中原中也の詩



冬の長門峡

長門峡に 水は流れてありにけり
寒い寒い日なりき

われは料亭にありぬ
酒酌みてありぬ

われのほか別に
客とてもなかりけり

水は、恰も魂あるものの如く
流れ流れてありにけり

やがても蜜柑の如き夕陽
欄干にこぼれたり

ああ――そのやうな時もありき
寒い寒い 日なりき


中原中也記念館

平成6年2月18日に開館。昭和47年に火事で焼失した中也の生家跡に建てられた。火事の際に運び出された中也の遺稿や遺品を中心に、貴重な資料を公開している。

開館時間  
5月〜11月 9:00〜18:00
11月〜4月 9:00〜17:00

休館日
月曜日(祝祭日の場合はその翌日)、毎月最終火曜日
年末年始(12月29日〜1月3日)

入館料
一般 310円 大学生 210円 小・中・高校生 150円
70歳以上は無料 (団体割引あり)

場所  山口市湯田温泉1−11−21
電話  083-932-6430
URL  
http://www.chuyakan.jp/



中原中也略歴

明治40年(1907)4月29日 現在の山口市湯田温泉に生まれる。下宇野令小学校、山口師範付属小学校から山口中学に入学。
大正9年(13歳)、「婦人画法」に短歌「筆とりて」入選。短歌投稿や文学に熱中して落第、京都の立命館中学に転校する。
長谷川泰子を知り、大正13年に同棲。富永太郎、高橋新吉の影響を受けて詩を書きはじめ、ダダイズムの詩、小説、戯曲などの習作を著す。
大正14年、泰子とともに上京、小林秀雄、永井龍男を知るが、11月に泰子は小林のもとに去る。
昭和2年、河上徹太郎を知り、同4年「白痴群」を創刊。
昭和8年、郷里で上野孝子と結婚、二人で上京後、訳詩集「ランボオ詩集」や第一詩集「山羊の歌」を刊行。
9年、長男文也が生れるが、11年11月には死亡。同年12月、次男愛雅誕生。その後、神経衰弱が嵩じて12年1月、千葉の中村古峡療養所に入院、2月に退院し鎌倉扇ヶ谷に転居する。
同年4月、文学界に「冬の長門峡」を発表。やがて心身の疲労が激しくなり、帰郷を考えるが10月6日、鎌倉養生院に入院、22日に結核性脳膜炎で没した。享年30。のちに郷里の菩提寺長楽寺に葬られる。
昭和13年、愛雅死亡。4月、小林秀雄に託した第二詩集「在りし日の歌」が創元社より刊行される。


山羊の歌より 
「汚れちまった悲しみに……」

汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる

汚れちまった悲しみは たとへば狐の革衣
汚れちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる

汚れちまった悲しみは なにのぞむなくねがふなく
汚れちまった悲しみは 懈怠のうちに死を夢む

汚れちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる……


在りし日の歌より
「北の海」

海にいるのは あれは人魚ではないのです。

海にいるのは あれは 浪ばかり。

曇った北海の空の下 浪はところどころ歯をむいて
空を呪っているのです。 いつはてるとも知れない呪。

海にいるのは あれは人魚ではないのです。
海にいるのは あれは 浪ばかり。


「月夜の浜辺」

月夜の晩に ボタンがひとつ
波打際に 落ちていた。
それを拾って 役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを 袂に入れた。

月夜の晩に ボタンが一つ
波打際に 落ちていた。

それを拾って 役立てようと
僕は思ったわけでもないが
月に向ってそれは抛れず
浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを 袂に入れた。

月夜の晩に 拾ったボタンは
指先に沁み 心に沁みた。

月夜の晩に 拾ったボタンは
どうしてそれが 捨てられようか?



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