので、白木綿、糸や針、甘酒、蕎麦などはふつうに買い入れることができた。
 囚人に出される朝夕二度の食事は、モッソウ飯といって非常にまずかったらしく、なかでも大牢内は風通しが悪いうえに、大勢が押し込められていたので労疫病にかかるものが多かった。牢名主や古参の囚人に覚えの良くない新入りはリンチにあって獄死する者もいたのである。

 そんな地獄の一丁目の入口に、ひとりの若い商人風の男が突然現れた。風呂敷包みを背にしょって、表門に立っているその男を門番が見咎めて、声をかけてきた。
「おい、おまえは誰だ。なぜそこにいる」
「へい、ちょっと牢屋の囚人に届け物がございまして」
「届け物? どこの者だ」
「長州藩出入りの呉服商でございます」
「長州藩?」
「へい、たしか吉田松陰さまが中にお入りだと聞きまして、衣類などをお届けに参りました」
 門番は商人に近づいて、まじまじと顔を見た。
「うーむ。見かけぬ顔だな。いつも来る藩士はどうした」
「その藩士さまに頼まれたのでございます。今日は他に用事があるとのことで、ちょうど手前が藩邸にお伺いしていたものですから」
 そう言う商人を、門番はまだじっと見つめながら、
「名はなんという」
 不審げにたずねた。
「吉兵衛と申します」
「どこの呉服商だ」
「日本橋の――白木屋でございます」
「うーむ」
「けっしておかしなものは入っておりません。風呂敷の中身をお調べになればご納得なされましょう」
「おい、どうした?」
 門番所からもう一人の番人が出てきて、問いかけた。
「呉服商が吉田に差入れに来たというが、どうしよう」
「呉服商?」
 あとから来た相棒の番人が商人の顔に視線をむけた。
「ほお、若いな。商人にしちゃ、たいした男ぶりじゃないか」
「……」
 相棒の番人はしばらく商人の顔に見入っていた。
「はて、どこかで見たような――」
 商人ははっと眼を伏せて、面を強ばらせた。
「おぬし、どこかでわしと遭わなかったか?」
「い、いえ、そのような覚えはございません」
 商人は頭を低くして、否定した。
「そうかな。どうも、どこかで――」
 番人が必死に思い出そうとするのか、若い商人の顔を覗き込むようにしてじっと見る。そのとき、獄舎の門前をゆっくりと通り過ぎた背の高い大柄な男が、急に踵を返してもどってくると、
「おや、おまえは吉兵衛ではないか?」
 くだんの商人に声をかけた。商人は振りかえって男のほうを見た。
 あっ、と声をあげようとしたが、彼はその声を飲み込んだ。驚きの表情のまま呼びかけてきた男を凝視している。
「ああ、やっぱりそうだ。吉兵衛、こんなところでなにをしている?」
 男は平然とした調子で相手に問いかける。
「へ、へえ。あの、吉田松陰さまにお渡しするものを頼まれまして」
 商人はやや狼狽しながら、なんとか答えた。
「吉田松陰? おお、そうだ。ただいま入牢中だったな」
「へ、へい」
「ご苦労なことだな。長州藩も人使いがあらいじゃないか」
「……」
「そうだ、ちょうど良かった。うちからも吉田殿に届けたいものがある」
 男は番人たちを無視して、勝手にしゃべっている。
「これ、おまえさんはどなたかな?」
 侍姿のいかにも強そうな男だったので、番人はやや丁寧にたずねた。
「おれか? おれは練兵館の斎藤歓之助だよ」
「えっ!」
 ふたりの番人は同時に意外な声をあげた。だが、彼らにはかまわず歓之助は吉兵衛に話しかける。
「うちにちょっと立ち寄ってくれないか? ぜひお届けしたい大事な書物があるのだ」
「は、はあ。でも、せっかくここまで来ましたので、先にこのお届け物を、なかに入ってお預けしてから」
 吉兵衛は戸惑いがちに、いささかの抵抗を試みた。
「いいや、そんな衣類より、こっちのほうが大事だからさ。とにかく、すぐに来てもらいたい。手間は取らせないから」
 そういい終わるまえに、歓之助は吉兵衛の手をとって強引に歩き出した。
「あ、ちょっと、ま、待ってください。私は――」
 歓之助に手を引っ張られて、吉兵衛は引きずられるように歩きながら、手を振りほどこうとしたが、相手の力が強くてどうにもならない。獄舎の表門からは見る間に遠ざかってゆく。一方、番人たちはあっけにとられて、吉兵衛が歓之助に引っ張られてゆくのを見ていた。
「なんじゃい、あいつら。おかしな奴らだな」
 ひとりが首をひねって言うと、
「あっ、思い出したぞ。あの吉兵衛とかいう商人」
 もうひとりが急に大きな声をあげた。
「な、なんだ。どうしたんだ」
「あの顔、どこかで見たような気がしたが、あの鬼歓で思い出した」
「なにっ?」
「あれは、たしか同じ練兵館の道場で塾頭をしている桂小五郎だよ」
「かつらだって? 桂小五郎って長州藩士だったよな。間違いないのか?」
「うん、間違いない。おれは一度、試合を見に行ったことがあるんだ。あれは鏡新明智流の桃井道場だった。あんまり強いっていう評判だったんでね。桂小五郎とはいったいどんな奴で、どんな剣を使うのか、と思ったら、えらい優しげな少年っぽい男だったので驚いたのだ」
「へーえ。でも、その桂小五郎がどうして商人の姿をしているんだ?」
 ふたりは顔を見合わせると、ひとりが急に疑わしい目つきになり、
「こりゃ、おかしいな」
 首をかしげて、つぶやいた。

(15)

 四辻を左に曲がったところで、吉兵衛こと小五郎がそれまで抑えていた声をはりあげた。
「おい、歓之助。はなしてくれ、痛いじゃないか」
 手首をきつくつかまれて引っ張られていたので、小五郎はよろけながら抗議した。
「なにを言ってやがる。おまえは自分がなにをしようとしていたのか、わかっているのか」
 歓之助が足を止めずに、怒鳴りかえす。
「獄舎のなかに入って、どうするつもりだったのだ。松陰先生を助けだすつもりだったのか?」
「ち、ちがう。とにかく手をはなしてくれ。あとには戻らないから」
「いいや、はなさない。おまえがこんな阿呆なヤツだとは思わなかったぜ」
「まわりの者が見ているじゃないか。もう諦めたから、信用してくれ」
 歓之助はようやく足を止めて、小五郎を振りかえった。
「本当だな?」
「ああ、本当だ。おまえが名前を名乗るから、正体を見破られたかもしれん」
「へたな変装しやがって。練兵館の塾頭は江戸では名が知れている。どこで見られているか、わからぬというのに」
 あきれながらも、ようやく小五郎の手をはなしてやった。引っ張られてすこし赤くなった手首をもう一方の手でもむようにしながら、
「くそっ。もうちょっとだったのに」
 ひとり言のように小五郎が言うのを耳にして、
「やっぱり、おまえは――」
 歓之助が疑惑の目をむける。
「ちがう、と言っただろう。ただ、松陰先生が無事でおられるか、確かめたかっただけだ。助け出すなんて、そんな乱暴なことするわけないだろう」
 小五郎はきっぱりと否定した。
「しかし、相模の任地から無断で抜け出したと言うじゃないか。どうするのだ。切腹する覚悟はあるのか」
 相手の目を覗き込むようにして歓之助がきく。
「命じられれば、やむを得ぬ」
 小五郎は視線をおとし、唇を噛みしめている。そんな友をじっと見つめながら、歓之助は小五郎の意外な面を見る思いだった。もしかしたら、おれはこいつの見かけの大人しさに騙されていたのかもしれぬ。みんなが考える以上に、はるかに「熱い漢」なのかもしれぬな、桂小五郎という男は――。そんなことを思いながら歓之助は、
「安心しろ。長州藩がおまえを切腹させるわけがない。将来の貴重な幹部候補だからな。上司がかばいとおすさ」 
 秘密の企てが失敗し、気落ちしている友を励ますように言った。小五郎は黙ったままなにも答えない。
「それじゃあ、行こうか」 歓之助が再び歩き出すと、
「ど、どこへ行くのだ?」
 不安げに小五郎がたずねた。
「決まっているだろう。桜田藩邸だよ。周布どのがいまや遅しと、おまえを待ちかまえている」
 小五郎はぎょっとして、
「だ、だめだ。こんな恰好では会えない。着替えをしてからでないと」
 歓之助は立ち止まって、振りかえった。
「そうか。じゃあ、どこで着替える?」
「……」
「島田屋か?」
「あ、知っているのか」
 やや顔を赤らめながら、小五郎が聞き返した。
「ああ、その変装用の衣装一式、すべてあの仕立屋が揃えてくれたのだろう」
「な、なぜ、それを――」
「そりゃあ、心配したからだろう、仕立屋が。夫婦そろって練兵館を訪ねてきたよ。桂様に口止めされたけど、桂様のお命にかかわるかもかもしれないので、お伝えしないわけにはいかない、とな」
「……」
 小五郎は一言もない。島田屋は衣服以外でも、日用品の調達、その他でいろいろ世話になっている商店だった。どうりで歓之助があの通りを歩いていたのは、偶然にしてはおかしすぎた。
「おまえを止められるのは、腕力を考えればおれしかいないと思ったのだろうよ。ちょうど周布殿からも親父が相談を受けていたからな」
「困ったなー。周布さん、怒っているだろうな」
 すっかり当惑して、小五郎が言う。
「あたりまえだ。このところあの人は、おまえや来原殿のことで、えらい忙しいめにあっているとか言っていたぞ」
「うーん。できれば会わずに、相模の任地にもどりたいのだが」
「そりゃあ無理だろう。まあ、拳骨くらうのも一時の災難だと思ってがまんするのだな。切腹よりはましだろう。第一、みーんなおまえが悪いのだから、文句は言えまい」
「うーん」
「まずは島田屋へ行って、武士の姿にもどってからだ。たしかにその恰好じゃあ、あの人、ひっくり返るかもしれないからな」
 そう言って歓之助はくっ、くっ、くっ、と笑うと、くるりと背中をむけて、歩きだした。小五郎は観念したように歓之助のあとにしたがった。だが、その足どりはひどく重そうだった。

 眉間にしわを寄せ、腕組みして目の前の若者を睨みつけているのは周布政之助である。若い藩士は相手と目をあわすことなく、じっとうつむいてる。
「うーむ」 と周布はうなった。
 睨まれている相手は無言である。やがて周布はひとつ大きなため息をつくと、
「桂よ」 と相手に呼びかけた。だが、小五郎の返事はない。
「おれには、おまえという奴がわからなくなってきた」
「……」
「賢いのか、馬鹿なのか」
「……」
「沈着かと思うと、軽卒で――」
「……」
「斎藤道場では塾頭でも、長州藩ではまだ一介の遊学生に過ぎぬからか」
「……」
「自分のしたことを、どう思っているのだ。えっ?」
 小五郎はようやく顔をあげて、呆れかえっている様子の相手を見た。さすがに羞恥を覚えたのか、小五郎の頬はほんのり朱を帯びていた。歓之助が彼を桜田藩邸まで送って、周布に引きわたしたあと、遠慮して帰っていったのがせめてもの救いだった。この状況はどうみてもぶざまであったし、塾頭としては面目なかった。
「軽はずみなことをしたと、後悔しております」
 神妙な面持ちで小五郎は答えた。
「でも、しかたがなかったのです」
「なにがしかたがなかったのだ」
 渋面をつくったまま周布が問い返す。
「松陰先生がやられると思ったので」
「やられる?」
「はい。先生が首を斬られる夢を見たのです」
 周布はなんともいえぬ表情で小五郎を凝視した。
「やはり馬鹿だな。夢を見たぐらいで相模の任地を脱走する奴があるか」
「脱走ではありません。いずれ戻ろうと思っていましたから」
 すこし憤然として、小五郎が反駁する。
「捕まったらどうするつもりだった?」
「そ、そこまで考えては……」
「だから馬鹿だというのだ。もう、話にならん」
 しょちなし、というように周布は小五郎に背中を向けると、ごろっと右腕を枕にして寝ころんでしまった。そんな上司を小五郎はしばらく呆然と眺めていたが、やがて、
「あの、だいぶお疲れのようですね。お肩などお揉みいたしましょうか」
 膝をすすめて近づくと、周布の肩から上腕にかけて両手でにわか按摩のように揉みはじめた。相手はしばらくされるままになっている。
「うーむ。なかなかうまいではないか。今度は按摩の変装でもして忍び込むつもりか、伝馬町の獄舎へ」
「いえ、もうやめました。相模の宮田陣地に戻りますから」
「あったりまえだ。もう、やめい!」
 突然起き上がると、周布は小五郎の右腕をつかんで、
「おぬしはいずれ、なんらかの役に就ける必要があるな。藩に対してしっかり責任を感じてもらわねば困るのだ。さあ、奉行所から呼び出しがかからぬ前に、さっさと任地に戻るがよい」
「えっ、今からですか? もう、遅いですよ」
「明朝、鶏が啼くまえにここを発つのだ。これ以上、おれの寿命を縮めてくれるなよ、桂君。さもないと、江戸遊学の許可を取消して萩に帰ってもらうぞ」
「えっ、それは困ります。それだけはご勘弁を」
「やかましい。ついでに来原もいっしょだ。あいつはおまえを連れ戻しに来たというのに、いまだ藩邸に戻っとらん。吉原にでも遊びに行っとるんじゃろう」
「来原さんはそんな人ではありません。根はまじめな人ですから――。いたたたっ。ちょっと手を放してください。痛いですよー」
 この後も周布にこってり油を絞られた小五郎は、翌早朝、来原といっしょに逃げるように桜田藩邸を出て、宮田陣地へと帰っていった。藩邸に遅くもどった来原は、小五郎の練兵館の塾友を訪ねて水戸藩邸に行っていたと弁解し、なんとか周布の拳骨をくらわずにすんだのだった。

 吉田松陰と金子重之助が幕府から帰国・謹慎の処分を受けて、江戸から護送され萩に着いたのは安政元年(1854)十月下旬。松陰は野山獄(上牢)へ、金子は士分以外の者が入る岩倉獄(下牢)へ入牢した。すでに江戸を発つまえから重い病に罹っていた金子は、松陰の懸命な救助の手立てにもかかわらず容態は悪化の一途をたどり、翌年正月に獄中で死亡した(享年25)。
 松陰は安政二年十二月に許されて野山獄を出、自宅謹慎の身となった。それ以後、彼は自宅の幽囚室で孟子などを近親者や近所の者に教えながら、読書、著述にも没頭し、比較的平穏な毎日を過ごした。

 だが安政五年、井伊直弼が大老に就くと、国内の尊王攘夷派を弾圧、いわゆる「安政の大獄」がはじまった。松陰はこれに憤り、公然と幕府批判をくりかえし、再び野山獄の独房の人となる。その過激な言動ゆえに、安政六年六月、江戸に護送され、幕吏の尋問を受けて、七月に伝馬町の獄にくだった。
 十月、罪状の申しわたしがあり、松陰は死罪を申し付けられた。

十月二十七日、吉田松陰処刑(享年30)。

 相模の任地で見た小五郎の夢は、五年の歳月を経て、正夢となった。
 自宅謹慎中に松陰が主宰した松下村塾には、身分の上下を問わず若き俊才が集まり、実践を重視し、生徒と寝食をともにし、深夜まで議論し、誰にでも平等に熱く語った師松陰に、彼らは大きな感化を受け、学問のみならず人間的にも成長を遂げた。
 久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、野村靖(入江の弟)、伊藤博文、品川弥二郎、前原一誠らは村塾に集い、そこから旅立ち、松陰門下の兄貴分桂小五郎とともに革命の戦火を駆け抜けて、明治維新の実現に大きな足跡を残した者たちである。各々が各自の役割を果たしながら、ある者たちは新時代の暁光を見ずに命を落とし、歴史の舞台から忽然と姿を消した。自らが真っ先に花のごとく潔く散った松陰は、おそらく言ったであろう。

それでよし、と――。

 しかし、あとに残った者たちが双肩に担った責任こそ、いっそう大きく、いっそう重かったかもしれない。すべてが大きく変貌してゆく時代のはざまで、古い勢力と新しい勢力がせめぎ合う。その摩擦が発する強烈な熱に身を焼きながら、苦悩するひとりの政治家がそこにいた。のちに木戸孝允と改名する幕末の志士・桂小五郎である。だが、それはまだ先の話になる。
 小五郎はまだ若く、向学心に燃え、自分の果たすべき役割はなにか、いかなる方向へ進むべきなのか、なお模索中だった。それでも青春の甘美な日々を、ときには味わいもしただろう。日本全土をおおう戦乱の暗雲はすぐそこまでやってきていたが――。(第四章 おわり)


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