司馬遼太郎の小説にみる木戸孝允 3 |
● 歳 月
再読しても、やはり司馬氏の小説はおもしろい。 この小説は、脱藩して京都の長州藩邸を訪れた佐賀藩士・江藤新平(のちの司法卿)が桂小五郎と対面する場面から始まっている。したがって、小五郎の登場の多いことをかなり期待したのだが、残念ながら冒頭の場面以降はほとんど出てこない。小五郎の動向は忘れたころに、きわめて断片的に短文で語られているに過ぎない。 しかし、本書は「江藤新平と大久保利通の対立」が(少なくとも後半は)テーマといえるので、この二者の対立についても語ってみたいと思う。 江藤新平の人物像や性格については、作者は小説の全編をとおして暗示的に語る場面を処々に織り込んでいる。江藤が京を発ったのちに伊藤博文(当時の名は俊輔)から「江藤をどう思うか」と問われた小五郎が、しばらく思案してから、答えた。 「あれは刑名家だな」 そのあとで、作者が「桂のいう刑名家とは法家のことであろう」と補足して語る。「孔子を学祖とする儒教は性の善なることを前提とし、道徳をもって国家をおさめようとするいわば楽天的な政治哲学であったが、法家はこれとちがい、人間の性は本来悪であるということを大前提とし、法律を整え、刑罰を厳にし、人間の恐怖を刺激することによって国家をおさめようという、いわば人間に対して悲観的な、そういう政治思想であった」 二重鎖国をしていた佐賀藩では、他国に出ることの自由を認めていなかった。したがって、江藤はこの時の脱藩で本来なら死罪になるところであった。もし死罪と決すれば、彼は長州へ逃れて桂小五郎を頼るつもりだったのだが、判決は「永蟄居」となった。藩公鍋島直正(閑叟かんそう)が江藤の書いた「京都見聞」を読み、その情勢監察のするどさ、立論のたしかさ、文章のみごとさにおどろき、「生かしておけば他日用いることがあろう」といって、筆頭家老が「死罪以外にない」とするのを退けて、「永蟄居にせよ」と命じたのである。 鍋島閑叟は賢明であった。戊辰戦争が始まるまで日和見主義に徹した佐賀藩で、脱藩して京に上り、わずか2箇月ほどの間に著名な志士や公家らと交わった経歴を持つ江藤は貴重な存在となり、佐賀藩を代表する地位にまで彼を押し上げたのである。下級武士の捨身の行動は報われた。 「歳月」もかなり長編なので、最初から順を追って語ろうとするとあまりにも長文になってしまう。したがって、途中をとばして明治7年の「佐賀の乱」まで進ませていただこうとおもう。 この稀代の理論家が結果的に反乱の首謀者となったのはなぜだろう。やはり筆者には不思議なのである。同年1月には「民選議院設立建白書」の署名者に名を連ねながら、武力ではなく言論によって政府に対抗しようとした板垣退助(旧土佐藩士)と歩調をそろえず、周囲の人々の反対を押し切って佐賀に帰ってしまった。守旧派の「憂国党」(封建時代への復帰を望む)と「征韓党」の不穏な動きを鎮撫するためというつもりが、同郷の大隈重信が心配したとおり「ミイラとりがミイラに」なってしまった。 ところで大久保は江藤をどう思っていたのだろうか。明治6年の「征韓論」政変の場面で、作者は次のように書いている。 かれ(大久保)は江藤以外の政敵については少しも憎悪を感じていなかった。(略)大久保にとってえたいの知れぬのは江藤新平ひとりである。(江藤だけは私怨と権謀だけでうごいている) 江藤の「私怨」とは江藤がことあるごとに毒煙のように吐きちらしている薩長閥への憎しみのことであった。さらに江藤の「権謀」とは薩長の結束力を分解せしめようとくわだて、それがために征韓論を力説した。大久保からみれば江藤はおのれの権謀のためには国家の運命を犠牲にしてもかまわぬという徒であり、いわば国家というサイコロに細工するいかさま賭博師であった。こういう種類の才人を大久保は「権詐機巧の才」とよんでいる。このあたりが人間関係の微妙さであった。なぜならば「権詐機巧」ということにかけては大久保は同質同類の才質をもち、しかもその点において江藤よりはるかに巨大なタレントであった。 なにかすごい形容だなと思うのだが、そのあと、大久保は「だが、おれは江藤ではない。自分には満腔の赤誠がある」とあふれるほどの自信をもって言い、同時にこの頭のよすぎる男は(江藤も、自分をそうみているのではないか)とも観察し、その点をおそれた。このおそれを消すには江藤そのものを消滅させるよりほかない。(以下略) 佐賀の乱の前だが、木戸が登場する場面がある。大久保が佐賀県権令に岩村高俊を任命したときで、小説中の文を引用すると、 消息通たちは、おどろいた。とくに参議木戸孝允は、 「人もあろうに、選りによって岩村高俊のようなキョロマをやるとは、じつに国家の大事をあやまるものだ」 と言い、大久保をなじり、人事をひるがえすよう忠告した。キョロマというのは倨倣で無思慮な行動家、というほどの意味の長州言葉であり、上方でいうケトッパチというのと語感が似ている。 が、大久保はきかなかった。(キョロマだから、使うのだ)と大久保はおもっているが、わざと説明しない。(略)木戸も百戦の政治家である。そこを見抜いた。 残念ながら木戸が登場するのはこれが最後である。江藤新平と大久保利通の一対一の対決を強調するための、作者の小説技法なのだろう。 大久保は狙った獲物は逃がさなかった。彼は迅速に動いた。軍事、刑罰の全権を受けて自ら佐賀に乗り込んだ。反乱後、江藤は頼みとする薩摩や土佐の援助を得られずに孤立し、ついに捕えられた。佐賀に連れ戻され、かたちばかりの裁判が行われ、「除族のうえ、梟首、申しつける」と判決文が読まれた。 「裁判長、私は」ということばを最後まで言いきれずに退廷させられ、即日刑は執行された。執行場で、江藤は同じことばを三度さけんだ。 「ただ皇天后土のわが心を知るあるのみ」 江藤を死に追いやったのは大久保であろうが、間接的には旧佐賀藩だったかもしれない。「薩長土肥」という第4勢力に甘んじなければならなかった自信に満ちた能弁家の悲劇は、幕末のぎりぎりまで日和見を貫いた佐賀藩が招いた悲劇だったともいえるだろう。 * * * さて、「歳月」ではこの裁判における木戸孝允の動向にまったく触れていないので、筆者はあえて佐木隆三著「司法卿・江藤新平」の最後を飾る文を引用して本稿を終了したいとおもう。木戸は前年に同郷の槙村正直京都府参事の裁判沙汰で、彼を庇ったのと同じ論理をもって、当時、司法卿として槙村を執拗に追い詰めていた江藤新平を庇ったのである。 <引用文> 参議にして文部卿兼内務卿の木戸孝允は、佐賀へ護送される江藤新平が、佐賀裁判所において死刑判決を申し渡されても、司法卿の大木喬任の裁可を受け、さらに内務卿へ取りはからうべきであるから、ただちに執行されるなど、夢にも思わなかった。 木戸孝允は、明治6年10月20日、太政官正院への「上書」に記した。 「臣孝允は、刑罰を軽減あるいは赦す「特命」があることを知る。しかし、加刑する『特命』は、これまで聞いたことがない。もし加刑する『特命』があるのなら、法律を用いる必要のないことは、童子も知るところである」 そのことを思い出しながら、木戸孝允は、太政大臣の三条実美へ、江藤新平を減刑するために、さっそく書簡をしたためた。 「江藤新平をはじめとして、その一統が縛についたことを、一度はよろこび、一度は嘆いております。もともと同人も、征韓論の巨魁につき、今日すでに政府が、国力をかたむけて台湾の御征伐を決したからには、彼らが裁判において、申し渡しに服罪したならば、その先鋒を仰せつけられてはいかがでしょうか。 今日、国論の唱えるところは、すなわち昨年、江藤新平らが唱えたことであります」 (注) 江藤新平の経歴については「人物紹介」の佐賀藩(すこし修正しました)をご覧ください。 |