[れんぺいかんのはな]
第四章 熱き漢をしずめよ 米国との間に日米和親条約(神奈川条約)が結ばれたのは安政元年三月三日であった。その内容は米国艦船への物資の補給、漂流民・来航船員の優遇、下田と函館の開港など十二か条が規定され、その中に「将来、日本が他国に対して米国に与えていない権益を供与したときは、米国も同一の権益を自動的に与えられる」という最恵国条項が含まれていた。のちに、この規定が日本を苦しめることになる。また、外交官の駐在も定められ、もはや通商条約が結ばれるのは時間の問題であり、時代は大きく動きはじめていた。 そのころ、周布から厳しく訓戒され、自らの渡海計画を断念した来原は焦っていた。先日、練兵館を訪ねた彼は、周布の理解が得られず、計画の中止はやむを得なくなったことを、小五郎に打ち明けた。しかし、小五郎は諦めるのはまだ早いと言う。 周布さんが反対するのは当然のことだから、ここで踏ん張らなくては渡海を企てた意味がない。大事の実行に障害は付きもので、そう簡単に諦めるべきではない。まず自分が周布氏を説得しよう。近いうちに桜田藩邸に周布さんを尋ねて話してみるから、来原さんは渡海の準備を怠らないで、待っていてほしい。 小五郎の言い分はざっとこんなところで、いまでは自分よりも積極的に動こうとしているのを、来原は止めることもできなかった。そもそも自分が先に言い出したことなのだから、今さら「断念しろ」と小五郎に強く言えるような立場にはないのだ。 桂はすっかりその気になっている。さて、どうしたものか――。 来原は困った。なんとか桂を諦めさせなければ、周布にも、斎藤先生に対しても面目が立たない。しばらく考えたあとで、彼はひとりの男の顔を頭に思い浮かべた。そうだ、あの男なら――。問題解決の鍵を見つけたようで、来原の口がおもわずほころんだ。 小五郎と来原が渡米計画を藩庁に申し出るまえに、ひとりで密出国を企てた長州人がいた。その人物は昨年のペリー初来日後、長崎に寄港したロシア船への乗込みを企て、急遽江戸を発して長崎へ向かった。だが、すでにロシア艦隊は出航しており、この計画は実現しなかった。 その人物の名を吉田寅次郎と言う。藩校「明倫館」の山鹿流兵学教授であり、小五郎は十六歳のときにこの師について学んでいる。松陰という号で知られ、少年のころから藩主にその英才を称せられたが、三年前に藩の規則を犯して東北旅行を決行したため、士籍、世禄を剥奪されてしまった。したがって現在は浪人の身だが、藩主の温情により父百合之助の育みとなり、十年間の諸国遊学の許可を受けていた。 そんなわけで吉田寅次郎(以下、松陰という)が江戸に着いたときには、まっさきに練兵館を訪ね小五郎と面会していた。ロシア船乗込み計画についても小五郎は松陰から内密に知らされていた。誠に松陰は行動の人であり、外国船に対する幕府の無策を嘆き、外夷の脅威を憂えることでは誰にも負けなかった。 その松陰が再び練兵館に小五郎を訪ねてきた。ちょうど午前中の稽古が終ったときだったので、小五郎は松陰を自室に導きいれた。 「塾頭もすっかり板についてきたようだね、桂君」 面長の顔にあばたのある松陰は齢よりはふけて見えたが、小五郎より三歳年上に過ぎない。 「いえ、まだまだです。大先生や若先生がたに助けられていますから」 「ずいぶん見込まれているという証しでもあるな」 「さあ、どうでしょうか」 小五郎はちょっと恥らうように微笑み、 「それで、今日はなにか特別なご用でも?」 改めて松陰に聞いた。 「うむ」 相手はすこし間をおいてから、 「来原君と話してきた」 ずばり本題にはいった。 「あ――」 小五郎はすぐにピンときた。 「では、外国行きの話ですか」 「そうだよ」 松陰は姿勢を正すように、背筋を伸ばす仕草をした。 「この計画だがね。桂君、僕に譲ってくれないか」 「……」 「君はれっきとした長州藩士だし、この斎藤道場の塾頭でもある。途中で任務を投げ出すのはよくないだろう」 「はあ」 「その点、僕はいま浪々の身だ。密出国を企てたとしても、藩に迷惑をかけることはない。昨年、ロシア船乗込みに失敗しているからね。今回はぜひ米艦に交渉して、渡航を実現させたいのだ」 「しかし、私も思いは同じです。この眼でぜひ外国を見たいのです。将来の日本のためにも――」 「だから、それは僕の役割だといっている。今後、日本は必ず開国しなければならない時がやってくる。現に、幕府はすでにアメリカと和親条約を結んでしまったではないか。君は鎖国の禁が完全に解かれたときに、堂々と外遊すればよいのだ」 「いえ、それでは遅すぎます」 小五郎はおもわず声を上げ、松陰を見る眼に焦慮の色をにじませた。 「僕が先に行って海外を見てくれば、君にもいろいろ情報を伝えられるだろう」 松陰にそう言われても、小五郎は納得しなかった。 「でも、私は自分の眼で確かめたいのです――そうだ。それではいっしょに行きませんか。私も先生といっしょに密航いたします。ふたりなら、どちらかが病気に罹ったときにも相手を看病できるし、いろいろと都合が良いでしょう。藩の援けを借りなくても、ふたりならきっとうまくいきますよ」 眼を輝かせ半腰になって興奮気味に話す小五郎に、松陰はやや呆れ顔で、 「か、桂君、なにを言っているのかね。すこしは自分の立場を考えたまえ。君は自分の役割をはき違えている。いま、君がやらなければならないことは――」 「私がやらなければならないことは、敵を知ることです。そうではありませんか? 『彼を知り己を知れば、百戦危うからず』と孫子も教えているではありませんか」 「いや、だからそれは――」 「私も脱藩します。先生と同じ浪人なら、藩に迷惑をかけることもありません」 「ちょ、ちょっと待ちたまえ、桂君」 松陰は両手で小五郎の肩を押さえて、いつになく熱している相手を鎮めようとしたのだが、この練兵館の若き塾頭は、どうやら『外国行き』の執念にとり付かれてしまったようなのだ。 「先生、私は本気なのです。もちろん、密航が発覚したらどのようなことになるか、私にも覚悟はあります。命を惜しんではなにもできませんからね」 「桂君!」 「松陰先生。どうか私もいっしょに連れて行ってください。けっして足手まといになるようなことはありませんから」 松陰が若者の熱情を持て余しているときに、突然、部屋の扉がひらいた。 「やあ、松陰先生。だいぶお困りのようですな」 小五郎が声のするほうを振り返ってみると、そこには斎藤弥九郎が鋭い眼元を緩めながら、威厳のただよう姿で立っていた。 弥九郎は松陰の隣に腰を下ろすと、 「桂君に見せたいものがある」 と言って懐に手を入れ、なにやら巻かれた紙片を取り出した。 「これをなんだと思うかね」 巻紙を広げるまえに、小五郎の目の前に掲げて弥九郎がたずねた。 「さあ、なんでしょうか?」 きょとんとした様子で小五郎が答えると、松陰も興味深そうに弥九郎の持っている巻紙をながめている。弥九郎は黙ってそれを畳のうえに置いて広げた。 「あっ、これは」 ほとんど同時に小五郎と松陰が声をあげた。 「そう、亜米利加船と日本船を比較した絵図です」 弥九郎が言うより先に、ふたりは上半身をかがめてその絵図を凝視した。最初に描かれた巨大な黒船はペリー艦隊の旗艦ポーハタン号だった。次には日本で主に使われていた弁才船で、千石船とも呼ばれる大型商船。といっても一目でその規模の違いは歴然としており、全長をみてもポーハタン号は弁才船の二倍半はあった。船の寸法も細かに記入され、9門の大砲の位置もはっきり認められる(註:ポーハタン号は長さ 76.2m、排水量 3,865トン)。米国船の巨大さは肉眼で見ているとはいえ、改めて図面上で比較されると、日本船の貧弱さは情けないほどであった。 「どうじゃ。これが現在の日本と亜米利加の国力の差じゃ」 「うーむ。まことに、これでは勝負のしようがありませんな」 松陰も深刻な表情であいづちをうつ。小五郎は目の前の絵図に見入りながら、悔しそうに唇を噛みしめている。 「桂君、これでいま君がやらなければならないことがわかるかね」 弥九郎は小五郎とふたりきりのときは、父子のごとく「小五郎」と名前を呼び捨てもするが、第三者がいるときは「桂君」ときちんと君づけで呼んでいる。 「私がやらなければならないこと?」 「そう」 「なんでしょうか」 小五郎が問い返すと、弥九郎はしっかりと弟子の眼を見つめ、 「大船を造ることだ。いや、長州藩を動かして、外国船に近づけるような大船を造らせることだ。君もそのことは考えていたのではないのかね」 「そ、それは……でも、私はまだ一介の遊学生にすぎません。とてもそこまでやれるような自信は」 「桂君、周布氏と話してみたまえ。君なら説得できるだろう。いづれ君は藩の要路にあって、藩政指導の任に就く男だと僕は思っている。いまからその心構えをもって、藩政府にも積極的に意見書を提出することだ」 弥九郎の意図を悟って、松陰も小五郎を諭すように口をはさんだ。 「はあ。でも、私はやはり松陰先生と外国に――」 「なにを言っておるのだ」 小五郎がまだ諦めきれないようにぶつぶつ言うのを、弥九郎が押しとどめ、 「では亜米利加に行っている間に、日本が露西亜に占領されたらどうするのかね」 「えっ、ロシアが?」 「ああ、日本が亜米利加と和親条約を結んだことを知れば、露西亜は必ずまた日本にやってきて、同様の条約を結ぶことを日本に迫るだろう。いや露西亜ばかりでない。イギリスやオランダ、さらにフランスもそのあとにつづく」 「いや、それは危険なことです。日本にはまだなんの備えもないのに」 小五郎は弥九郎の言うことに気をとられてきた。 「そう、なんの備えもない。いまの幕府では外国の言いなりになるだけだ。先のことなど見通す余裕もないのだ」 「僕が亜米利加にいる間に、日本がインドや支那のようになったら困るな」 松陰も弥九郎を後押しして言い添える。さらに弥九郎も、 「いま、日本がやらなければならないことは、海防を整備することだ。それは江川先生も言っておられるだろう」 「もちろんです。海防は整備しなければなりません。その点、長州藩は立ち遅れているのです。なんとかしなければ」 日本の海防不備の不安をあおられ、小五郎の関心が国内に向いてくると、弥九郎はさらに外国の軍事力に関する知識を小五郎のまえで披露した。こうしてしばらく話し合っている間に、小五郎も国内の防備をかためる重要性を無視できなくなってきた。弥九郎が駄目を押すように付言する。 「松陰先生が外国の知識を詰め込んで日本にもどってくるまで、我々は水際で諸外国の日本侵略の企図を粉砕しなければならぬ。それには各藩が協力して国の防衛力を強化する必要があるだろう。君は長州藩にそのことを働きかけるのだ。それがいま、君がしなければならぬ重要な仕事ではないのかね、桂君」 「たしかに、渡航している間に日本が外国の軍隊に蹂躙されてしまったら、海外で学んだ知識も無駄になってしまいます。長州藩はいまだ要路に危機意識がうすいのです。これはなんとかしなければいけませんね。そうだ、来原さんとも相談して、長州藩の海防問題について意見をまとめ、しっかり取り組むように藩政府にも提言いたしましょう」 すっかりその気になった小五郎は、松陰のほうに向きなおって、 「いま、日本を守ることは最も重要なことですから、大変残念ですが私は日本に残り、外国探索のほうは松陰先生におまかせすることにいたします。なんとか成功するように私も協力いたしますので、必要なことがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね。でも、ひとりで本当にだいじょうぶでしょうか」 小五郎の懸念を一掃するように、 「いや、実は弟子のひとりがついて来てくれることになっているのだ。金子重之助という者だがね。何ごとにも熱心で誠実な男だから、いろいろと役に立ってくれるだろう」 「そうでしたか。それは良かった。私もそれを聞いて安心しました。きっと成功をお祈りしていますよ。私も日本に残って、松陰先生が無事もどられるまで、この国を夷狄から守るために全力で働きましょう」 「それは頼もしい。練兵館の塾頭が日本を守るために立ち上がれば、弥九郎先生も一流の剣客に育てた甲斐があったと喜ばれるだろう」 「もちろんわしも嬉しい。練兵館の桂小五郎ではない。長州藩の、いや日本の桂小五郎となってくれれば、この国の将来にもまだ望みをもてる」 「期待に答えられるかどうかはわかりませんが、とにかく日本存亡のときですから、私も全力で海防問題に取り組みたいと思います」 三人は手を握りあい、互いにうなずきあった。弥九郎は小五郎にわからぬように松陰のほうを見て、意味ありげに微笑んだ。 伊豆に向かう前に松陰は友人たちと会合をもった。これが最後の別れになるかもしれないので、自分の胸のうちを充分に伝えておきたかったのだ。とくに宮部鼎蔵には話さなければならないと思った。宮部は肥後藩士で松陰と同じ山鹿流兵学師範である。松陰が九州遊学中に知り合い、意気投合した。ふたりはいっしょに東北旅行をする予定だったが、松陰が正式な藩の許可がおりる前に江戸を離れたことから脱藩の罪に問われ士籍を剥奪されて、現在のような状況になったのである。 会合場所は京橋の酒楼伊勢本で、出席者は来原良蔵、赤川淡水など長州藩士が四人、肥後熊本藩士が宮部のほかに三人で、松陰を入れて九名が集まった。 松陰がその場で密航計画を打ち明けると、宮部はまっさきに「危険な計画だ」といって反対した。宮部は松陰より十歳も年長だったので、計画の無謀さを説いて、この若い親友を引き止めた。これに反論したのは松陰本人ではなく、来原だった。 「外国の情勢を探索することは、急務ではないというのですか」 「むろん、急務だが」 「だったら密航したらよいのです。密航しかないでしょう」 「しかし――」 「成功するか、しないかは問題ではない。いま、成すべきことを成す。それで寅次郎が首を刑場にさらすことになっても、彼に悔いはないでしょう。私も恨みを抱かず、悔いを残すこともない」 宮部は来原の抗弁にたじたじとなった。なんだ、この男は。まるで自分が実行するような言い草ではないか。こいつも寅次郎と似たような狂気じみたところがあるな――内心そう思ったが、たしかに一度決意をかためた寅次郎のような漢を説得したとて、その意志を翻すことはまずなかろう。徒労だ、と彼は悟った。 「わかった」 あっさりそれだけ言うと、宮部は自分の太刀を鞘ごと引き抜いて、 「この太刀を持っていけ。君の太刀と交換しよう」 松陰は喜色を浮かべて、言われたとおり宮部の太刀を受けとり、自分の太刀を相手にわたした。それで了解はなった。他の者たちもそれぞれ松陰に励ましの言葉をかけた。宮部はさらに、鏡一面と餞(はなむけ)の歌を贈った。 皇神の 真の道を畏みて 思ひつつ行け 思ひつつ行け その日、松陰と金子重之助は暗くなってから、米艦隊が停泊する下田に向かって出発した。 もし松陰が米艦乗込みに成功していたら、その後の歴史はどうなっていただろうか? 歴史に「もし」は使うべきではないのだろうが、想像することは実に興味深い。つまり、松陰が渡米に成功していたら、後に彼が主宰する「松下村塾」はなかったことになる。それはなにを意味するか。まず、村塾の双璧と称された高杉晋作と久坂玄瑞の喪失である。では、吉田松陰の存在なくして長州藩に尊攘激派の台頭は起こり得たかという問題が生じてくる。いったい、久坂と高杉はどのような若者に成長したのだろう。 ただ言えることは、それでも長州藩に尊攘派は生れたに違いないということだ。来原の手引で伊藤博文は必然的に桂小五郎と知り合っていただろう。久坂、高杉は江戸に留学していたかもしれず、そうだとすれば小五郎とも逢っていた。つまり、小五郎は長州藩において、いっそう重要な役割を担っていた可能性があると推測できる。いずれにしても、彼は練兵館をとおして尊攘思想の本家である水戸藩の志士たちと繋がりを深めていた。小五郎がやがて尊攘派のリーダーとなる宿命には、なんの変化もなかったと思われる。 海外渡航の松陰の試みは失敗した。それは史実である。これまでのところ彼の計画は成功したためしがない。不運が重なった。手に入れた舟の装備が不完全で、非常な苦労をして米艦「ミシシッピー号」に漕ぎつけたが、通訳が乗っていなかったので旗艦の「ポーハタン号」に行けといわれた。 再び暗闇の海を悪戦苦闘しながら旗艦に漕ぎつけたが、水兵にじゃまされたために、ふたりは舷梯に跳び移った。すると乗ってきた小船は大波に浚われてしまった。この中にはふたりの荷物や太刀が残されており、のちにこれが海岸に流れ着いて奉行所の手に渡ることになる。そのため、自首せざるを得なくなったのだ。 旗艦にはウィリアムズという通訳官が乗っていたので、なんとか意思の疎通ができた。松陰が「決死の覚悟で海外周遊の希望を叶えたい」と述べると、通訳官はペリー提督の意思として、 「幕府の許可を得ていない者を、米国に連れていくことはできない。許可を得てから来なさい」と断られた。ペリーとしては、ようやく日本と条約を結んだばかりなのに、日本の国法を破っては今後のためによくないと考えたのだろう。 「もどれば我々は刑死することになりましょう」 と同情を求めたが、米国側の拒絶を翻すことはできなかった。ふたりを海岸に送りかえすためのボートが用意され、松陰たちはいくらか抵抗したものの、結局あきらめてボートに乗り移った。流された舟の中の荷物を発見されることを覚悟して、ふたりは下田奉行所に自首した。 数日たって、米艦隊の将校たちが上陸して町を歩いていると、獄舎の前を通りかかり、そこに松陰と金子が入れられているのを発見した。松陰はよろこんで、木片に書き付けた漢詩を将校のひとりに手わたした。米国側の記録によると「その内容に驚くべき哲学的諦観の模範を発見した」として、「ペリー日本遠征記」に松陰の漢詩を採録した。松陰は自らの現状を語っている。 「英雄もその志を失えば、その行為は悪漢盗賊とみなされる。我らは人前で逮捕され、しばられ、ここで数日間おしこめられている。この村の名主以下は我々を軽侮し、悪罵を投げ、虐待することはなはだしい。しかしどう反省しても非難さるべきようなことは何ひとつない。いまこそ真の英雄かどうかを知るべきときである。五大州をあまねく歩かんとするわが志はここに敗れた。(略)この檻にあっておのれの運命に泣けば、ひとは愚者と思うであろう。笑えば悪漢のように見えるであろう。どういう態度もとれない。だから私はただ、沈黙を守っているだけである」 このあとペリーはふたりのことを心痛し、副長を派遣してふたりの無事を確認すると、奉行所には「重刑を科されないように希望する」と伝えさせた。幕府はペリーの希望に配慮したようである。松陰と金子が護送されて下田から江戸の北町奉行所に移されたのは四月半ばだった。 松陰らが米艦乗込みに失敗して、奉行所に捕らえられたことを聞いたとき、小五郎は顔面を蒼白にして、しばらく声を失った。 当時、小五郎、来原らは相州警衛地に出衛の命をうけて、宮田陣地の守備隊に加わっていた。松陰と金子が密航に失敗して下田奉行所に捕らえられたことは、宮部鼎蔵が手紙で報せてきたが、別の筋からも情報が入っていた。 「どうしよう」 小五郎が不安げな面持ちでつぶやくように言う。 「どうしようもないな。しばらく成行きを見守るしかあるまい」 来原が意外と落ち着いた声で答えた。 「まだ、事情がよくわからんからな。もう少し詳しい情報が入ってこないと」 来原の言葉をうけて言い足したのは井上壮太郎だった。井上は来原と親しく、同じく藩命で相州警衛の任についていた。 「しかし……」 小五郎はすこし沈黙して考え込んでいたが、 「私がちょっと様子を見てきましょう」 きっぱりと言う小五郎に、来原は驚いて、 「なにを言っている。勝手に任地を離れることは許されぬぞ」 「桂は気分が悪くなって、先に陣屋に戻ったとでも言っておいてください」 そう言うと、小五郎は本当にふたりに背をむけて駆け出そうとした。 「お、おい、待てよ」 辛うじて小五郎の腕をつかむと、 「落ち着け、なにを慌てている」 「そうだよ、桂。日頃のおまえらしくもない」 井上も来原といっしょに小五郎を制止した。 「でも、私と来原さんだったかもしれないのですよ。奉行所に捕らえられたのは。もし我々が実行していたら、そうでしょう? 松陰先生は我々の犠牲になったのです」 声をあげて言う小五郎に、 「それは寅次郎も覚悟のうえだ。おまえが下手に動くと、かえって彼にも、藩にも迷惑がかかるぞ」 「……」 苦しい表情で沈黙した小五郎に、来原が言葉をつづける。 「彼が一番気にしているのは、おそらくおまえや密航の相談に乗った仲間たちに咎がおよぶことだ。俺たちが舟の手配をしようと申し出たのを、あいつは断ったろう? なぜだかわかるか」 「……」 「もし失敗した場合に、俺たちが共謀の罪に問われるのを怖れたのだよ、寅次郎は。とくに桂には無傷で日本にとどまり、藩の、いや日本の将来を託そうとしたのだ。それがおまえにはわからないのか」 「でも、このまま手をこまねいていて良いのでしょうか。なんとか役人に手をまわして」 「おい、おい。それで片がつくような事件かよ。なにせ国事犯だからな。それよりまず、藩の要路に働きかけたほうがいい」 井上がそばから口をはさむと、周布をなんとか味方につけよう、と提案した。 「そうだ、周布氏は寅次郎に好意を持っているし、若い藩士の行動にも一定の理解を示している。藩内のことは周布氏がなんとかうまく収めてくれるかもしれん。我々が藩から罰せられたら、寅次郎を救うこともできないではないか」 ふたりの説得をうけて、小五郎もようやく下田に行くことはあきらめた。 その頃、桜田藩邸にいた周布政之助のもとにも下田事件の情報はすでに伝わっていた。松陰の密航計画に小五郎と来原が関与していたことは疑う余地がないと思い、周布はまたしても頭をかかえこんで歯ぎしりした。 周布が松陰のいわゆる「下田踏海」事件を調べていくと、意外にも多くの人物が関与していることがわかって驚かされた。長州藩士ばかりではなかったのだ。 松代藩士佐久間象山は松陰が唯一師と仰いだ人物だが、彼は今回の事件ばかりでなく、前年に松陰が実行しようとして挫折した長崎でのロシア船乗込み計画にも関与していた。熊本の横井小楠と並び称される学識者、洋学者である象山は幕府の因循さに失望し、松陰の海外探索を慫慂、相談にも乗っていた。下田奉行所の手にわたった松陰の荷物のなかに、象山が松陰を激励して送った詩が発見された。象山はただちに捕えられ、松陰といっしょに囚人として江戸の獄舎に送られたのである。 また、烏山新三郎は松陰が江戸で寄宿していた家主で、「蒼龍塾」を主宰していた。のちに金子を入塾させたという罪で彼は幽閉され、肥後藩士宮部鼎蔵らは強制帰国させられた。 松陰が入獄した江戸伝馬町の獄舎には牢名主がいて、彼が獄内の囚人一切を支配し、絶対的な権力を握っていた。彼は畳を何枚か積み重ねたうえにあぐらをかき、そのまえで新入りの儀式を行った。松陰は顔を床に押さえ込まれ、衣服で頭部を覆われる。囚人のひとりが板で松陰の背中をピシッと叩くと、尋問がはじまる。やがて牢名主は「金をいくらもってきたか」と松陰に聞いた。 要するに、ここで生き延びるには、わいろが必要なのだ。それが囚人たちの暗黙の規則であり、そうである以上、新入りもそれに従わざるを得ない。従わなければ、松陰は間違いなく困難な状況に追い込まれる。 松陰が手紙を書いて、その事情を外部の長州藩士に知らせると、彼らは金集めに奔走した。烏山の塾生だった白井小助や井上壮太郎らが動いたのだが、とくに小五郎は、 「松陰先生が獄舎でそれほど苦労しておられるなら、むしろ幕府の役人を買収して、先生と金子さんを釈放させるようにしたほうがいい」 と言いだした。 「い、いや。それはまずいだろう」 来原や井上が否定的に言う。 「どうしてですか。お金は自分が出します。自分のお金だけでは不足なら、藩の勘定奉行に頼んだらどうでしょうか」 小五郎の言葉に、ふたりは仰天した。 「な、なにを言っている。そんなこと藩が承知するわけないだろう」 「そうだよ。そんなことを公にしたら、おまえが罰せられるぞ。まず、獄中の寅次郎に金を送るのが先だ」 そんな話し合いをしている三人だったが、奉行所のほうは松陰の密航計画へのこの三人の関与を疑っていた。桂、来原、それに井上が奉行所から目をつけられていることを、どこかの筋から聞きつけた周布は、上司に提出する今回の事件の報告書に彼らの名前を書かざるを得なくなった。 「寅次郎とかねて懇意の者、陣屋内にもおりますが、もっとも近ごろの彼の所業によって大抵の者は見限っております」 と周布は、関係者の人数をできるだけ少なくするように配慮した。 「しかしながら、来原良蔵、桂小五郎、井上壮太郎は今も付き合っているようです。良蔵、小五郎は先日、私のもとに不慮の申し出をいたし、その書面を提出してもおります。もっともこのたびの下田表の一條については、相模の任地にいて居所隔たっているので、この事件に関与していたとは思えません。しかし三人は持ち前の侠気から虎次郎を救うために、なにをしでかすか計りがたいので十分に注意は必要です」 と述べつつも、周布はつづけて、 「だからといって、下手に謹慎を命じたりすると、その理由をあれこれ取りざたされ、ついには幕府の疑惑をまねく危険性があります。内密に注意するにとどめたほうがよいかもしれません」 三人が処罰されないように、巧妙な書き方をしている。相模湾警衛の総奉行を務める江戸詰家老益田弾正も、松陰や若い藩士たちに好意的だったので、藩内の批判派を抑えて、すべてを穏便に処理したのである。小五郎たちにとって、上司に周布政之助という良き理解者がいたことは、誠に幸いだった。 だが、小五郎はまだ松陰救出を諦めきれずにいた。 |