<人物紹介>

佐賀藩 ・ 熊本藩

 横井小楠  宮部鼎蔵  副島種臣  江藤新平

 大隈重信



鍋島直正(1814〜1871) なべしまなおまさ

佐賀藩主。号は閑叟。天保元年(1830)二月に家督を相続すると、危機的状況にあった藩政の改革に着手する。藩校弘道館出身の若い藩士を抜擢して、職制の改革を行い、国産開発や領外貿易などの殖産興業政策を推進した。
また、長崎警備のため、大銃製造方を設置し、反射炉を建設して、洋式兵備の充実に努めるとともに、蘭学、英学を奨励し、種痘を施行するなど積極的に西洋技術を採り入れて、学者を優遇した。
幕末の政局には消極的な姿勢を保ち、文久元年に隠退して家督を直大(なおひろ)に譲った。同二年、朝廷より公武合体周旋の命を受けて京都、江戸に上り、慶応三年にも長州処分、兵庫開港問題などで入京する。翌年の大政奉還後、戊辰戦争では維新政府に付くことを明確にする。佐賀軍は上野戦争でアームストロング砲を用いて活躍した。
明治元年二月、直正は新政府の議定となり、大隈重信、江藤新平、大木喬任、副島種臣らの少壮藩士を新政府に送り込んだ。 明治三年、病没。



横井小楠(1809〜1869) よこいしょうなん

通称は平四郎。八歳で熊本藩校「時習館」に入学し、秀才として知られる。天保十年、江戸に遊学して藤田東湖らと交わり、水戸学の影響を受ける。たが、翌年には飲酒が過ぎて他藩の武士と喧嘩し、その罪で帰国を命ぜられ謹慎する。十二年には「時務策」を草し、藩政を厳しく批判、長岡監物、下津休也らと実学党を結成する。
安政元年、兄の死により家督を相続。翌二年には長岡らと対立し、下士層や豪農層の立場に立つ。やがて攘夷論から開国論に転じるが、彼の思想は肥後藩では用いられず、安政五年〜文久三年にかけて、福井に賓師として招かれ越前藩政を指導した。同藩の三岡八郎(由利公正)と協力して殖産貿易事業を推進、この時期に「富国論」、「強兵論」、「士道」の三論をまとめた「国是三論」を著す。
だが、福井での彼の活躍を快く思っていなかった肥後勤王党の一味が、江戸で酒宴中の横井を襲う。彼は同席の者を残して逃げたために、士道忘却の罪に問われ、士籍を剥奪されてしまう。
その後、熊本の沼山津に蟄居中の横井を坂本龍馬が訪ねてくる。この時、横井は、禁門の変など長州の暴発は「私」であるとして、日本の「公」のため叩き潰すべきである、といったのに対し、龍馬は低い声で嗤い、
「先生といえども、こんな僻地にいると天下の事情に通じておられない。今、天下に勤王をもって称せられるものは、薩摩と長州をおいてどこがありましょうか。この二藩にかけるべきでしょう」
二人の論争は一昼夜におよんだが、合意に至らない。龍馬が先生の説は凡人以下になってしまった、と悪態をつくと、横井は怒って「坂本君、もう二度と来るな、帰れ!」と怒鳴ったので、
「帰りますとも。わしは西郷や大久保と大芝居をやりますきに、先生は二階にすわって酌でもさしながら見物していてつかされ」
と憤慨して喧嘩別れした。だが、のちに横井は長州への誤解を解いて、龍馬の考えを追認することになる。
明治元年閏四月、岩倉具視の懇望により新政府の参与となるが、翌年、京都で暗殺された。横井の開明的な思想は幕末の志士たちに大きな影響を与えた。



宮部鼎蔵(1820〜1864) みやべていぞう

熊本藩兵学師範。肥後国益城郡田城村の医家に生まれる。父は宮部春吾素直。山鹿流軍学師範の叔父・丈左衛門増美の養子となり、嘉永二年に家を継いだ。嘉永三年、九州遊歴中の吉田松陰と知り合い、のちに江戸遊学、房総および東北の旅に同行する。嘉永五、六年ごろ、林桜園に師事して国学・神道の思想を身につけ、攘夷思想を養う。
安政二年、実弟春蔵らが同藩の者と喧嘩した際に、監督不行届きの罪で免職となる。その後、七滝で弟子の教育にあたっていたが、清河八郎の勧めで文久三(1863)年に上洛し、三条実美の信任を得て、諸藩の志士との連絡の任にあたった。攘夷親征を企てるが、八月十八日の政変に敗れ、七卿とともに長州に走った。元治元(1864)年に上洛し、長州藩主の雪寃のために活動していたが、六月五日、池田屋において会談中に新撰組に襲われて自刃した。

宮部鼎蔵は肥後勤王党の代表的人物で、在京の志士たちの中で重きをなしていた。



副島種臣(1828〜1905)  そえじまたねおみ

佐賀藩の国学者・枝吉忠左衛門(南濠)の二男に生れた。
嘉永三年(1850)、実兄の枝吉神陽(えだよししんよう)が主宰する楠公義祭同盟に江藤新平、大隈重信らとともに参加、佐賀藩における尊王攘夷運動の魁となった。嘉永五年、京都に上り、矢野玄道、田中河内介らの尊攘志士と交わり、また清蓮院宮から京都出兵を求める密旨を託されたが、藩主鍋島直正に抑えられた。兄の死後、藩校の指導的地位につき、元治元年(1864)には佐賀藩が長崎に設けた致遠館の学監となり、宣教師フルベッキから英語、米国憲法、万国公法など西洋知識を学んだ。
明治元年(1868)新政府の参与となり、福岡孝弟とともに政体書の起草にあたった。翌年には参議となり、明治四年、外務卿に任ぜられた。樺太国境問題では対露交渉に努め、マリア・ルス号事件(注)の解決にも尽力した。台湾出兵後は特命全権大使として清国との折衝にあたり、琉球帰属問題に成果をあげた。その後は征韓論に敗れて西郷隆盛らと下野し、明治七年、板垣退助らと民選議院設立建白書を政府に提出したが、民権運動には加わらなかった。
明治九年〜十一年までは清国にあり、十二年、宮内省に出仕、明治二十一年(1888)には枢密顧問官となる。二十五年四月〜六月まで、選挙大干渉で非難されていた松方正義内閣の内務大臣を勤めた。また、二十三年に設立された東邦協会の会頭となり、東方論にも経綸を示した。蒼海または一々学人と号し、能書家としても知られている。

(注) マリア・ルス号事件とは
明治五年、台風のために横浜港に停泊中のペルー船「マリア・ルス」号には二三〇余人の清国人苦力が監禁されていた。入港中に二人の苦力が逃亡してイギリス軍艦に救助を求めたことから、副島が通告を受けた。副島は法権が日本にあるとして臨時法廷を開き、本件が奴隷売買であることを認めさせ、清国人苦力は解放された。ペルー側は異議を申し立てたが明治八年、ロシア皇帝アレキサンドル二世の仲裁裁判により日本が勝訴した。



江藤新平(1834〜1874)  えとうしんぺい

佐賀藩の下級武士の家に生まれ、貧窮の中で育った。藩校弘道館に学んだが、学館改革運動を起して大隈重信らとともに退校した。嘉永三年(1850)、枝吉神陽の義祭同盟に参加し尊攘派として活動する。安政三年(1856)には「図海策」を草し、排外攘夷主義に反対して開国論に転じた。
文久二年(1862)、脱藩して京都に奔り、長州藩邸に桂小五郎を訪ねて一身の庇護を乞うた。桂は江藤の志を喜び、彼を救助して山口繁次郎の宅に潜伏させた。江藤は桂の紹介で尊攘派公家・姉小路公知の知遇も得る。だが同年九月、佐賀に戻ると、脱藩の罪で藩から永蟄居を命じられた。
慶応三年(1867)、王政復古とともに赦され、東征大総督府の軍監となって江戸入りする。その後、江戸鎮台判事となり、地代・家賃の値下げ、問屋・仲買のギルド独占廃止などを断行した。明治二年(1869)、一時佐賀藩制改革の指導にあたるが、まもなく中央政府に復帰し、文部大輔、左院副議長、次いで司法卿となり、司法権の独立、司法制度の整備に尽力した。官僚機構の強化にも努め、明治六年、参議に任ぜられたが、十月、征韓論争に敗れて下野した。
翌年一月、民選議院設立建白書に署名。二月には佐賀征韓党に推されて挙兵、岩村高俊県令の指揮する政府軍と戦ったが一週間で敗れた。その後、薩摩、土佐に逃れ、最後には高知県東端の甲の浦で三月二十八日に逮捕され、四月十三日、佐賀城内で斬罪梟首された。

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江藤新平については「司馬遼太郎の小説にみる木戸孝允」の「歳月」でも取り上げています。



大隈重信(1838〜1922)  おおくましげのぶ

佐賀藩士で、早稲田大学の創立者。
七歳で藩校弘道館に学び、十三歳で父親が死亡、母親の手で育てられた。佐賀藩の葉隠主義と藩校の朱子学に不満を持ち、十七歳のとき尊攘派の義祭同盟に参加して退学となる。十九歳で蘭学寮に入り、蘭学寮が弘道館に合併後、教官となった。また、長崎でフルベッキから英語を学んだ。文久三年(1863)、長州藩の外船砲撃には長州藩の援助を策し、藩侯鍋島直正を説いて朝幕間を斡旋させるなど尊攘激派として活躍した。
明治元年(1868)、徴士参与職・外国事務局判事となり、キリスト教徒処分問題ではイギリス公使パークスとやり合い、その実力を認められた。その後大蔵少輔、民部大輔、大蔵大輔などを歴任し、鉄道・電信の建設、工部省の開設などに尽力、明治三年には参議となる。同六年、大蔵省事務総裁から大蔵卿に就任、征韓論に反対した。西南の役では征討総理事務局長官となって、軍事輸送にあたった三菱汽船会社を助成し、三菱との密接な関係を築く発端となった。
明治十四年(1881)、国会即時開設論と開拓使官有物払下げ反対で薩長勢力と衝突して免官となり、多数の大隈派官吏も辞職した(明治十四年政変)。翌年、小野梓、矢野文雄らと立憲改進党を結成して総理となり、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。明治二十年には伯爵、翌年に伊藤内閣で外務大臣に就任。同二十二年、黒田内閣の下、条約改正交渉にあたったが、治外法権撤廃問題で世論の反発を受けて爆弾を投じられ、片足を失って辞任する。
明治二十九年、野党を合同して進歩党を結成し、党首となる。三十一年六月、板垣退助と憲政党を結成し、日本最初の政党内閣(隈板内閣 わいはん)を組織したが、うまくゆかず十一月に総辞職した。明治四十年、政界を引退して早稲田大学総長に就任するが、大正初年の第一次護憲運動が起ると再び政界に復帰。大正三年(1914)、立憲同志会の援助を得て第二次大隈内閣を組織し、第一次世界大戦に参加、対華二十一箇条要求などを行った。大正五年十月、官僚勢力の圧迫で総辞職。同年、侯爵となる。八十五歳で没。


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